新城島
日本の沖縄県八重山諸島にある島群
新城島︵あらぐすくじま︶は、沖縄県八重山郡竹富町に属する八重山列島の島である。上地島︵かみじじま[3]、かみぢじま[4][1][5]︶及び下地島︵しもじじま[3]、しもぢじま[4][1][5]︶の2つの島の総称である。
上地島 | |
---|---|
所在地 | 日本(沖縄県八重山郡竹富町) |
所在海域 | 東シナ海 |
所属諸島 | 八重山列島 |
座標 | 北緯24度14分02秒 東経123度56分40秒 / 北緯24.23389度 東経123.94444度座標: 北緯24度14分02秒 東経123度56分40秒 / 北緯24.23389度 東経123.94444度 |
面積 | 1.76[1] km² |
海岸線長 | 6.2[2] km |
最高標高 | 13.1 m |
プロジェクト 地形 |
下地島 | |
---|---|
所在地 | 日本(沖縄県八重山郡竹富町) |
所在海域 | 東シナ海 |
所属諸島 | 八重山列島 |
座標 | 北緯24度12分56秒 東経123度55分46秒 / 北緯24.21556度 東経123.92944度 |
面積 | 1.58 km² |
海岸線長 | 4.8 km |
最高標高 | 20.4 m |
プロジェクト 地形 |
地理
編集
新城島は、西表島の南東約7km、石垣島の南西約23kmの石西礁湖に位置する[8]。上地島と下地島からなり、2島の間は約420mある[8]が、東側はリーフで繋がっており、大潮の干潮時にはリーフの一部が水面上に現れて、歩いて渡ることができる[9]。
上地島は、東北から南西方向に細長く延びた島で、同方向の長さが約2.5km、最大幅が約0.7km[9]。大部分は森で覆われている。集落は西海岸中部にあり、2001年時点で26戸の家屋が残っていた[7]が、常時住んでいる人口は10人未満である[10]。
下地島は、南北方向約1.3km、東西方向約1.5kmの略半円形の島である[9]。集落は現存しない[4]。かつての集落は北部に位置していた。現在は牧畜業が営まれ、外周部の森と海岸以外は全体が肉用牛の牧場になっている。下地島に滞在しているのは牧場の管理人のみである[11]。
自然
編集
全域が西表石垣国立公園に含まれる。
島周辺は、かつての南西諸島におけるジュゴンの最大の生息地の一つであったとされる。新城島ではジュゴンの捕獲が許可され、その干し肉を人頭税の一部として琉球王府に献納していた[12]。現在では沖縄本島近海以外ではジュゴンは絶滅したと考えられているが、新城島近海での目撃例があり[注釈1]、2020年度には新城島沿岸でジュゴン喰み跡が確認されている[14]。
八重山列島の他の島と同様に、野生化したインドクジャクが繁殖していたが、2006年から2009年にかけて集中的に駆除された[15][16]。
人口
編集年度 | 2005年 | 2006年 | 2007年 | 2008年 | 2009年 | 2010年 | 2011年 | 2012年 | 2013年 | 2014年 | 2015年 | 2016年 | 2017年 | 2018年 | 2019年 | 2020年 | 2021年 | 2022年 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
人口 | 上地島 | 5人 | 6人 | 9人 | 8人 | 10人 | 10人 | 11人 | 14人 | 13人 | 13人 | 12人 | 13人 | 10人 | 12人 | 9人 | 10人 | 10人 | 11人 |
下地島 | 2人 | 2人 | 2人 | 2人 | 3人 | 3人 | 2人 | 3人 | 2人 | 2人 | 2人 | 2人 | 2人 | 2人 | 1人 | 1人 | 2人 | 2人 |
なお、住民基本台帳の基礎となる住民登録上では住所を新城島に置いていても、実際には石垣島や西表島にも家があり、新城島との間を行き来している人が多い[18]。
歴史
編集
成宗8年︵1477年︶に朝鮮の済州島の漂流民3人が与那国島の島民に救助され、島伝いに送還された際に残した記録が﹃李朝実録﹄に収められている。漂流民は、﹁捕月老麻伊是麼﹂︵波照間島︶の次に﹁捕剌伊是麼﹂に送られたとあり、これが新城島のこととみられる。波照間島からは一昼夜で着き、島は平坦で2日ほどで一周できた。民家は40戸余で、男女ともに青い玉を腕輪や足輪としていた。また、キビやアワ、麦が栽培されていたが、米は西表島で入手していたという[20][21]。
近世初頭には、琉球王国の2島・6間切のうち黒島に属し、1628年に3間切に再編された後は石垣間切に属した。水田がないため、島民は西表島の南風見村に船で通って耕作を行った。
17世紀頃から19世紀中頃にかけてはパナリ焼きと呼ばれる素焼きの土器が生産され、八重山列島各地に流通していた。由来や製法には不詳な点が多いが、新城島に漂着した中国人から伝えられたともいわれ、粘土にタブノキの粘液やヤコウガイ等の貝殻片を混ぜて手びねりで成形し、カタツムリ等の貝類の粘液を塗って整形して、露天で焼成したとされる[8][22]。
1893年︵明治26年︶に八重山列島を訪れた笹森儀助は、西表島南風見村の東の海岸に新城島や黒島の農民の耕作小屋が6、7軒あると記録している[23]。南風見村は1920年︵大正9年︶に廃村となったが[24]、1938年︵昭和13年︶に新城島からの入植が始まり、大原集落が形成された[25]。第二次世界大戦の沖縄戦では新城島民は大原集落への疎開を命じられたが、同地でマラリアにかかる者が多発し︵戦争マラリア︶、1945年︵昭和20年︶には島の人口255名中、24名が死亡している[26]。
下地島では1953年︵昭和28年︶6月6日に大原中学校下地分校が、1954年︵昭和29年︶4月5日に大原小学校下地分校がそれぞれ廃校となり[27]、1955年︵昭和30年︶頃から西表島や石垣島への転出が増加した。そして、1962年︵昭和37年︶8月に最後の住民が上地島に移転して、下地島は廃村となった[28][29][30]。1965年︵昭和40年︶10月1日には、パナリ牧場組合が下地島全体を牧場として牧畜を開始している[31]。
上地島では、1963年︵昭和38年︶に上地中学校が大原中学校に統合された頃から、子供の中学進学とともに島民が一家で島を離れるようになった[7]。1975年︵昭和50年︶2月23日には、長年望まれていた西表島からの海底送水が実現した[32]が、同年3月に、過疎化のため上地小学校は廃校となった[7]。1988年︵昭和63年︶3月22日には海底送電が開始され、1日15時間の制限給電から24時間給電になった[28]。
前述の通り、2022年︵令和4年︶現在では、新城島の人口は住民基本台帳上でも13人にとどまっている。
産業
編集観光
編集
観光業者が石垣島等からのツアーを催行している[33]。また、西表島からシーカヤックでのツアー等も行われている。なお、2005年︵平成17年︶3月に、西表島からのシーカヤックツアーの帰路でガイドを含め3人が死亡する事故が発生している[34][35]。2009年︵平成21年︶にはシュノーケリング中の死亡事故も発生している[36]。
新城島への年間入域観光者数は2008年︵平成20年︶までは概ね1千人台だったが、2009年︵平成21年︶以降は2千人を超え、2013年︵平成25年︶以降は3千人前後となっている︵コロナ禍後を除く︶。
- 年間入域観光客数[37]
年度 | 1990年 | 1995年 | 2000年 | 2005年 | 2006年 | 2007年 | 2008年 | 2009年 | 2010年 | 2011年 | 2012年 | 2013年 | 2014年 | 2015年 | 2016年 | 2017年 | 2018年 | 2019年 | 2020年 | 2021年 | 2022年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
人数 | 1,776人 | 1,678人 | 1,780人 | 1,240人 | 1,224人 | 1,874人 | 1,931人 | 2,623人 | 3,195人 | 2,596人 | 2,248人 | 3,190人 | 3,529人 | 3,175人 | 2,974人 | 2,938人 | 3,097人 | 3,262人 | 1,483人 | 136人 | 319 人 |
かつて1972年︵昭和47年︶3月にヤマハリゾートが、小浜島を拠点に、上地島、西表島︵仲間川河口のヤッサ島︶を結ぶ開発計画を公表。ヤッサ島は農地法により土地の転用ができなかったため開発が断念され、小浜島及び上地島での開発が行われた。小浜島にははいむるぶしが開業。上地島では竹富町立上地島小学校跡地及び私有地を買収し、はいむるぶしの別館﹁はいむるぶしパナリ﹂として5室の宿泊施設が建設され、一時稼動していた[28][38][39]。このリゾート開発は、1984年︵昭和59年︶に石原慎太郎が発表し、1998年︵平成10年︶に映画化された﹁秘祭﹂のモデルになったとされる[40]。その後、宿泊施設跡は新城島公民館に無償譲渡されて、建物は解体されている[28][41]。
畜産
編集公共施設
編集
金融機関や郵便局[注釈3]、商店・公衆電話・公衆便所・警察署・駐在所・消防署・診療所・信号はない。
1975年︵昭和50年︶に廃校になった上地島の竹富町立上地島小学校跡は、企業の所有地となっていたが、新城公民館が出身者から寄付を募って用地を取得し、2014年︵平成26年︶に公民館施設を兼ねた防災施設が完成している。鉄筋コンクリート構造2階建て、建築面積225m2で、1階には集会所、舞台、研修室が設けられ、2階はライフジャケットや食糧を備蓄する防災備蓄庫とされている。海抜が4mの集落で津波の際の避難場所を確保するため、外階段でつながる屋上は海抜13mを確保している[42][43]。
インフラ
編集名所・旧跡・自然その他
編集文化財
編集- 国指定史跡
- 竹富町指定史跡
- 竹富町指定無形民俗文化財
- 越の頂節、サーサー節、パナリヤーマーぬ前の海、越後節 - 竹富町指定無形民俗文化財(民謡の部)
- 越の頂節、サーサー節、パナリヤーマーぬ前の海、クイヌウベ狂言、節祭の巻踊 - 竹富町指定無形民俗文化財(舞踊・狂言の部)
旧跡
編集
新城島には古琉球から近世にかけての遺跡が多数ある[51][52]。
上地島
●ニシヌブシヌヤー遺跡 - 島の北端近くの海岸にある。砂浜に突き出た崖の上に約30m四方の石垣が築かれており、土器や陶磁器が見つかっている。ニシヌブシヌヤーは﹁北の武士の館﹂という意味で、かつて武士の館があったともいわれる。
●ポンヤマー遺跡 - ニシヌブシヌヤーから南西に約200mの海岸にある。ニシヌブシヌヤー同様に、砂浜に突き出た崖の上に石垣が築かれており、規模はニシヌブシヌヤーより大きい。一辺3mほどの方形の石積墓が6基あり、やはり土器や陶磁器が見つかっている。ニシヌブシヌヤー︵北の武士の館︶に対してパイヌブシヌヤー︵南の武士の館︶とも呼ばれる。
●ウブドゥムル遺跡 - ウブドゥ村の跡といわれ、屋敷囲いがある。
下地島
●ナーシキ貝塚 - 八重山式土器やパナリ焼などが発掘された。
●伝ウィスク村跡遺跡 - 大量の土器と輸入陶磁器が発掘されている。
●伝ナーメ村跡遺跡
●伝フザトゥ村跡遺跡
●伝マヒヤン村跡遺跡
●伝アラスク村跡遺跡
●伝フカバレー村跡遺跡
御嶽
編集
新城島には12の御嶽がある[53]。
上地島
●アールウガン︵東御嶽︶ - 集落の東側にある。イショーウガン︵磯御嶽︶とも呼ばれる。かつて新城島は琉球王府から人頭税としてジュゴンの干し肉の上納を義務付けられており、この御嶽にジュゴンの頭骨を奉納して豊漁を祈願した。
●イルウガン︵西御嶽︶ - 集落の西側にある。
●ナハウガン︵美御嶽︶ - 集落の北側にある。
●パンガナシヰウガン︵シヰサブエーヌ御嶽︶ - 集落から離れた東側にある。
下地島[53]
下地島には8つの御嶽があり、八御嶽︵ヤーヤマ︶と呼ばれた。1964年︵昭和39年︶に解願︵パジニガイ︶が行われてすべての祭祀が停止しており、1984年︵昭和59年︶以降、各御嶽には記念碑が建立されている。
●アーリウワン︵東御嶽︶ - 島の東北海岸にある。
●イリウワン︵西御嶽︶ - 島の南西海岸にある。
●パンゾウワン︵繁盛御嶽︶ - 東御嶽と同じ敷地にある。
●ナナゾウワン︵七門御嶽︶ - 島の北海岸付近に位置する。7つの入口があることから名づけられた。イショーワン︵磯御嶽︶とも呼ばれる。100頭余のジュゴンの頭骨が奉納されている[54]。
●ナハヤマワン︵中山御嶽︶ - アカムタ御嶽ともいう。
●マラパイヤワン︵マラパイヤ御嶽︶ - 水の神を祀る。
●ナハスコワン︵中城御嶽︶ - 島の中心部にある。
●カンヤドゥルワン︵神宿る御嶽︶ - 島の中心部にある。
海岸・海
編集
●浜崎海岸 - 上地島の南部にあり、下地島を望むことができる[55][56]。
●恋路ヶ浜 - 上地港の近くに位置する[57]。
●新城島マイビシ海域公園地区 - 上地島の北西1km沖に位置する西表石垣国立公園の海域公園地区のひとつ。面積179.7ha。1977年︵昭和52年︶7月1日指定、2012年︵平成24年︶3月27日拡張[58][59]。竜宮の根と呼ばれるダイビングポイント等がある[60]。
下地島南の海岸
下地島南西端の海岸
新城島沖のサンゴ
祭事・催事
編集交通
編集空港
編集空港はない。上地島に急患空輸等のためのヘリポートが整備されている[61]。
港湾
編集
●上地港 - 日本最南端の地方港湾。上地島の集落近くに位置する[62][63]。防波堤、物揚場、船揚場等が整備されている[64]が、竹富町では上地港への浮桟橋設置を要望している[65]。定期航路はなく、ツアー船またはチャーター船の利用が一般的である。なお、新城公民館から要請があった場合には、石垣島-西表島間の定期船が臨時寄港することがある[39][66]。
●下地港 - 下地島北端にある港。定期航路はない。
脚注
編集注釈
編集出典
編集
(一)^ abc“平成28年全国都道府県市区町村別面積調 島面積” (PDF). 国土地理院. p. 108 (2014年10月1日). 2015年3月16日閲覧。
(二)^ 石垣港離島ターミナル 八重山諸島データ
(三)^ ab“新城島”. 沖縄観光情報WEBサイト おきなわ物語. 沖縄観光コンベンションビューロー. 2021年9月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月25日閲覧。
(四)^ abc“新城島”. 竹富町. 2023年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月10日閲覧。
(五)^ abc“竹富町”. 知・旅・住 離島総合情報サイト 沖縄のしまじま. 2018年3月10日閲覧。
(六)^ 崎原恒新﹃八重山ジャンルごと小事典﹄ボーダーインク、1999年8月1日、p.208
(七)^ abcd“贅沢な時間の流れる宝の島 ~バランスを考えた島の方向性~”. やいまタイム︵月刊やいま 2001年12月号︶. 南山舎 (2001年12月). 2018年8月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月10日閲覧。
(八)^ abc山崎真治 著﹁伝説の土器・パナリ焼きを探る﹂、沖縄県立博物館・美術館 博物館班 編﹃鳩間島・新城島・黒島総合調査報告書﹄︵PDF︶沖縄県立博物館・美術館、2016年3月、93-107頁。2018年3月10日閲覧。
(九)^ abc仲里健 著﹁鳩間島・黒島・新城島︵上地・下地︶の地質﹂、沖縄県立博物館・美術館 博物館班 編﹃鳩間島・新城島・黒島総合調査報告書﹄︵PDF︶沖縄県立博物館・美術館、2016年3月、1-11頁。2018年3月10日閲覧。
(十)^ 山﨑仁也 著﹁鳩間島・新城島︵上地・下地︶・黒島の植物相︵FLORA︶﹂、沖縄県立博物館・美術館 博物館班 編﹃鳩間島・新城島・黒島総合調査報告書﹄︵PDF︶沖縄県立博物館・美術館、2016年、16-37頁。2018年3月10日閲覧。
(11)^ “巨樹・巨木との遭遇(17)シマグワ”. やいまタイム︵月刊やいま 2012年8月号︶. 南山舎 (2012年8月). 2018年8月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月24日閲覧。
(12)^ “ジュゴンが首里城に献上されたという記録はあるか。”. レファレンス協同データベース. 2017年10月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月10日閲覧。
(13)^ 荒井修亮 (2011年). “ジュゴン Dugong dugong -沖縄におけるジュゴンの生態に関する文献等調査-” (PDF). 京都大学大学院情報学研究科. 2013年12月20日閲覧。
(14)^ “ジュゴンの喰み跡確認 西表、新城、黒島など4島 八重山で生息の可能性 環境省調査”. 八重山毎日新聞. (2021年4月9日). オリジナルの2021年4月9日時点におけるアーカイブ。
(15)^ “新城のインドクジャク 計116羽を駆除”. 八重山毎日新聞. (2009年7月17日). オリジナルの2009年7月21日時点におけるアーカイブ。
(16)^ “外来生物次々と侵入 広がる生態系への影響”. 八重山毎日新聞. (2010年1月2日). オリジナルの2012年7月22日時点におけるアーカイブ。
(17)^ “島しょ別住民基本台帳人口及び世帯数”. 沖縄県. 2018年3月10日閲覧。
(18)^ “パナリへ郵便配達”. やいまタイム (南山舎). (2014-10). オリジナルの2018-08-11時点におけるアーカイブ。.
(19)^ “35年ぶりに故郷で運動会 石垣在新城郷友会”. 八重山毎日新聞. (2015年5月4日). オリジナルの2015年7月24日時点におけるアーカイブ。
(20)^ 町史 2013, pp. 97–101.
(21)^ “李朝実録”. 2023年3月23日閲覧。
(22)^ “︻白洲信哉 旅と美︼琉球の魂詰まったパナリ焼︵沖縄県新城島︶”. 産経ニュース. (2016年9月30日). オリジナルの2023年3月23日時点におけるアーカイブ。
(23)^ 笹森儀助﹃南嶋探験﹄1894年、161頁。
(24)^ “沿革1︵大正2年~大正14年︶”. 竹富町. 2022年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月25日閲覧。
(25)^ “大原集落発祥の地”. 沖縄文化・観光ポータルサイト︵OKINAWAN-PEARLS︶. 内閣府沖縄総合事務局. 2023年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月25日閲覧。
(26)^ 斉藤美加. “強制避難”. 八重山のマラリア史. 2022年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月25日閲覧。
(27)^ 岸本弘人、石垣忍 著﹁鳩間島・黒島・新城島における石碑・記念碑等の調査報告﹂、沖縄県立博物館・美術館 博物館班 編﹃鳩間島・新城島・黒島総合調査報告書﹄︵PDF︶沖縄県立博物館・美術館、2016年3月、109-146頁。
(28)^ abcd町史 2013, p. 10.
(29)^ “新城・下地島、廃村から半世紀 郷友ら古里しのぶ、68年ぶりに訪れた出身者も”. 八重山毎日新聞. (2012年5月21日). オリジナルの2017年10月7日時点におけるアーカイブ。
(30)^ ﹁竹富町のあゆみ﹂︵PDF︶﹃竹富町史だより﹄第35号、竹富町、2014年3月31日。
(31)^ ab町史 2013, pp. 385–390.
(32)^ abc“竹富町のあゆみ”. 竹富町. 2018年3月10日閲覧。
(33)^ “新城島”. ぱいぬ島ストーリー. 竹富町観光協会. 2023年3月23日閲覧。
(34)^ “新城島付近シーカヤックの3人不明 観光客親子とガイド”. 八重山毎日新聞. (2005年3月24日). オリジナルの2015年4月27日時点におけるアーカイブ。
(35)^ “母娘ら3人の捜索打ち切る 石垣海上保安部”. 八重山毎日新聞. (2005年4月3日). オリジナルの2015年4月27日時点におけるアーカイブ。
(36)^ “観光の67歳男性水死 シュノーケリング中”. 八重山毎日新聞. (2009年6月18日). オリジナルの2009年7月7日時点におけるアーカイブ。
(37)^ 竹富町観光入域者数 竹富町
(38)^ 三木健﹃リゾート開発-沖縄からの報告﹄三一書房、1990年7月、90-91頁。
(39)^ ab斎藤潤 (2021年1月8日). “在りし日の島影︵7︶跡形もなくなっていたパナリのリゾート施設”. 離島経済新聞. オリジナルの2021年10月24日時点におけるアーカイブ。
(40)^ ab安藤健二 (2017年8月8日). “撮影禁止の看板が埋め尽くす秘祭﹁アカマタ・クロマタ﹂。石垣島で私が見たものは...”. ハフポスト日本版. オリジナルの2017年8月8日時点におけるアーカイブ。
(41)^ 松村正治﹁八重山諸島におけるツーリズム研究のための基礎調査--竹富島・西表島・小浜島の人々と自然とのかかわりの変遷 アジア・太平洋の環境・開発・文化 (2), pp.140-202、2001年3月30日、未来開拓大塚プロジェクト事務局
(42)^ “新城に防災施設 竹富町”. 八重山毎日新聞. (2014年9月19日). オリジナルの2014年9月19日時点におけるアーカイブ。
(43)^ “防災施設が落成 ﹁住民の心のよりどころに﹂ 新城島”. 八重山日報. (2014年9月30日). オリジナルの2017年10月7日時点におけるアーカイブ。
(44)^ “海底送水管を整備へ16年度から2年間かけ更新”. 八重山毎日新聞. (2016年1月13日). オリジナルの2016年3月15日時点におけるアーカイブ。
(45)^ 永野寛, 三友仁志、﹁沖縄県離島部の生活環境の充実に向けたブロードバンド整備の方向性﹂﹃アジア太平洋研究﹄ 2012年3月18巻 p.67-95, ISSN 1347-149X, 早稲田大学アジア太平洋研究センター
(46)^ 離島におけるICT利活用促進に関する調査 (PDF) 都市科学政策研究所野村総合研究所共同企業体、2014年8月5日
(47)^ “タカニク”. 沖縄・竹富ポータルサイト ぱいぬ島時間. 竹富町. 2023年3月24日閲覧。
(48)^ “タカニク”. やえやまなび. 南山舎. 2023年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月24日閲覧。
(49)^ “クイヌパナ”. 沖縄・竹富ポータルサイト ぱいぬ島時間. 竹富町. 2023年3月24日閲覧。
(50)^ “クイヌパナ”. やえやまなび. 南山舎. 2023年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月24日閲覧。
(51)^ 町史 2013, pp. 77–95.
(52)^ 沖縄県教育庁文化課 編﹃ぐすく グスク分布調査報告書III 八重山諸島﹄︵レポート︶沖縄県教育委員会︿沖縄県文化財調査報告書113﹀、1994年3月31日、78-85頁。
(53)^ ab町史 2013, pp. 414–418.
(54)^ “ジュゴンの生息域調査 北海道大の大泰司研究員ら”. 八重山毎日新聞. (2012年12月9日). オリジナルの2013年3月16日時点におけるアーカイブ。
(55)^ “浜崎海岸”. 沖縄・竹富ポータルサイト ぱいぬ島時間. 竹富町. 2023年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月24日閲覧。
(56)^ “浜崎”. やえやまなび. 南山舎. 2023年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月24日閲覧。
(57)^ “恋路ヶ浜”. やえやまなび. 南山舎. 2023年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月24日閲覧。
(58)^ “西表石垣国立公園_概要・計画書”. 環境省. 2018年8月11日閲覧。
(59)^ “西表石垣国立公園の公園区域及び公園計画の変更︵H24.3.27 告示︶の概要”. 環境省. 2018年8月11日閲覧。
(60)^ “ダイビングエリア︵ポイント︶のご紹介”. 一般社団法人八重山ダイビング協会. 2022年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月25日閲覧。
(61)^ “八重山要覧︵令和2年度版︶ 第4章 生活環境施設等” (PDF). 沖縄県. p. 78. 2023年3月25日閲覧。
(62)^ みなとマメ知識 (PDF) 国土交通省
(63)^ 上地港 沖縄県
(64)^ 上地港 (PDF) 沖縄県土木建築部港湾課
(65)^ “第2次竹富町海洋基本計画”. 竹富町 (2018年6月). 2022年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月25日閲覧。
(66)^ “新城島への旅立ち” (PDF). 総合学習教材・素材集CD-ROM﹁結び合うしま島﹂. 沖縄県教育コンテンツ活用推進協議会. 2022年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月23日閲覧。
参考文献
編集- 竹富町史編集委員会 編『竹富町史 第五巻 新城島』2013年11月30日。
関連項目
編集外部リンク
編集- 竹富町(公式サイト)
- 竹富町観光協会
- 新城島 - 八重山物語(石垣市経済振興公社)
- 新城島 - おきなわ物語(沖縄観光コンベンションビューロー)
- 新城島 - 沖縄しまさんぽ(沖縄観光コンベンションビューロー)