自公連立政権

2012年から現在の日本国の行政を担っている政権
自公連立から転送)





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現在の第2次岸田第2次改造内閣
自由民主党と公明党による初の連立政権である小渕第2次改造内閣、当時は自由党を含めた「自自公連立政権」であった。

概説

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歴史

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自由民主党の55年体制時代

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55年体制末期はねじれ国会のもとでの与野党提携の必要から自公民路線が確立されていたが、自民党側では竹下派の小沢一郎が両党とのパイプ役を担っていた。

55年体制崩壊と公明党の連立参画

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自自公から自公保へ

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自自公連立政権が発足した後、自民党は自由党の処理に困っていた。仮に自由党が離反しても衆参で過半数を維持できるためである。実際、連立政権合意に盛り込まれた消費税の福祉目的税化などについて、自民党が協議に応じる気配は一向になかった。危機感を強めた自由党の小沢は小渕に連立合意の実行に加えて、自民、自由両党の解党による政界再編を迫った。しかし、小渕はこれを受け入れるには至らず、2000年(平成12年)4月1日の党首会談後、自由党は連立を離脱した。連立離脱に反対した自由党所属の議員は、扇千景を党首とし保守党を立ち上げ(2002年(平成14年)に保守新党へ変更)、自公保連立政権が成立した。また翌2日、小渕が脳梗塞に倒れた。

自公保連立政権となった後に実施された第42回衆議院議員総選挙では、自民党・公明党・保守党それぞれが議席を減らすも、連立政権として過半数を維持した。

小泉フィーバーから自公連立へ

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2001年(平成13年)、小泉純一郎自民党総裁が首相に就任し第1次小泉内閣が誕生すると、小泉純一郎の人気に推されて自民党人気が復活。軒並み選挙では小泉人気に比例し勝利を重ね、自民党と公明党は議席を伸ばした。一方で保守新党は議席を減らし、2003年(平成15年)11月、自民党に吸収される形で解散、自公連立政権となる。2005年(平成17年)、郵政民営化を巡る争いで衆議院が解散第44回衆議院議員総選挙が実施され、自民党は大勝したが公明党は逆に議席を減らす結果になった。

麻生内閣の第45回衆院選大敗、民主党に政権交代、自公下野

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任期満了に近い状態で2009年(平成21年)8月に実施された第45回衆議院議員総選挙では、自民党・公明党ともに大敗。民主党・社会民主党国民新党による民社国連立政権の成立を許すことになった。同年9月16日に麻生内閣は総辞職し、自自公、自公保を含め、約10年間にわたる連立に終わりを告げた。総選挙で落選した太田は当初代表続行を宣言したが連立内閣樹立直前の9月8日付けで公明党代表を退き、後任には山口那津男が就いた。

第46回衆院選大勝、第2次安倍内閣より自公連立復活

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憲法改正へ

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与党関係

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自由民主党の立場

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自由民主党(自民党)は政権与党になった際はいずれの場合も最大多数派政党であり、自公連立政権においても主導的立場にある。

自公連立政権ではいずれの内閣においても、内閣総理大臣には自由民主党総裁が就任し、国務大臣、副大臣大臣政務官の大半が自民党所属の議員である。

公明党の立場

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自公連立政権への批判

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選挙

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簿[1]

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創価学会と同じ日蓮正宗系だった冨士大石寺顕正会も、公明党の与党入りをきっかけに自民党に対して批判的な立場へと変わった。

生長の家は、1990年代に顕在化した本流運動と呼ばれる教団幹部同士の対立も重なり、対自民党中心だった政治活動から事実上撤退。第2次安倍内閣以降は顕正会と同じく、日本会議にも反対の態度を見せ始めた。

政策

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公明党は連立樹立前には「福祉の党」、「平和の党」を訴え、「保守的な自民党の暴走を防止するブレーキの役割を果たす」と主張している[11]

自公連立政権で成立、改正した主な法律

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以下は自自公、自公保連立政権時代に成立したものも含む。

脚注

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注釈

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(一)^ 1955301

(二)^ 使3

(三)^ 19968

(四)^ 1

出典

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(一)^ abcd  2004415ISBN 978-4104673018 

(二)^ 20078272010830

(三)^ 2012. YOMIURI ONLINE. (20121217). https://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2012/?from=ygnav 20121221 

(四)^ 1 20171023

(五)^  (20171023). .  (). https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171023/k00/00m/010/343000c 20171220 

(六)^  11.... J-CAST. (2020919). https://www.j-cast.com/2020/09/19394785.html?p=all 2020921 

(七)^   . DIGITAL. (2013125). http://www.asahi.com/articles/TKY201312040615.html 2015429 []

(八)^ . DIGITAL. (20141127). http://www.asahi.com/articles/ASGCW6HPTGCWUTFK00R.html 2015429 

(九)^ 44/4. . (2014126). https://web.archive.org/web/20170819151229/http://www.sankei.com/premium/news/141206/prm1412060020-n4.html 2015429 

(十)^  .  (). (202098). https://mainichi.jp/articles/20200908/k00/00m/010/139000c 202098 

(11)^   2005917

関連項目

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