55年体制末期はねじれ国会のもとでの与野党提携の必要から自公民路線が確立されていたが、自民党側では竹下派の小沢一郎が両党とのパイプ役を担っていた。
そんな中行われた1996年︵平成8年︶の第41回衆議院議員総選挙で新進党が政権取りに失敗すると、新進党内では権力争いや自民党からの引き抜き工作もあり崩壊寸前にまで至った。追い打ちをかけるように旧公明党の参院・地方議員を中心とする政党﹁公明﹂が新進党へ合流せず、1998年︵平成10年︶の第18回参議院議員通常選挙に独自で臨む事を決定。これを受けて1997年︵平成9年︶12月31日、新進党は自由党・改革クラブ・新党平和・新党友愛・黎明クラブ・国民の声の6党に分党することになった。
自民党は1998年︵平成10年︶7月の第18回参議院議員通常選挙で改選前の61から45に大幅に議席を減らした。この選挙の敗北の責任を取り橋本龍太郎内閣が総辞職し、同月30日に小渕恵三内閣が成立した。8月中旬、元首相の竹下登は創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談を行い、創価学会の協力を取り付けた[1]。
政権運営に行き詰った自民党はまず自由党との連立協議に入り、1998年︵平成10年︶11月、自自連立の基本合意が首相小渕恵三と小沢一郎自由党代表の間で取り交わされた。同年11月7日、旧公明党系の﹁新党平和﹂・﹁黎明クラブ﹂・﹁公明﹂が合流し、﹁公明党﹂を再結成。この際、代表の神崎武法は﹁自民党の補完勢力にはならない。自公連携、自公連立は考えていない﹂との考えを表明していた[1]。
自自公連立政権が発足した後、自民党は自由党の処理に困っていた。仮に自由党が離反しても衆参で過半数を維持できるためである。実際、連立政権合意に盛り込まれた消費税の福祉目的税化などについて、自民党が協議に応じる気配は一向になかった。危機感を強めた自由党の小沢は小渕に連立合意の実行に加えて、自民、自由両党の解党による政界再編を迫った。しかし、小渕はこれを受け入れるには至らず、2000年(平成12年)4月1日の党首会談後、自由党は連立を離脱した。連立離脱に反対した自由党所属の議員は、扇千景を党首とし保守党を立ち上げ(2002年(平成14年)に保守新党へ変更)、自公保連立政権が成立した。また翌2日、小渕が脳梗塞に倒れた。
自公保連立政権となった後に実施された第42回衆議院議員総選挙では、自民党・公明党・保守党それぞれが議席を減らすも、連立政権として過半数を維持した。
2001年(平成13年)、小泉純一郎自民党総裁が首相に就任し第1次小泉内閣が誕生すると、小泉純一郎の人気に推されて自民党人気が復活。軒並み選挙では小泉人気に比例し勝利を重ね、自民党と公明党は議席を伸ばした。一方で保守新党は議席を減らし、2003年(平成15年)11月、自民党に吸収される形で解散、自公連立政権となる。2005年(平成17年)、郵政民営化を巡る争いで衆議院が解散、第44回衆議院議員総選挙が実施され、自民党は大勝したが公明党は逆に議席を減らす結果になった。
麻生内閣の第45回衆院選大敗、民主党に政権交代、自公下野
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2006年︵平成18年︶、安倍晋三自民党総裁が首相に就任し第1次安倍内閣が誕生すると自民党は、年金記録問題や閣僚のスキャンダルが相次ぎ、その逆風を公明党もまともに受けた。2007年︵平成19年︶の第21回参議院議員通常選挙では自民党・公明党が議席を大きく減らし、民主党に参議院での比較第1党を許した。選挙後、安倍晋三・太田昭宏ともに代表辞任を否定した︵後に安倍は辞任︶。公明党は、選挙区で落選者を出し2勝3敗と負け越したため、支持母体の創価学会より執行部への責任論が浮上、支援者から責任を取れ、辞任しろという厳しい声まで上がった[2]。
その後も自民党と公明党は連携し政権を運営するが、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と三人続けてネガティブキャンペーンとして示された安倍おろし・福田おろし・麻生おろしなど、自民党内の権力闘争の問題から自民党の支持率が低下すると公明党は、早期解散を希望するようになる。
任期満了に近い状態で2009年(平成21年)8月に実施された第45回衆議院議員総選挙では、自民党・公明党ともに大敗。民主党・社会民主党・国民新党による民社国連立政権の成立を許すことになった。同年9月16日に麻生内閣は総辞職し、自自公、自公保を含め、約10年間にわたる連立に終わりを告げた。総選挙で落選した太田は当初代表続行を宣言したが連立内閣樹立直前の9月8日付けで公明党代表を退き、後任には山口那津男が就いた。
第46回衆院選大勝、第2次安倍内閣より自公連立復活
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反転攻勢のきっかけは、2010年︵平成22年︶7月の第22回参院選である。自民に代わって第一党となった民主党に加え、社会民主党︵社民党、代表・福島瑞穂︶・国民新党︵代表・亀井静香︶が連立を組み、民主党代表・鳩山由紀夫を首相とする民社国連立政権としてスタートしたものの、鳩山由紀夫内閣の失政と崩壊、続く菅直人の失言などに助けられて、自民党は51議席を獲得し、改選第一党となり与党の参院過半数獲得を阻止した。
2011年︵平成23年︶9月2日、菅直人内閣︵→1次改造→2次改造︶は東日本大震災︵同年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震による︶の対応不手際などで総辞職。代わって野田佳彦が首相となったものの、野田内閣︵→1次改造→2次改造→3次改造︶は発足当初から閣僚の不祥事や離党者が連発し、民主党は分裂寸前であった。2012年︵平成24年︶9月の総裁選で安倍晋三が返り咲きを果たすと、野田との党首討論で解散総選挙の言質を引き出すことに成功する。12月、第46回衆院選で民主党は大敗、自民党は絶対安定多数を超える294議席を獲得[3]︵その後鳩山邦夫が復党し295人︶、公明党も31議席を獲得し、3年3か月ぶりに与党復帰を果たした。同月25日、自由民主党総裁・安倍晋三は公明党代表・山口那津男と連立合意文書を交換。自公連立が3年3ヶ月ぶりに復活する事になり、12月26日、野田第3次改造内閣総辞職、第2次安倍内閣が発足した。
以降、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦と三人続けて短命政権に終わった民主党は党勢を政権獲得前にまで回復させることができず、低迷している。また、中堅野党の日本維新の会やみんなの党なども分裂・解党を繰り返しており、野党は停滞状況にある。そのため、2013年︵平成25年︶の第23回参院選で公明党と合わせて過半数割れを解消、2014年︵平成26年︶の第47回衆院選でも現有議席をほぼ維持するなど、与党優位の体制は継続している。
2016年︵平成28年︶の第24回参院選では、民進党︵民主党が改称︶・共産党・社民党・生活の党の野党4党が共闘し、全一人区で候補者を一本化︵民共共闘︶して選挙戦に臨んだが、その一人区では32選挙区中21勝11敗で勝ち越すなどして、自民党は追加公認も含め56議席を︵非改選と合わせて121議席︶、一方の公明党も選挙区7人が当選、参院選における選挙区で獲得した議席として結党以来歴代最多の圧勝。また、いわゆる﹁改憲勢力﹂︵自公におおさか維新の会、日本のこころを大切にする党、その他改憲に前向きな諸派・無所属議員を加えた勢力︶が衆参両院で3分の2を超え、憲法改正の発議要件を満たすことになった。その後、民主党を離党し無所属で活動していた平野達男が入党したことで、27年ぶりに参院単独過半数を回復した。
2017年︵平成29年︶10月の第48回衆議院議員総選挙では、野党第一党の民進党が分裂し希望の党と立憲民主党が総選挙直前に誕生、無所属などに分裂。それに伴い、民進党・共産党・社民党・自由党の革新系野党4党共闘の形が崩れ、野党勢力が保守系の希望・維新と革新系の立民・共産・社民の二手に分裂。これにより三大政党制を目指す戦略が奏功し、自民党は小選挙区で218議席︵うち無所属で当選後、公示日に遡って自民党公認となった議員3人を含む︶、比例代表で66議席の選挙前と同じ284議席を獲得する圧勝。また北関東ブロック、東京ブロック、南関東ブロック、近畿ブロック、中国ブロックでは小選挙区の候補者が比例復活も含めて全員当選した[4]。一方の公明党は立憲民主と希望の党の新党の間に埋没する形となったことも影響し、第45回衆議院議員総選挙以来9年ぶりに小選挙区︵神奈川県第6区︶で落選者が発生し小選挙区8議席、比例代表も定数削減のあおりを受け特に北関東ブロック・南関東ブロックを中心に得票を減らし21議席に終わり、合計29議席となり、目標としていた公示前議席維持の35議席を下回った[5]。
自由民主党(自民党)は政権与党になった際はいずれの場合も最大多数派政党であり、自公連立政権においても主導的立場にある。
自公連立政権ではいずれの内閣においても、内閣総理大臣には自由民主党総裁が就任し、国務大臣、副大臣、大臣政務官の大半が自民党所属の議員である。
公明党は連立政権内で国務大臣ポストを1人分割り当てられることが慣例となっており、2004年︵平成16年︶以降は、福田康夫改造内閣と麻生内閣で斉藤鉄夫が環境大臣を務めたのを除き、国土交通大臣を2年から4年間務めることが続いている[6]。
また、公明党代表経験者である太田昭宏が第2次安倍内閣で入閣した例があるが、他の連立政権とは異なり、自公連立政権においては現職党首︵公明党代表︶の入閣は一切ない[注1]。
公明党は﹁政権のブレーキ役﹂を自認するが、特定秘密保護法の成立などを見ても、自民党が主張する政策・法案の成立に大きく協力しており、﹁自民党の補完勢力﹂になっているとの指摘がある[7]。
自公連立政権誕生以来、公明党は自民党と対立しても最後は自民党の主張を大筋で受け入れることが多いため、﹁下駄の雪﹂と言われることもあるが、これについて公明党代表の山口那津男は、﹁公明党の役割を下駄に例えれば、鼻緒の役目を負っていると思う。鼻緒が切れれば、下駄は使い物にならない。単なる下駄の雪というのは極めて実態を見ない言い方だ﹂と反論している[8] [9]。
2010年代からは国政・地方選挙の応援運動を活動の主軸とした代表の山口に代わって、副代表の北側一雄が与党協議の前面に出る例が増えている[注2]。
山口は2020年︵令和2年︶9月12日に発売されたジャーナリストの田原総一朗の対談を収録した﹁公明党に問う この国のゆくえ﹂︵毎日新聞出版︶の中で、
●1999年︵平成11年︶10月の自自公連立政権への参加について﹁金融危機で政治を安定させる必要があった﹂と説明。
●野党に転落した2009年︵平成21年︶8月の衆院選で、8小選挙区で同党候補全員が落選したことについては、﹁やるせない悔しさ﹂だったと振り返った。
●年金政策などで﹁公明党が福祉の党、平和の党と言いながら裏切ったことに批判の大半があった﹂と分析し、その上で、旧民主党政権で野党にとどまった理由を問われ、﹁︵山口が防衛政務次官を務めた︶細川︵護熙︶政権以来、民主党の人たちの大部分をよく知っていた。忍耐力や協調性に少々欠け、実現性が乏しく見える政策を掲げていた﹂と説明した。
●一方で連立政権を形成する自民党に対しても短所も挙げ、年金や失業対策など﹁国民の琴線に触れるような、地に足のついたアイデアは自民党からはなかなか出てこない﹂と苦言を呈している。﹁口を開けば、﹃憲法改正、日米同盟、安保法制﹄だ﹂とも指摘した。
●一方、新型コロナウイルス︵COVID-19︶の感染で、全国民への給付金を当初の﹁条件付きで1世帯30万円﹂から﹁一律で1人10万円﹂に変更させた経緯を﹁国民の求めに政策が追いついていなかった﹂と振り返り、同様の主張をした自民党の二階俊博幹事長とは﹁連携がなかった﹂とした[10]。
以下は自自公、自公保連立政権時代に成立したものも含む。
(一)^ 1955年︵昭和30年︶以降の歴代連立政権を見ると自由党も党首︵小沢一郎︶が入閣しなかったが、自由党の連立政権参画期間は約1年間にとどまり、自由党から分党した保守党では現職党首︵扇千景︶の入閣歴がある。
(二)^ 集団的自衛権の一部行使解禁の協議においても、与党協議の場に現れ、﹁北側3原則﹂を提示するなどした。
(三)^ 自公連立成立以前の1996年︵平成8年︶にも同様の対決があり平沢が山口を下していた︵山口は当時新進党所属︶。平沢に敗れた山口はその後、参議院東京都選挙区に鞍替えした。
(四)^ 静岡1区に関しては自民公認の戸塚、公明公認の大口との事実上の与党三つ巴対決となった。