谷風 (陽炎型駆逐艦)
陽炎型駆逐艦
艦歴
編集太平洋戦争緒戦
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陽炎型駆逐艦第14番艦谷風は仮称第30号艦として藤永田造船所で1939年︵昭和14年︶10月18日起工[5]。藤永田造船所で建造された陽炎型は谷風以外に黒潮、夏潮、浦風、舞風がある。1940年︵昭和15年︶8月30日、﹁谷風︵タニカゼ︶﹂と命名[1]。陽炎型15番艦﹁野分﹂も同日附で命名される[1]。11月1日進水[5]。1941年︵昭和16年︶4月25日に竣工[5]。同日附で呉鎮守府籍[6]。4月28日附で第一航空艦隊・第一航空戦隊に編入されるが、5月1日をもって第17駆逐隊に編入された[7][8]。
太平洋戦争開戦時、第17駆逐隊︵浦風、磯風、浜風、谷風︶の4艦は第一水雷戦隊︵司令官大森仙太郎少将‥旗艦阿武隈︶に所属し、南雲機動部隊の護衛部隊︵阿武隈、第17駆逐隊、第18駆逐隊︽霞、霰、陽炎、不知火︾、秋雲︶として真珠湾攻撃に参加。その後も僚艦と共に空母機動部隊を護衛しウェーク島攻略、ラバウル攻略、ダーウィン空襲、ジャワ島攻略に従事した。セレベス島スターリング湾に停泊中に谷風で事故負傷兵1名が発生、医療設備のある機動部隊旗艦赤城に治療を依頼するが赤城は赤痢患者多発のため受け入れを拒否され、谷風の負傷者を空母瑞鶴に搬送するという一幕もあった[9]。
詳細は「日本軍のクリスマス島占領」を参照
続いて戦艦金剛、榛名及び第17駆逐隊第1小隊︵谷風、浦風︶はクリスマス島砲撃を敢行する[10]。3月6日10時30分、南雲忠一司令長官は残敵掃討を命じ、第二航空戦隊︵司令官山口多聞少将‥空母蒼龍、飛龍︶、第三戦隊第2小隊︵3番艦榛名、4番艦金剛︶、第17駆逐隊︵谷風、浦風、浜風、磯風︶の8隻で別働隊を編制、機動部隊本隊から分離した[11]。蒼龍、飛龍の護衛に第2小隊︵浜風、磯風︶を残し、金剛、榛名、谷風、浦風の4隻は3月7日早朝にクリスマス島に艦砲射撃を行った。約20分間の砲撃で谷風は31発、浦風は12発を発射、イギリス軍守備隊は白旗を掲げた[12]。だが海軍陸戦隊を持たない4隻は同島を占領することが出来ず[要出典]、白旗を放置してクリスマス島を去った。9日午後2時、谷風以下8隻は南雲機動部隊主隊と合流[13]。第17駆逐隊は引き続きセイロン沖海戦に参加した。
ミッドウェー海戦
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1942年︵昭和17年︶4月10日、第十戦隊︵旗艦長良︶が新設され、第17駆逐隊は第10駆逐隊︵秋雲、夕雲、巻雲、風雲︶、第7駆逐隊︵曙、潮、漣︶と共にこれに加わった[14]。ただし第7駆逐隊は機動部隊の護衛にはつかず北方部隊としてアリューシャン攻略作戦に従事、ミッドウェー海戦時の第十戦隊は、第4駆逐隊︵嵐、野分、萩風、舞風︶と行動を共にした[15]。当時の谷風は第17駆逐隊司令艦︵第一小隊︽谷風、浦風︾、第二小隊︽浜風、磯風︾︶だった[16]。6月上旬、第17駆逐隊はミッドウェー作戦に参加、南雲機動部隊︵第一機動部隊︶の直衛として活動した[15]。第一機動部隊は第一航空戦隊︵赤城、加賀︶、第二航空戦隊︵蒼龍、飛龍︶、第三戦隊第2小隊︵榛名、霧島︶、第八戦隊︵利根、筑摩︶、第十戦隊︵長良、第10駆逐隊、第17駆逐隊︶、第4駆逐隊︵第四水雷戦隊所属︶、給油艦5隻から成る[15]。
6月5日、日本軍はアメリカ軍機動部隊の攻撃により空母3隻︵赤城、加賀、蒼龍︶を喪失し、健在だった第二航空戦隊︵司令官山口多聞少将︶の空母飛龍も被弾炎上、最終的に随伴駆逐艦巻雲︵第10駆逐隊︶による雷撃処分が実施された[17][18]。
山口司令官と加来止男飛龍艦長は退艦を拒否して飛龍に残った[19][20]。2隻︵巻雲、風雲︶は飛龍の生存者を救助して西方に退避する[18][21]。
ところが6月6日午前4時30分(現地時間6月5日07:30)、空母鳳翔から発進した九六式艦上攻撃機が、漂流する飛龍と飛行甲板上の乗組員︵飛龍機関科生存者︶を発見する[18][22]。戦艦大和の連合艦隊司令部︵山本五十六連合艦隊司令長官、宇垣纏参謀長等︶は南雲忠一機動部隊司令長官に対し、﹁飛龍ハ沈没シタルヤ、状況及ビ位置ヲ知ラセ﹂と発信する[23]。これを受けて谷風に対し、飛龍を確実に撃沈するよう命令が下った[18][23][24]。
谷風は午前9時45分(12:45)に南雲機動部隊から分離、長良偵察機の誘導で飛龍を捜索したが発見できず、沈没したものと判断して帰路につく[23]。宇垣纏連合艦隊参謀長の手記﹁戦藻録﹂では、谷風が2回にわたるアメリカ軍機の襲撃を受けたのは現場海域に向かう途中であり、深夜に目的海域に到着して捜索するも飛龍を発見できなかったと記述している[25]。
戦闘詳報によれば、谷風︵勝見駆逐艦長︶は6月6日1508よりアメリカ軍急降下爆撃機計36機[26]または37機と交戦、4機撃墜を報告した[24][27]。
アメリカ軍によれば、米空母エンタープライズ (CV-6)とホーネット (CV-8)は南雲機動部隊の追撃を開始[28][29]。正午頃、エンタープライズの攻撃隊32機、ホーネットの攻撃隊26機が発進したが日本艦隊を発見できず、夕刻になり搭乗員達は帰投を考えはじめた[29][30]。するとアメリカ軍攻撃隊は西方へむかう駆逐艦1隻︵谷風︶を発見、集中攻撃をしかけたが1発も命中せず、サム・アダムス大尉機が撃墜された[31]。只、1発が至近弾となり、弾片が第二砲塔︵第三砲塔とも︶に飛び込み6名の戦死者を出した[31]。
ミッドウェー基地から発進したB-17隊は、まず重巡洋艦2隻︵三隈、最上︽衝突のため艦首大破中︾︶に爆弾39発を投下したが、1発も命中しなかった[31]。B-17隊は空母を求めて再度出撃したが発見できず、たまたま見つけた駆逐艦︵谷風︶に79発の爆弾を投下するが、1発も命中しなかった[29][31]。アメリカ側の研究者は﹃谷風は約九十発の爆弾をかわした。戦争の全期間を通じても屈指の驚くべき脱出劇である。﹄と結んでいる[28]。
ガダルカナル島の戦い
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1942年︵昭和17年︶8月7日にアメリカ軍がガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸してガダルカナル島の戦いがはじまった。8月18日、第4駆逐隊司令有賀幸作大佐指揮下の陽炎型6隻︵嵐、萩風、陽炎、谷風、浦風、浜風︶は陸軍一木支隊先遣隊916名をトラックからガ島へ輸送[32]、ソロモン方面へ進出した[33]。一木先遣隊の揚陸を終えた第17駆逐隊3隻は姉妹艦3隻︵嵐、萩風、陽炎︶と分離、8月21日14時にラバウルへ戻った[34]。なお谷風等が輸送した一木支隊は8月21日イル川渡河戦で全滅している[35]。
詳細は「ラビの戦い」を参照
つづいて第17駆逐隊は第十八戦隊︵天龍、龍田︶の指揮下に入り、ポートモレスビー作戦の一環としてレ号作戦︵ラビの戦い︶に投入された[34]。8月24日午前7時、軽巡洋艦天龍、龍田、駆逐艦谷風、浦風、浜風および第23駆潜隊は輸送船2隻︵南海丸、幾内丸︶を護衛してラバウルを出撃し、ニューギニア島南東部ミルン湾のラビに向かった[36]。空襲を受けつつ25日深夜の上陸に成功[36]。第17駆逐隊は天龍、龍田と共に対地砲撃をおこない海軍陸戦隊を支援したが、連合軍の猛反撃と航空攻撃により飛行場の占領に失敗した[37]。第八艦隊は増援部隊をおくりこんだが作戦は進展せず、9月5日になり全面撤収の決定に至った[38]。
ニューギニア島ラビ方面作戦が日本軍敗北により中止されると、9月26日附で第17駆逐隊・第24駆逐隊は外南洋部隊︵第八艦隊︶から除かれ、かわりに秋月型駆逐艦秋月と第9駆逐隊︵朝雲、夏雲、峯雲︶が同艦隊に編入された[39]。10月13日附で第17駆逐隊は機動部隊前衛部隊に編入される[40]。10月下旬、南太平洋海戦に参加。10月26日、前衛部隊に所属する第八戦隊の利根型重巡洋艦筑摩がアメリカ軍機動部隊艦載機の爆撃で大破すると、谷風、浦風は筑摩を護衛して戦場を離脱した[41]。その後、第4駆逐隊、第17駆逐隊、駆逐艦秋雲は南太平洋海戦の損傷艦︵翔鶴、瑞鳳、熊野、筑摩︶等を護衛して日本本土に戻った。
11月22日、谷風は重巡洋艦熊野と共に呉を出港、第14軍・第65旅団のマニラ〜ラバウル輸送作戦︵夏輸送︶に従事した[42]。23日、トラック泊地からマニラへ航行中の第九戦隊︵司令官岸福治少将、軽巡北上、大井︶の指揮下に入る[43]。熊野、谷風は27日にマニラ到着[44]。先に到着していた軽巡3隻︵北上、大井、球磨︶と共に第14軍・第65旅団の兵員と物資を積載する[42]。翌日出港[45]。12月4日、ラバウルに到着して輸送任務を終了した[46][47]。同日附で熊野、谷風は外南洋部隊︵第八艦隊︶に編入された[48]。
その後、ソロモン諸島方面への輸送作戦に従事した。12月7日、第15駆逐隊司令の指揮下で駆逐艦嵐、野分、長波、親潮、黒潮︽旗艦︾、陽炎、浦風、谷風、江風、涼風、有明による第三次輸送作戦が実施されたが、野分が航行不能となる被害を受け揚陸は断念された[49]。12月11日、第17駆逐隊︵浦風、谷風︶は第二水雷戦隊司令官田中頼三少将が指揮する増援部隊︵照月、親潮、黒潮、陽炎、長波、谷風、浦風、涼風、江風、嵐、有明︶として第四次ガ島輸送作戦に参加、秋月型駆逐艦照月の沈没に遭遇した[50]。その他にもラエ、ムンダへの輸送作戦に従事する。12月16日のムンダ輸送は親潮、黒潮、陽炎、谷風[51]、12月21日は谷風、陽炎、巻波、浦風だった[52]。
12月25日、米潜水艦シードラゴンに雷撃されて損傷した輸送船南海丸を護衛中の駆逐艦卯月が南海丸と衝突して航行不能となった[53]。ラバウルに停泊していた第31駆逐隊︵長波︶、第27駆逐隊︵有明︶、第17駆逐隊︵谷風、浦風︶は急遽出動して救援にむかった[54]。卯月は第27駆逐隊有明に曳航され谷風の護衛下でラバウルへ向かうが[55]、有明もB-24爆撃機の空襲により中破した[56]。そこで浦風が卯月を曳航し、2隻を長波が護衛してラバウルへ帰投した[57]。27日にはバングヌ島ウィックハムへ谷風、浦風、磯波、電、荒潮、夕暮で輸送作戦を行った[58][59]。
1943年︵昭和18年︶1月5日より第17駆逐隊︵谷風、浦風、浜風、磯風︶はパプアニューギニアのラエへむかう輸送船団を護衛した[60]。1月15日、谷風は秋月型駆逐艦秋月︵第十戦隊旗艦︶指揮のもと、時津風、嵐、黒潮、浦風、浜風、磯風、舞風と共にドラム缶輸送に従事する[61]。同日、至近弾により谷風、浦風、浜風は損傷を受け、谷風では勝見艦長が戦死した[62]。以降も2月上旬のガダルカナル島撤退作戦︵ケ号作戦︶に参加。第二次作戦・第三次作戦中に姉妹艦舞風、磯風が損傷し、長期修理となった。谷風はその後もトラック方面で護衛任務に従事。
4月、独立工兵3個連隊と第二十師団の一部をハンサ湾[63]へ輸送する第二次ハンサ輸送で駆逐艦﹁天津風﹂、﹁第二十六号駆潜艇﹂、﹁第三十四号駆潜艇﹂とともに輸送船6隻[64]を護衛[65]。船団は4月6日にパラオから出発し、4月12日にハンサ湾に到着[66]。同日、爆撃を受けて輸送船﹁しどにい丸﹂が被弾し擱坐した[67]。翌日は悪天候のため揚陸作業は打ち切られ[66]、﹁谷風﹂と﹁第二十六号駆潜艇﹂は輸送船3隻[68]と共にウェワクに、他はパラオへ向かった[67]。﹁谷風﹂の方の船団はウェワクで残りの物件を揚陸しパラオへ向かったが、その途中で爆撃を受け輸送船﹁いんであ丸﹂が沈んだ[66]。﹁谷風﹂などは4月20日にパラオに帰投した[66]。
5月5日、﹁東海丸﹂が﹁東京丸﹂に曳航され、﹁谷風﹂の護衛でサイパンを出港したところ、アメリカ潜水艦﹁パーミット﹂の攻撃で被雷大破した[69]。
太平洋戦争中盤以降
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6月16日、17駆︵谷風、浜風︶は第三戦隊︵金剛、榛名︶、第七戦隊︵熊野、鈴谷︶、空母3隻︵龍鳳、雲鷹、冲鷹︶、軽巡五十鈴、第7駆逐隊︵潮、曙︶、第16駆逐隊︵雪風︶、第27駆逐隊︵時雨、有明、初春︶、駆逐艦清波、涼風、新月と共に横須賀を出発、21日にトラック泊地へ到着した[70]。到着と同時に、那珂、五十鈴、長良、雪風、谷風、浜風、時雨はナウル島への兵員輸送作戦に従事する[71]。17駆︵谷風、浜風︶は第十四戦隊の軽巡洋艦2隻︵那珂、五十鈴︶と共に第一次輸送部隊を編制し、25日にナウルへ到着し揚陸を終えた[71]。その後ニュージョージア島の戦い勃発にともない、重巡鳥海、駆逐艦谷風、雪風、涼風、江風︽途中で引き返す︾はラバウルへ移動した[72]。7月5-6日、第三水雷戦隊︵司令官秋山輝男少将、旗艦‥秋月型駆逐艦新月︶の指揮下で17駆︵谷風、浜風︶はクラ湾夜戦に参加[73]。警戒隊︵新月-涼風-谷風︶という単縦陣でアメリカ軍巡洋艦部隊︵指揮官ウォルデン・L・エインズワース少将︶と交戦する[74]。谷風は涼風と共に雷撃を敢行し︵谷風は魚雷8本発射︶[75]。セントルイス級軽巡洋艦ヘレナを撃沈した。だが、新月が沈没し魚雷次発装填後に戦場へ戻ってきた谷風の捜索でも発見できなかった[76]。秋山少将以下新月乗組員は全員戦死、第三水雷戦隊司令部は全滅した。この海戦で﹁谷風﹂は艦首に一発命中弾を受け、不発であったが揚錨器室などに浸水し揚錨器が使用不能となった[77]。砲弾が錨鎖庫の側壁に突き刺さっていた[78]という。
また、戦闘詳報の中でアメリカ軍のレーダーの脅威を訴えている[79]。またアメリカ軍巡洋艦の装備と能力を正当に評価し[80]、﹃肉薄しないのは精神力の不足﹄と批判せぬよう指摘している[81]。ラバウルへ帰投後﹁谷風﹂は工作艦﹁八海丸﹂に横付けして応急修理を行い、それからトラック経由で日本本土へ戻った[78]。
9月5日、空母隼鷹、第十六戦隊︵木曾、多摩︶、駆逐艦大波、谷風による丁一号輸送部隊が編成される[82]。19日、隼鷹、谷風は岩国市を出発、24日にトラックへ到着する[82]。ここで軽巡2隻︵木曾、多摩︶と合流、4隻はポナペ島に兵員を輸送した[82]。谷風は引き続き各方面の輸送・護衛任務に従事した。10月31日、トラック泊地への輸送任務を終えた戦艦2隻︵伊勢、山城︶、空母2隻︵隼鷹、雲鷹︶、巡洋艦2隻︵利根、龍田︶、駆逐艦4隻︵海風、涼風、谷風、曙︶は第十一水雷戦隊司令官高間完少将の指揮下、トラック泊地を出発した[83]。11月5日午前5時、暗号解読により豊後水道近海で日本艦隊を待ち伏せていた米潜水艦ハリバットは第十一水雷戦隊を襲撃。5時35分に魚雷1本が隼鷹の艦尾に命中し、直進不能となった隼鷹は重巡洋艦利根に曳航されて日本本土に向かった[84]。谷風は隼鷹の護衛を行い、海に落ちた隼鷹の乗組員2名を救助した[85]。
12月12日、谷風は戦艦大和、空母翔鶴、駆逐艦秋雲、山雲と共にトラック泊地を出発し、17日に横須賀に到着した[86]。横須賀にて陸軍兵士︵宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊︶と軍需品を各艦に搭載、南方への輸送任務﹁戊一号輸送任務﹂に従事する[87][88][89]。25日、谷風、山雲に護衛されて航行する大和は、暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦スケートの発射した魚雷1本を被雷、小破した[89][90]。トラックにて陸兵や軍需物資を揚陸後、大和は修理のため日本本土へ回航された。谷風は戊三号第一部隊︵熊野、鈴谷、谷風、満潮︶に編入され、29日にトラック発、31日にカビエンに到着して揚陸に成功、1月1日にトラックへ戻り任務を終了した[89]。
昭和十九年の戦い
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1944年︵昭和19年︶2月12日、第17駆逐隊は重巡洋艦部隊を護衛してトラック泊地を出発、リンガ泊地へ向かった。16-17日、トラック島空襲で第十戦隊旗艦阿賀野、第十戦隊・第4駆逐隊舞風が撃沈された。21日にリンガ泊地へ進出し訓練に参加。その間ダバオ、パラオ、サイパンなどへの船団護衛に従事する。この頃、第16駆逐隊は雪風1隻のみとなっていた。3月31日をもって16駆は解隊、同日付で雪風は第17駆逐隊に配属された[91]。当時谷風に乗艦していた山田看護兵曹︵谷風の沈没後浜風に、更に後に雪風に異動︶によれば、﹁三月二十日付で、第十六駆逐隊の雪風が第十七駆逐隊に編入され、過去に例のない五隻編成となった。艦マークも五番艦はどうなるのか、谷風乗組員の間では、﹃雪風は十六駆で僚艦を全部食い尽くした﹄と、あまり歓迎されなかった﹂と、五隻編成に不満があった事が述べられている[92]。︵五番艦を示す艦船記号は定められていなかったため、便宜上雪風は五角の輪を煙突に記入している[93]。︶5月28日、タウイタウイに進出。6月1日の時点で、第10戦隊︵旗艦矢矧︶所属・第17駆逐隊は第一小隊︵司令駆逐艦磯風、浦風、谷風︶と第二小隊︵浜風、雪風︶で編成されていた[94]。
その頃、タウイタウイ泊地では、アメリカ軍潜水艦の活動により日本海軍駆逐艦の撃沈が相次いでいた。6月9日、湾外に敵潜水艦出現の報を受け、磯風(17駆司令艦)、谷風、島風、早霜はタウイタウイ湾口で対潜警戒に従事する[95]。午後10時過ぎ、谷風はタウイタウイ州ボンガオ島より229度、9浬附近を航行していた[96]。同時刻、米潜水艦ハーダーが谷風より900メートルの距離から魚雷を4本発射[97]。最初の魚雷は谷風の前を通過していったが、2番目と3番目の魚雷が谷風の左舷艦首と左舷一番砲塔〜艦橋真下に命中し、4本目は逸れていった。最初に艦首、次に艦中央部に魚雷が命中した谷風は[98]、22時25分[99]に轟沈した。沈み行く谷風から起こる爆発は水中にいたハーダーをも揺るがせ、潜望鏡の視界いっぱいに目もくらむような爆発による閃光が見え、谷風は完全に姿を消した。さらに水中で搭載機雷が誘爆し、脱出者に多数の死傷者が出た[98]。磯風や救援のためかけつけた駆逐艦沖波が救助を実施[100][101]。艦長以下114名が戦死、126名が救助された[102]。6月10日、渾作戦に従事して大和、武蔵を護衛していた沖波は再びハーダーと交戦[103]。ハーダーは沖波を雷撃して撃沈したと報告し、沖波はハーダーに爆雷攻撃をおこなって撃沈確実を報告した[104]。14日、谷風の負傷者は磯風に乗艦し、フィリピンのバコロド島へ移動した[95]。
駆逐艦谷風は8月10日附で不知火型駆逐艦[105]、
第17駆逐隊[106]、
帝国駆逐艦籍[107][108]より除籍された。
谷風は真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦い、ニュージョージア島の戦いと激戦を潜り抜けてきた第17駆逐隊で、初めて撃沈された艦となった。
歴代艦長
編集- 艤装員長
- 駆逐艦長
脚注
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(一)^ abc#達昭和15年8月p.19﹃達第百六十七號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十四年度及同十五年度ニ於テ建造ニ着手ノ練習巡洋艦一隻、驅逐艦二隻、潜水艦二隻、測量艦一隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十五年八月三十日海軍大臣吉田善吾|三菱重工業株式会社横濱船渠ニ於テ建造 練習巡洋艦 香椎(カシヒ)|株式会社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 谷風(タニカゼ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 野分(ノワキ)|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 伊號第三十三潜水艦|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 伊號第三十九潜水艦|三菱重工業株式会社横濱船渠ニ於テ建造 測量艦 筑紫(ツクシ)|鶴見製鉄造船株式会社ニ於テ建造 第十六驅潜艇﹄
(二)^ #艦艇類別等級表(昭和16年6月30日)p.4﹃艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|陽炎型|陽炎、不知火、黒潮、親潮、早潮、夏潮、初風、雪風、天津風、時津風、浦風、磯風、濱風、谷風、野分、嵐、萩風、舞風、秋雲﹄
(三)^ #達大正5年5月p.12﹃達第七十九號 軍備補充費ヲ以テ舞鶴海軍工廠ニ於テ本年度製造ニ着手スヘキ大型驅逐艦ヲ谷風ト命名ス|大正五年五月十三日 海軍大臣加藤友三郎﹄
(四)^ #達大正5年6月p.23﹃達第百四號 艦艇類別等級表中戰艦ノ欄﹁日向﹂ノ次ニ﹁長門﹂ヲ、二等巡洋艦ノ欄﹁音羽﹂ノ次ニ﹁、天龍、龍田﹂ヲ、一等驅逐艦ノ欄﹁濱風﹂ノ次ニ﹁、谷風﹂ヲ加フ|大正五年六月二十六日 海軍大臣加藤友三郎﹄
(五)^ abc#艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.20﹃艦名‥谷風|艦種‥一等駆逐艦|(性能略)|製造所‥藤永田造船所|起工年月日14-10-8|進水年月日15-11-1|竣工年月日16-4-25|(兵装略)﹄
(六)^ #内令昭和16年4月(5)p.35﹃内令第四百三十五號 驅逐艦 谷風 右本籍ヲ呉鎮守府ト定メラル 昭和十六年四月二十五日 海軍大臣及川古志郎﹄
(七)^ #日本海軍艦艇写真集17駆逐艦114頁
(八)^ #内令昭和16年5月(1)p.1﹃内令第四百五十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十六年五月一日 海軍大臣及川古志郎 第十七驅逐隊ノ項中﹁磯風﹂ノ下ニ﹁、谷風﹂ヲ加フ﹄
(九)^ #海軍軍医日記抄40頁
(十)^ #S1703一水戦日誌(1)pp.6-7﹃3月7日 第17駆逐隊1小隊第三戦隊2小隊ト共ニ﹁クリスマス﹂島ヲ砲撃陸上施設(電信所桟橋油槽)ヲ破壊/3月9日 第17駆逐隊主隊ニ合同﹄
(11)^ #S1703一水戦日誌(2)p.50﹃6日/一.1030機動部隊第2兵力部署ニ依ル別働隊(第2航空戦、第3戦隊2小隊、第17駆逐隊)ハ﹁クーパン﹂ヲ通ズル205度線以北海面ニ於ケル残敵撃滅ノ為主隊ト分離﹄
(12)^ #S1703一水戦日誌(1)pp.37-38﹃9日谷風駆逐艦長/當隊(2小隊欠)7日早朝第3戦隊2小隊ト共ニ﹁クリスマス﹂島陸上施設(電信所桟橋油槽)ヲ砲撃之ヲ破壊セリ。射撃距離50乃至35発射弾数谷風31浦風12、敵ハ白旗ヲ掲揚ス我人員兵器異状ナシ其ノ他別動中異状ナシ﹄-﹃9日第2航空戦隊司令官/別動中ノ戦果左ノ通リ|一.3月7日早朝約20分間ニ亘リ2D/3S及1D/17dgヲ以テ﹁クリスマス﹂島ヲ砲爆撃セリ敵ハ忽チ白旗ヲ掲揚セリ、港内敵潜ヲ認メズ午後﹁スンダ﹂海峡南方海面ニ於テ大型武装船2隻(1万噸級)ヲ爆撃撃沈セリ我ニ被害ナシ(以下略)﹄
(13)^ #S1703一水戦日誌(2)p.52﹃9日/1415別働隊(第3戦隊2小隊、第2航空戦隊、第17駆逐隊)ハ南緯11度30分東経120度0分イニ於テ主隊ニ合同﹄
(14)^ 戦史叢書ミッドウェー海戦136-137頁﹃参考﹄
(15)^ abc戦史叢書ミッドウェー海戦137頁﹃第一機動部隊の編制﹄
(16)^ #ミッドウェー海戦戦時日誌戦闘詳報(1)p.8
(17)^ #烈将山口多聞290-291頁
(18)^ abcd戦史叢書ミッドウェー海戦379-382頁﹃飛龍﹄
(19)^ 戦史叢書ミッドウェー海戦382-383頁﹃山口司令官の戦死﹄
(20)^ #太平洋の試練(下)319-320頁﹃飛龍の最期﹄
(21)^ #烈将山口多聞276﹃艦と共に沈む名将﹄
(22)^ #烈将山口多聞294-295頁
(23)^ abc#1航艦戦闘詳報(2)pp.1-2
(24)^ ab戦史叢書ミッドウェー海戦488-489頁﹃主力方面敵空母機来襲﹄
(25)^ #戦藻録(九版)143頁
(26)^ #1航艦戦闘詳報(4)p.25
(27)^ #1航艦戦闘詳報(4)p.18
(28)^ ab#太平洋の試練(下)321-322頁﹃谷風、奇跡の脱出﹄
(29)^ abc戦史叢書ミッドウェー海戦490頁
(30)^ #ロード、逆転239頁
(31)^ abcd#ロード、逆転240-241頁
(32)^ #叢書49南東方面518-519頁﹃一木支隊の輸送計画﹄
(33)^ #叢書49南東方面519-521頁﹃一木先遣隊の輸送﹄
(34)^ ab#叢書49南東方面534-535頁﹃挺身隊の偵察攻撃﹄
(35)^ #叢書49南東方面535-536頁﹃一木先遣隊の戦闘﹄
(36)^ ab#叢書49南東方面612-613頁﹃航空支援とラビ攻略部隊の出撃﹄
(37)^ #叢書49南東方面617頁
(38)^ #叢書49南東方面631頁﹃九月五日-撤収﹄
(39)^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.10﹃第九駆、秋月|9-26|外南洋部隊ニ編入﹄-﹃第十七駆、第二十四駆|〃|外南洋部隊ヨリ除カル﹄
(40)^ #S1701八戦隊日誌(3)p.40
(41)^ #S1710筑摩日誌(1)p.37、#S1701八戦隊日誌(4)p.6
(42)^ ab#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)223頁﹁夏輸送による第六十五旅団の進出﹂
(43)^ #S1612九戦隊日誌(4)p.9﹃11月23日/熊野谷風 陸兵輸送任務ニ関シ本職ノ指揮下ニ入ル﹄
(44)^ #S1612九戦隊日誌(4)p.11﹃熊野谷風1100﹁マニラ﹂着 9S1200﹁マニラ﹂発 球磨1400﹁マニラ﹂発﹄
(45)^ #S1612九戦隊日誌(4)p.11﹃熊野谷風1158﹁マニラ﹂発﹄
(46)^ #S1612九戦隊日誌(4)p.15﹃當隊ハ前月下旬ヨリ一時本職ノ指揮下ニ在リシ球磨及熊野谷風ト共ニ第65旅団ヲ﹁マニラ﹂ヨリ﹁ラボール﹂ニ向ケ急送中ナリシ處12月3日﹁ラボール﹂着、4日熊野谷風ノ﹁ラボール﹂着ヲ以テ本輸送任務ヲ終了、6日﹁トラック﹂ニ帰投ス﹄
(47)^ #S1612九戦隊日誌(4)p.21﹃12月4日 熊野、谷風 0630﹁ラボール﹂着 第九戦隊0700﹁ラボール﹂発(第六十五旅団 自﹁マニラ﹂至﹁ラボール﹂輸送任務終了)熊野谷風ニ対スル本職ノ指揮ヲ解ク﹄
(48)^ #S1709第八艦隊日誌(3)p.46﹃熊野谷風|12-4|GF電令作三九八號ニ依リ外南洋部隊ニ編入﹄
(49)^ #S1709八艦隊日誌(3)p.60﹃4dg(嵐野分)長波15dg(親潮黒潮陽炎)17dg(浦風谷風)24dg(江風涼風)有明|12-7|第三次﹁ドラム﹂罐輸送ヲ實施セムトセシモ途中敵機ノ来襲及泊地ニ於ケル魚雷艇ノ為遂ニ揚陸ヲ断念ス、戦果艦爆5艦戦1魚雷艇1、被害野分航行不能、嵐小破﹄
(50)^ #S1712外南洋増援部隊日誌(2)p.6﹃第四次﹁ガ﹂島輸送|2sd司令官|15dg(d×3)長波17dg(谷風浦風)24dg(d×2)4dg(嵐)照月有明|11日|照月魚雷艇ノ雷撃ニ依リ沈没﹄
(51)^ #S1709八艦隊日誌(3)p.61﹃15dg(親潮黒潮陽炎)17dg(谷風)|12-16|﹁ムンダ﹂輸送艦陸兵親潮200谷風210基地220陸軍20粍機銃4﹁ドラム﹂罐20﹄
(52)^ #S1709八艦隊日誌(3)p.61﹃谷風陽炎巻波浦風|12-21|﹁ムンダ﹂輸送ヲ實施ス﹄
(53)^ #S1712外南洋増援部隊日誌(2)p.25﹃25日|(略)五.1730同右地点ケケチ19ニ於テ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ南海丸大破/六.1755卯月南海丸ト衝突大破航行不能重軽傷7﹄
(54)^ #S1712外南洋増援部隊日誌(2)p.25﹃25日|(略)六.1755卯月南海丸ト衝突大破航行不能重軽傷7/七.2100長波2130有明2200谷風浦風右救護ノ為ラバウル発﹄
(55)^ #S1712外南洋増援部隊日誌(2)p.25﹃26日|三.0225有明卯月ヲ曳航谷風之ヲ護衛帰途ニ就ク﹄
(56)^ #S1712外南洋増援部隊日誌(2)p.26﹃26日|(略)五.0801 B-24三来襲有明至近弾ニヨリ損傷戦死28戦傷40単独ラバウル回航1200﹄
(57)^ #S1712外南洋増援部隊日誌(2)p.26﹃26日|六.0940浦風卯月曳航開始(略)九.1300長波卯月ノ護衛ニ任ジ谷風ヲラバウルニ先行セシム(略)一二.2000長波浦風卯月ラバウル帰着﹄
(58)^ #S1712外南洋増援部隊日誌(2)p.9﹃ウイックハム輸送|17dg司令|17dg(谷風浦風)磯波電荒潮夕暮|27日﹄
(59)^ #S1709八艦隊日誌(3)p.63﹃谷風浦風荒潮磯波電夕暮|12-27|﹁ウィクハム﹂占領部隊ヲ輸送ス/荒潮 陸兵150﹁ドラム﹂缶50一三粍機銃3弾薬/磯風 陸兵150﹁ドラム﹂缶50二〇粍機銃3七粍機銃6/電 陸兵150﹁ドラム﹂缶50二〇粍機銃一三粍機銃各3/夕暮 陸兵150﹁ドラム﹂缶50大隊砲2弾薬﹄
(60)^ #S1709八艦隊日誌(4)pp.30-31﹃谷風舞風浦風浜風磯風ボらじる丸日竜丸くらいと丸智福丸妙高丸|1-5、6、7、8|十八号輸送ヲ開始ス(五一師ノ一部及海軍部隊)敵来襲延 六日B17七p-38一一、七日B25一二B17四fb十数機 右ノ外夜間ハ連續触接及爆撃ヲ實施七日0220日竜丸沈没ス1500﹁ラエ﹂入泊揚搭ヲ開始ス 荷揚中敵機延B17六B24六B25八Fc四〇fl二〇計八〇 八日1215妙高丸被爆擱座2300揚陸完了帰途ニ就ク﹄
(61)^ #S1709第八艦隊日誌(4)p.26﹃輸送物件‥各艦 陸兵163 ﹁ドラム﹂缶30 ゴム嚢40 小発2 折畳式浮舟10﹄
(62)^ #S1709第八艦隊日誌(4)p.27﹃谷風、浦風、浜風、至近弾ニ依リ若干ノ被害アリ 谷風艦長以下数名ノ戦死 二十数名ノ傷者ヲ出セリ﹄
(63)^ ウェワクとマダンの中間付近
(64)^ ﹁帝龍丸﹂、﹁いんであ丸﹂、﹁しどにい丸﹂、﹁東豊丸﹂、﹁大盛丸﹂、﹁大祐丸﹂
(65)^ 戦史叢書第40巻 南太平洋陸軍作戦<3>ムンダ・サラモア、123ページ
(66)^ abcd戦史叢書第40巻 南太平洋陸軍作戦<3>ムンダ・サラモア、124ページ
(67)^ ab戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、135ページ
(68)^ ﹁いんであ丸﹂、﹁大盛丸﹂、﹁大祐丸﹂
(69)^ ﹃中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降﹄328-329ページ、The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
(70)^ #S1704七戦隊日誌(7)p.5﹃(五)6月15日前進部隊ニ編入セラレ6月16日第三戦隊司令官指揮ノ下ニ第三戦隊第七戦隊(最上欠)第二航空戦隊(龍鳳)五十鈴雲鷹冲鷹第7駆逐隊第16駆逐隊(雪風)第27駆逐隊(白露欠)浜風谷風涼風新月清波ト横須賀発21日トラック着﹄
(71)^ ab#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)369-370頁﹃横二特のナウル進出﹄
(72)^ #S1805四水戦日誌(2)p.75﹃30日1140|TOB電令作第10号/一.鳥海16dg(雪風)24dg(涼風江風)谷風ハ鳥海艦長之ヲ指揮シ急速﹁トラック﹂出撃﹁ラボール﹂ニ進出スベシ/二.﹁トラック﹂出撃以後作戦ニ関シNTB指揮官ノ指揮ヲ受クベシ(略)﹄
(73)^ #谷風蓮76号日誌(1)pp.32-33。警戒隊(新月、涼風、谷風)、第一次輸送隊(望月、三日月、浜風、夕凪)、第二次輸送隊(天霧、初雪、長月、皐月)
(74)^ #谷風蓮76号日誌(1)pp.28-31﹃昭和十八年七月五・六日﹁クラ﹂湾沖夜戰駆逐艦谷風合戰圖﹄
(75)^ #谷風蓮76号日誌(1)p.6﹃2357|発射初ム(発射雷数8射角4000米包囲角95度敵速20節)﹄
(76)^ #谷風蓮76号日誌(1)p.7﹃0025|魚雷次発装填完了迄﹁コロンバンら﹂島北方海面ヲ行動速力24節﹄-﹃0112|次発装填完了﹄-﹃0120|反轉シ再ビ戦場ニ向フ速力30節﹄-﹃0158|戦場附近ニ到ルモ敵ヲ見ズ新月見當ラズ反轉シ黎明時ノ敵艦爆行動圏外ニ出ル如ク行動ス速力21節﹄-﹃七.六|0700|ショートランド着﹄
(77)^ #谷風蓮76号日誌(1)p.14﹃(ロ)被害 被弾(盲弾)1ニヨリ揚錨機室、米麥庫等浸水シ揚錨機使用不可能トナル﹄、日本水雷戦史、328ページ
(78)^ abクラ湾夜戦、179ページ
(79)^ #谷風蓮76号日誌(1)p.15﹃七.参考(イ)昭和十八年七月五日夜半﹁クラ﹂灣夜戰々訓所見﹄
(80)^ #谷風蓮76号日誌(1)p.17﹃一.今次夜戰ニ於テハ驅逐隊自体ガ主隊兼補助部隊ニシテ戰果発揚ハ遍ニ駆逐隊自身ノ攻撃効果ニ依ラザルベカラザルガ如キ状況ニシテ徒ニ肉迫猛撃シ猪突猛進スルハ装備優秀ナル敵新式巡洋艦移乗ノ部隊ニ対シテハ我ガ未ダ近迫セザルニ全滅シ何等戰果ナク敵ヲシテ名ヲ威サシムルノミナリ﹄
(81)^ #谷風蓮76号日誌(1)pp.17-18﹃(B)最近ニ於ケル﹁ソロモン﹂方面局地夜戰ヲ研究セラルルニ当リ対勢図ヨリ見ル発射距離ノ大ヲ以テ直ニ肉迫攻撃ノ精神力不足ト謂フハ早計ナリ爾後ノ対勢変化ノ状況ヲ洞察シ其ノ時機ガ駆逐艦ノ戰力発揮ノ好機ナルヤ否ヤニ着眼ノ要アリト偲ム﹄
(82)^ abc#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)435頁﹁甲支隊のポナペ進出﹂
(83)^ #S1804十一水戦日誌(5)p.4﹃28日連合艦隊電令作第778號ニ依リ本職内地回航部隊(龍田山城伊勢隼鷹雲鷹利根第24駆逐隊(海風涼風)谷風第7駆逐隊(曙))ヲ指揮シ31日﹁トラック﹂発内地ニ回航セリ﹄
(84)^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)429頁
(85)^ #S1804十一水戦日誌(6)p.21﹃5日1625谷風/隼鷹乗員2名救助負傷者ナシ﹄
(86)^ #S1812第4駆逐隊日誌(1)pp.21,38﹃12月11日2300 大和艦長→秋雲駆逐艦長 山雲駆逐艦長 谷風駆逐艦長 翔鶴艦長/横須賀回航中大和ノ速力及ビ基準舵用ノ項第三戦速22節ヲ第三戦速20節ニ改ム﹄
(87)^ #S1812第4駆逐隊日誌(1)p.22﹃1330 横須賀発トラックニ向フ 1100便乗者50名乗艦 谷風ト共ニ大和護衛 戊第一号輸送任務ニ従事﹄
(88)^ #S1812第4駆逐隊日誌(1)pp.39-40﹃12月16日0755 GF長官→GF各旗艦 大和艦長[二四駆 四駆 十駆 十七駆 山雲 大臣 横鎮長官 呉鎮長官] GF電令作第861号 (イ)項陸軍部隊ノ輸送ハ左ニ依リ之ヲ実施 本輸送隊ヲ﹁戊﹂ト呼称ス (一)輸送部隊の編成︵部隊指揮官兵力編成期間ノ順︶︵イ︶戊一号輸送部隊大和艦長 大和 第十駆逐隊︵秋雲︶第十七駆逐隊︵谷風︶山雲 12月17日﹁トラック﹂着時迄。﹄
(89)^ abc#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)526-527頁﹁輸送経過﹂
(90)^ スケート(第2の哨戒 1943年11月 - 10月)より
(91)^ #内令昭和19年3月(5)p.39﹃内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中﹁野分、舞風、山雲﹂ヲ﹁野分、山雲、満潮﹂ニ改ム|第九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中﹁濱風﹂ノ下ニ﹁、雪風﹂ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第十八驅逐隊/薄雲、霞、不知火|第二十二驅逐隊ノ項中﹁、文月﹂ヲ削ル|第二十四驅逐隊ノ項ヲ削ル﹄
(92)^ #雪風手記495頁
(93)^ #雪風手記447頁
(94)^ #S1906十戦隊日誌p.15
(95)^ ab#S1906十戦隊日誌pp.8-9
(96)^ #あ号作戦日誌(2)p.24﹃谷風(略)9日磯風島風早霜ト共ニ港外ニ出動敵潜掃蕩中﹁ボンガオ﹂島ノ229度9浬ニ於テ敵潜ノ攻撃ヲ受ケ被雷沈没セリ﹄
(97)^ SS-257, USS HARDER pp.249-250
(98)^ ab#S士官の手記pp.9-10﹃タウイタウイ着2100頃﹁タウイタウイ﹂泊地外對磯風(磯波?)ト共ニ(潜水艦)警戒中ノ谷風(艦長中佐池田周作、先任水雷長66期薄谷優大尉)敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没、當時當直将校河谷大尉月唄、彼ノ言ニ依レバ﹁左舷雷跡﹂ノ報告ト同時ニ﹁取舵一杯﹂ヲ令シタルモ號令ノ移ラザル中ニ一番砲塔左舷ニ魚雷命中前部切断ト共ニ急速ニ沈没、身ハ海中ニホリ出サレ更ニ中部ニ魚雷命中殆ド轟沈状況ナリヤ、艦沈降中搭載爆雷筺炸裂ニ依リ水中爆傷ヲ受ケタルモノ相當多数、彼モ亦其ノ一人ニシテ沖波ニ救助後約二時間ニシテ腹痛ヲ訴ヘ10/6朝他艦ニ移乗ノ際ハ顔面蒼白前鏡ニテ苦シ相ニ見エタリ、同日遂ニ絶命。沖波ハ應急出動艦トシテ直ニ出動、谷風艦長以下約2/3乗員救助歸﹄
(99)^ #あ号作戦第10戦隊詳報12号p.5
(100)^ #あ号作戦日誌(2)p.22﹃(1)磯風﹁タウイタウイ﹂ニアリテ警戒待機シツゝ訓練整備ニ従事中ノ所九日湾外ニ敵潜出現ノ報ニ依リ出動、谷風島風早霜ト共ニ對潜掃蕩中谷風被雷沈没之ガ救助ニ任ジ翌十日泊地ニ皈投ス﹄
(101)^ #S士官の手記p.10﹃沖波ハ應急出動艦トシテ直ニ出動、谷風艦長以下約2/3乗員救助帰投﹄
(102)^ #戦藻録(九版)340頁
(103)^ #S士官の手記p.11﹃…窮鼠ノ勢猛然ト反撃ニ出テ魚雷二本發射之ハ沖波右舷約七米ヲ並行ニ通過沖波ハ直ニ三回ニ亘ル爆雷攻撃ヲ加ヘ確實ニ撃沈…﹄
(104)^ #S士官の手記p.12﹃昨夜ノ谷風ノ仇ヲ討ツ﹄
(105)^ #内令(秘)昭和19年8月(3)p.9﹃内令第九三七號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十九年八月十日 海軍大臣|軍艦、航空母艦ノ部中﹁、飛鷹﹂ヲ、同敷設艦ノ部中﹁、津軽﹂ヲ削ル|驅逐艦、一等神風型ノ項中﹁、松風﹂ヲ、同卯月型ノ項中﹁、水無月﹂ヲ、同白露型ノ項中﹁白露、﹂﹁、春雨﹂ヲ、同不知火型ノ項中﹁、谷風﹂ヲ、同夕雲型ノ項中﹁、早波﹂ヲ削ル(以下略)﹄
(106)^ #内令(秘)昭和19年8月(3)p.10﹃内令第九四一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年八月十日 海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中﹁谷風、﹂ヲ削ル|第二十二驅逐隊ノ項中﹁水無月、﹂ヲ削ル|第二十七驅逐隊ノ項中﹁白露、﹂及﹁、春雨﹂ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中﹁松風、﹂ヲ削ル|第三十二驅逐隊ノ項中﹁早波、﹂ヲ削ル﹄
(107)^ #内令(秘)昭和19年8月(3)p.11﹃内令第九四三號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 津軽|呉鎮守府在籍 軍艦 飛鷹 右帝国軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 春雨|呉鎮守府在籍 驅逐艦 谷風|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 白露 驅逐艦 水無月 驅逐艦 松風|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 早波|右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル(中略)昭和十九年八月十日 海軍大臣﹄
(108)^ #S1907十戦隊日誌(2)p.6﹃(5)谷風 十日附第十七駆逐隊並ニ駆逐艦籍ヨリ除カル﹄
(109)^ 昭和15年12月10日付 海軍辞令公報 ︵部内限︶ 第567号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072079900 で閲覧可能。
(110)^ ab昭和16年4月25日付 海軍辞令公報 ︵部内限︶ 第629号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072080900 で閲覧可能。
(111)^ ab昭和16年9月15日付 海軍辞令公報 ︵部内限︶ 第714号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072082100 で閲覧可能。
(112)^ 昭和18年2月1日付 海軍辞令公報 ︵部内限︶ 第1045号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072089600 で閲覧可能。
(113)^ 昭和18年1月27日付 海軍辞令公報 ︵部内限︶ 第1042号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072089500 で閲覧可能。
(114)^ ab昭和18年4月26日付 海軍辞令公報 ︵部内限︶ 第1101号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072090700 で閲覧可能。
(115)^ ab昭和18年11月10日付 海軍辞令公報 ︵部内限︶ 第1258号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072094300 で閲覧可能。
(116)^ 昭和19年10月10日付 秘海軍辞令公報 甲 第1615号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072101400 で閲覧可能。
参考文献
編集
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●生出寿﹃烈将 山口多聞﹄徳間書店、1989年8月。ISBN 4-19-598853-5。
●イアン・トール著、村上和久訳﹁第十二章 決戦のミッドウェイ﹂﹃太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下﹄文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6。
●防衛庁防衛研修所戦史室﹃戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦﹄朝雲新聞社、1969年5月。
●防衛庁防衛研修所 戦史室﹃戦史叢書第40巻 南太平洋陸軍作戦<3>ムンダ・サラモア﹄朝雲新聞社
●防衛庁防衛研修所戦史室﹃戦史叢書 ミッドウェー海戦﹄ 第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。
●防衛庁防衛研修所戦史室﹃戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで﹄朝雲新聞社、1971年9月。
●防衛庁防衛研修所戦史室﹃戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降﹄朝雲新聞社、1973年2月。
●防衛庁防衛研修所 戦史室﹃戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後﹄朝雲新聞社
●雑誌﹁丸﹂編集部﹃写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II﹄光人社、1990年 ISBN 4-7698-0461-X
●雑誌﹁丸﹂編集部﹃ハンディ判日本海軍艦艇写真集 17 駆逐艦 春雨型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風﹄光人社、1997年10月。ISBN 4-7698-0818-6。
●宮尾直哉﹃空母瑞鶴から新興丸まで 海軍軍医日記抄﹄近代文藝社、1992年3月。ISBN 4-7733-1211-4。
●ウォルター・ロード、実松譲訳﹃逆転 信じられぬ勝利﹄フジ出版社、1969年7月。
●木俣滋郎﹃日本水雷戦史﹄図書出版社、1986年
●相良辰雄﹁クラ湾夜戦 大砲と魚雷の戦い﹂﹃丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ1 空白の戦記 中・北部ソロモンの攻防戦﹄潮書房、1985年、171-179ページ
●アジア歴史資料センター︵公式︶︵防衛省防衛研究所︶
●Ref.C13071997700﹃昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿‥巻1追録/第6類機密保護﹄。
●Ref.C13071998900﹃昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(下)原稿‥巻3追録/第16類艦船﹄。
●Ref.C12070070700﹃大正5年達完/5月﹄。
●Ref.C12070070800﹃大正5年達完/6月﹄。
●Ref.C12070107500﹃昭和15年1月~12月達/8月﹄。
●Ref.C12070150500﹃昭和16年1月~4月内令1巻/昭和16年4月(5)﹄。
●Ref.C12070151200﹃昭和16年5月~8月内令2巻/昭和16年5月(1)﹄。
●Ref.C12070196900﹃昭和19年1月~7月 内令/昭和19年3月(5)﹄。
●Ref.C12070496100﹃昭和19年8月~9月 秘海軍公報﹄。
●Ref.C08051772000﹃昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書﹄。
●Ref.C08030080200﹃昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(1)﹄。
●Ref.C08030080300﹃昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(2)﹄。
●Ref.C08030080400﹃昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(3)﹄。
●Ref.C08030080500﹃昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(4)﹄。
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●Ref.C08030023900﹃昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(2)﹄。
●Ref.C08030024100﹃昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(4)﹄。
●Ref.C08030749500﹃昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(1)﹄。
●Ref.C08030048400﹃昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(3)﹄。
●Ref.C08030048500﹃昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(4)﹄。﹁第八戦隊戦闘詳報第五號 昭和一七年十月二十六日南太平洋海戦﹂
●Ref.C08030022600﹃昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)﹄。
●Ref.C08030022700﹃昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(3)﹄。
●Ref.C08030022800﹃昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)﹄。
●Ref.C08030022900﹃昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(5)﹄。
●Ref.C08030023000﹃昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(6)﹄。
●Ref.C08030099500﹃昭和17年11月29日~昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日記(1)﹄。
●Ref.C08030099600﹃昭和17年11月29日~昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日記(2)﹄。
●Ref.C08030099600﹃昭和17年11月29日~昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日記(2)﹄。
●Ref.C08030099700﹃昭和17年11月29日~昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日記(3)﹄。
●Ref.C08030099800﹃昭和17年11月29日~昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日記(4)﹄。
●Ref.C08030049500﹃昭和16年12月1日~昭和18年3月15日 第9戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)﹄。
●Ref.C08030117000﹃昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)﹄。
●Ref.C08030753700﹃駆逐艦 谷風(クラ湾沖海戦)蓮.海防艦第76号戦時日誌.戦闘詳報(1)﹄。
●Ref.C08030146300﹃昭和18年2月1日~昭和19年10月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)﹄。
●Ref.C08030105800﹃昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)﹄。
●Ref.C08030047800﹃昭和17年4月1日~昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)﹄。
●Ref.C08030126400﹃昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(5)﹄。
●Ref.C08030126500﹃昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(6)﹄。
●Ref.C08030145300﹃昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)﹄。
●Ref.C08030713900﹃昭和19年5月20日~昭和19年6月22日 あ号作戦 第10戦隊戦闘詳報 第12号﹄。
●Ref.C08030039800﹃昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)﹄。
●Ref.C08030039900﹃昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)﹄。
●Ref.C08030724100﹃昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 第10戦隊戦時日誌﹄。
●Ref.C08030050900﹃昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(2)﹄。
●Ref.C14061106300﹃S士官の手記 史実調査部/沖波戦闘行動関係﹄。