第7師団 (日本軍)
大日本帝国陸軍の師団のひとつ
(一木支隊から転送)
第7師団(だいしちしだん)は大日本帝国陸軍の師団の一つ。北海道に置かれた常備師団として北辺の守りを担う重要師団であり、北海道民は畏敬の念を多分に含め、「北鎮部隊」と呼んでいた。
第7師団 | |
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創設 | 1896年(明治29年)5月12日 |
廃止 | 1945年(昭和20年)9月22日 |
所属政体 |
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所属組織 |
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部隊編制単位 | 師団 |
兵科 | 歩兵 |
所在地 | 札幌-旭川(鷹栖村)-満洲-ガダルカナル-ニューギニア-帯広 |
編成地 | 札幌 |
通称号/略称 | 熊 |
愛称 |
北鎮部隊 動かざる師団 |
補充担任 | 旭川師管区 |
最終上級単位 | 第5方面軍 |
最終位置 | 北海道 帯広 |
主な戦歴 |
日露戦争-満洲事変-日中戦争-ノモンハン事件-太平洋戦争 (アッツ島の戦い) (ガダルカナル島の戦い) (ポートモレスビー作戦) |
概要
編集沿革
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1896年1月、渡島・後志・胆振・石狩の4ヵ国に徴兵令が施かれて、仮の司令部が札幌の屯田兵本部に置かれ、屯田兵司令官であった永山武四郎将軍が初代師団長に補せられる[1]。 この際に明治天皇が第七師団を﹁だい"しち"しだん﹂と読んだとされることから、師団名は﹁だい"なな"しだん﹂ではなく﹁だい"しち"しだん﹂と読むのが正式とされるようになった[2]。
1898年1月からは全道11ヵ国に徴兵令が施かれた。もともと北海道の中央、上川地域に師団司令部を置き、ここに大兵団を設けて北方警備の中心地とする計画であったため、7月16日の鉄道開通後の1899年、敷地を買収、6月から兵舎その他の工事を始める[1]。
1901年10月30日、師団司令部、師団監督部、旭川陸軍糧飼部、旭川陸軍経営部が、上川郡鷹栖村大字近文歩兵第28連隊兵舎に移転[3]。1902年10月21日、師団司令部は鷹栖村大字近文の新築庁舎に移転した[4]。︵現在の旭川駐屯地の近く、春光4条7丁目︶同年10月25日、師団法官部、札幌衛戍監獄が鷹栖村大字近文の新築庁舎に移転[5]。
1904年︵明治37年︶、日露戦争に出征し、旅順攻略戦・奉天会戦に参加する。1909年︵明治42年︶、当時の旭川町︵現・旭川市︶との間で軍人に対する町税の課税を巡る対立が表面化し、師団が町からの分離独立を主張する問題が発生するが︵いわゆる﹁近文衛戍地分離独立問題﹂︶、翌年に両者の間で8項目の協定書が交わされ分離独立は回避された︵この協定書に基づき常磐公園が整備された︶[6]。
1917年︵大正6年︶から2年間は満洲に駐屯し、シベリア出兵に参加。1918年6月6日、兵器部が事務を開始[7]。1919年5月5日、師団司令部が旭川区に帰還した[8]。1934年︵昭和9年︶と1936年︵昭和11年︶にも満州に派遣された。
その後も1938年︵昭和13年︶2月に関東軍の指揮下に入り満洲に派遣され、7月に張鼓峰事件が起きて出動するが、これは師団の交戦前に終結した。1939年︵昭和14年︶のノモンハン事件では、6月に師団の一部が第23師団に配属されて出動しソ連軍と交戦、師団主力も増援部隊として9月までに逐次動員された。圧倒的なソ連軍機甲部隊に対し、ガソリン瓶で抵抗した須見新一郎連隊長率いる歩兵第26連隊の奮戦ぶりは語り草となっている。しかし、第7師団は北辺の守りを担う重要師団であり、翌1940年︵昭和15年︶に北海道に帰還した。その後は1942年︵昭和17年︶に一木支隊を編成しミッドウェー島からガダルカナル島に派遣し、また北海支隊を編成してアリューシャン列島のアッツ島へ派遣したものの[注1][注2]、師団本体は1940年︵昭和15年︶8月に天皇直属隷下[注3]に置かれ以後、﹁動かざる師団﹂として北海道に在り続けた。
1944年︵昭和19年︶2月には留守第7師団を基幹に第77師団が新設され、2月18日、第5方面軍結成されたときに第5方面軍に編入された[9]。3月には師団司令部を帯広に移駐して道東方面の防衛に専念することになった。これに伴い、歩兵第26連隊を帯広、歩兵第27連隊を釧路、歩兵第28連隊を北見に配置し、計根別平野︵現中標津町︶を決戦地として定め、海岸陣地やトーチカの構築に専念するものの、予期された連合軍の襲来が無いまま、第二次世界大戦の終戦を迎えた、司令部は1945年9月22日帯広にて復員[10]。師団が設営したトーチカが今もなお根室、釧路、十勝の海岸線に残されている。
歴代師団長
編集屯田兵本部長
編集- 永山武四郎 少将:1885年(明治18年)5月21日 - 1889年(明治22年)8月1日
屯田兵司令官
編集- 永山武四郎 少将:1889年(明治22年)8月1日 - 1896年(明治29年)5月12日
臨時第7師団司令官
編集- 永山武四郎 少将:1895年(明治28年)3月4日 - 6月22日
第7師団長
編集- 永山武四郎 少将:1896年(明治29年)5月12日 -
- 大迫尚敏 中将:1900年(明治33年)4月25日 - 1906年7月6日
- 上田有沢 中将:1906年(明治39年)7月6日 - 1908年12月21日
- 上原勇作 中将:1908年(明治41年)12月21日 - 1911年9月6日
- 林太一郎 中将:1911年(明治44年)9月6日 - 1914年5月11日
- 宇都宮太郎 中将:1914年(大正3年)5月11日 - 1916年8月18日
- 藤井幸槌 中将:1916年(大正5年)8月18日 -
- 内野辰次郎 中将:1919年(大正8年)11月25日 -
- 国司伍七 中将:1923年(大正12年)8月6日 -
- 渡辺錠太郎 中将:1926年(大正15年)3月2日 - 1929年3月14日
- 新井亀太郎 中将:1929年(昭和4年)3月16日 -
- 佐藤子之助 中将:1931年(昭和6年)8月1日 -
- 杉原美代太郎 中将:1933年(昭和8年)8月1日 - 1935年8月1日
- 宇佐美興屋 中将:1935年(昭和10年)8月1日[11] - 1936年3月23日[12]
- 三毛一夫 中将:1936年(昭和11年)3月23日 -
- 園部和一郎 中将:1937年(昭和12年)8月2日 -
- 国崎登 中将:1939年(昭和14年)8月1日 -
- 鯉登行一 中将:1941年(昭和16年)11月6日 -
歴代参謀長
編集- 浅田信興 歩兵大佐:1896年(明治29年)5月12日 - 1896年10月15日[13]
- 松永正敏 歩兵大佐:1896年(明治29年)10月15日[14] - 1900年4月25日[15]
- 小泉正保 歩兵大佐:1900年(明治33年)4月25日 - 1903年7月2日[16]
- 摺沢静夫 歩兵大佐:1903年(明治36年)7月2日 - 1904年10月23日[17]
- 石黒千久之助 歩兵中佐:1904年(明治37年)10月23日[18] - 1905年12月20日[19]
- 吉田平太郎 騎兵大佐:1905年(明治38年)12月20日[20] - 1908年4月29日[21]
- 小池安之 歩兵大佐:1908年(明治41年)4月29日 - 1911年9月6日[22]
- 吉橋徳三郎 騎兵中佐:1911年(明治44年)9月6日 - 1913年8月22日[23]
- 矢野目孫一 工兵大佐:1913年(大正2年)8月22日 - 1916年1月21日[24]
- 久世為次郎 歩兵大佐:1916年(大正5年)1月21日 - 1917年8月6日[25]
- 木村戒自 砲兵大佐:1917年(大正6年)8月6日 - 1919年4月15日[26]
- 磯林直明 歩兵大佐:1919年(大正8年)4月15日 - 1920年8月10日[27]
- 永谷清治 歩兵大佐:1920年(大正9年)8月10日 - 1922年8月15日[28]
- 木村聞三 砲兵大佐:1922年(大正11年)8月15日 - 1924年2月4日[29]
- 宮内英熊 騎兵大佐:1924年(大正13年)2月4日 - 1924年12月15日[30]
- 斎藤瀏 歩兵大佐:1924年(大正13年)12月15日 - 1927年3月5日[31]
- 嶋永太郎 歩兵大佐:1927年(昭和2年)3月5日 - 1928年8月10日[32]
- 天野六郎 歩兵大佐:1928年(昭和3年)8月10日 - 1931年8月1日[33]
- 伊田常三郎 歩兵大佐:1931年(昭和6年)8月1日 - 1933年8月1日[34]
- 浜本喜三郎 歩兵大佐:1933年(昭和8年)8月1日 - 1935年3月15日[35]
- 松室孝良 騎兵大佐:1935年(昭和10年)3月15日 - 1936年3月7日[36]
- 横山臣平 歩兵大佐:1936年(昭和11年)3月7日 - 1937年11月1日[37]
- 服部暁太郎 工兵大佐:1937年(昭和12年)11月1日- 1939年1月30日[38]
- 池田浚吉 砲兵大佐:1939年(昭和14年)1月31日 - 1940年4月6日[39]
- 岩切秀 歩兵大佐:1940年(昭和15年)4月6日 - 1941年3月1日[40]
- 大本四郎 大佐:1941年(昭和16年)3月1日 - 1942年8月1日[41]
- 鈴木敬司 大佐:1942年(昭和17年)8月1日 - 1943年6月11日[42]
- 土田穣 中佐:1943年(昭和18年)6月11日 - 1945年1月12日[43]
- 江田稔 大佐:1945年(昭和20年)1月12日 - 終戦[44]
最初編成
編集最終編制
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集
(一)^ ab永山町史 P.849 旭川市永山町史編集委員会編 発行者佐藤今朝夫 発行所株式会社国書刊行会 昭和56年12月15日発行
(二)^ “戦前の陸軍第七師団は﹁だい"しち"しだん﹂と読まれていたと言われるが,その由来と... レファレンス協同データベース”. 国立国会図書館 (2019年2月27日). 2019年3月19日閲覧。
(三)^ ﹃官報﹄第5503号、明治34年11月5日。
(四)^ ﹃官報﹄第5795号、明治35年10月27日。
(五)^ ﹃官報﹄第5800号、明治35年11月1日。
(六)^ ︻旭川市図書館︼常磐公園について - 旭川市図書館チャンネル
(七)^ ﹃官報﹄第1766号、大正7年6月22日。
(八)^ ﹃官報﹄第2029号、大正8年5月12日。
(九)^ 第5方面軍︵達︶.アジ歴グロッサリー
(十)^ 第7師団︵熊︶.アジ歴グロッサリー
(11)^ ﹃官報﹄第2575号︵昭和10年8月2日︶の任官記事、左ページ最下段の右寄り。
(12)^ ﹃官報﹄第2765号、昭和11年3月24日。
(13)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄30頁。
(14)^ ﹃官報﹄第3993号、明治29年10月19日。
(15)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄33頁。
(16)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄50頁。
(17)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄40頁。
(18)^ ﹃帝国陸軍編制総覧﹄222頁。
(19)^ ﹃官報﹄第6744号、明治38年12月21日。
(20)^ ﹃官報﹄第6745号、明治38年12月22日。
(21)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄84頁。
(22)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄75頁。
(23)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄100頁。
(24)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄97頁。
(25)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄115頁。
(26)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄114頁。
(27)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄128頁。
(28)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄136頁。
(29)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄152頁。
(30)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄153頁。
(31)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄171頁。
(32)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄177頁。
(33)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄200頁。
(34)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄220頁。
(35)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄230頁。
(36)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄245頁。
(37)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄266頁。
(38)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄313頁。
(39)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄352頁。
(40)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄356頁。
(41)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄421頁。
(42)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄420頁。
(43)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄459頁。
(44)^ ﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄435頁。
(45)^ 第7師団.アジ歴グロッサリー
参考文献
編集
●﹃官報﹄。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧。
●旭川市永山町史編集委員会編﹃永山町史﹄国書刊行会、1981年。
●示村貞夫﹃旭川第七師団﹄総北海、1984年。
●保坂正康﹃最強師団の宿命﹄毎日新聞社、2008年。
●外山操・森松俊夫編著﹃帝国陸軍編制総覧﹄芙蓉書房出版、1987年。
●秦郁彦編﹃日本陸海軍総合事典﹄第2版、東京大学出版会、2005年。
●福川秀樹﹃日本陸軍将官辞典﹄芙蓉書房出版、2001年。
●外山操編﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄芙蓉書房出版、1981年。
関連項目
編集- 大日本帝国陸軍師団一覧
- 北鎮記念館
- ゴールデンカムイ
- 木彫りの熊 - 帰郷する軍人や面会に訪れた家族の北海道土産として人気となった。
- 第7師団 (陸上自衛隊)