舞風 (駆逐艦)
駆逐艦
舞風︵まいかぜ/まひかぜ︶[1]は、大日本帝国海軍︵日本海軍︶の駆逐艦、陽炎型駆逐艦︵一等駆逐艦陽炎型︶の第18番艦である[2]。ミッドウェー海戦では第4駆逐隊僚艦と共に南雲機動部隊旗艦/空母﹁赤城﹂を雷撃で処分した。1944年︵昭和19年︶2月、トラック諸島沖でアメリカ軍艦隊の砲撃によって戦没した︵トラック島空襲︶。
艦歴 | |
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計画 | 1939年度(④計画) |
起工 | 1940年4月22日 |
進水 | 1941年3月15日 |
就役 | 1941年7月15日竣工 |
その後 | 1944年2月17日戦没 |
沈没地点 | 北緯07度45分 東経151度20分 / 北緯7.750度 東経151.333度 |
除籍 | 1944年3月31日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:2,033トン |
全長 | 118.5m |
全幅 | 10.8m |
吃水 | 3.8m |
機関 | ロ号艦本式缶3基 艦本式衝動タービン2基2軸 52,000馬力 |
速力 | 35.0ノット |
航続距離 | 18ノットで5,000浬 |
乗員 | 239人 |
兵装 | 50口径三年式12.7センチ砲連装×3 25mm機銃連装×2 61cm魚雷発射管4連装×2 爆雷16個 |
艦歴
編集竣工まで
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④計画、仮称第114号艦として藤永田造船所で建造開始。1940年︵昭和15年︶4月22日起工[3]。
1941年︵昭和16年︶2月5日、﹁舞風﹂と命名され[1]、一等陽炎型として登録される[4]。
同年3月15日進水[3]。
日本海軍は4月10日附で、神風型駆逐艦7番艦﹁疾風﹂艦長[5]、吹雪型駆逐艦5番艦﹁叢雲﹂艦長[6]等を歴任した中杉清英中佐を、舞風艤装員長に任命する︵後任の叢雲艦長は東日出夫少佐︶[7]。4月18日、藤永田造船所に艤装員事務所を設置[8]。
7月15日竣工[3]。同日附で艤装員事務所を撤去[9]。中杉は制式に舞風駆逐艦長︵初代︶となる[10]。同日附で横須賀鎮守府籍[11]。
9月1日、陽炎型2隻︵野分、舞風︶は練習兼警備駆逐艦に指定[12]。10月31日附で2隻︵野分、舞風︶は第4駆逐隊に編入された[13][14]。第4駆逐隊司令は有賀幸作大佐[15]。
太平洋戦争緒戦
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太平洋戦争開戦時、陽炎型4隻︵野分、嵐、萩風、舞風︶は、ひきつづき第4駆逐隊︵駆逐隊司令有賀幸作大佐/戦艦大和沈没時艦長︶を編制していた[16]。4隻とも竣工したばかりの最新鋭艦である[17]。4駆は第四水雷戦隊︵司令官西村祥治少将‥旗艦那珂︶に所属しており、南方部隊本隊︵指揮官近藤信竹中将/第二艦隊司令長官︶に加わって南方作戦を支援する。
また1942年︵昭和17年︶2月にスターリング湾を出発してジャワ機動作戦、ベンガル湾機動作戦に参加する[14]。第4駆逐隊第2小隊︵指揮官井上良雄中佐/萩風駆逐艦長‥萩風、舞風︶は第1小隊︵嵐、野分︶と分離し、南雲機動部隊に所属してセイロン沖海戦に参加した[18][14]。内地に帰還した後、第4駆逐隊はミッドウェー島攻略を目指す連合艦隊総力をあげた﹁ミッドウェー作戦﹂に参加した。
詳細は「ミッドウェー海戦」を参照
南雲忠一中将を司令長官とする南雲機動部隊には、護衛艦艇として第十戦隊︵司令官木村進少将‥旗艦長良、第10駆逐隊︽秋雲、夕雲、巻雲、風雲︾、第17駆逐隊︽浦風、磯風、谷風、浜風︾︶が所属していた。第4駆逐隊4隻︵嵐、野分、萩風、舞風︶は第四水雷戦隊から引き抜かれる形で機動部隊警戒隊指揮官︵第十戦隊司令官︶の指揮下に入った[19]。機動部隊輪形陣において第4駆逐隊は主力空母4隻︵赤城、加賀、蒼龍、飛龍︶直衛であり、本艦は空母﹁蒼龍﹂︵第二航空戦隊︶の左後方に位置していたという[20]。日本時間6月5日午前7時20分以降、アメリカ軍機動部隊艦載機SBDドーントレス急降下爆撃機の攻撃により空母3隻︵赤城、加賀、蒼龍︶は大破炎上する。第4駆逐隊第2小隊︵舞風、萩風︶は空母﹁加賀﹂︵第一航空戦隊︶の乗員を救助した[21]。中杉︵舞風艦長︶によれば、加賀沈没直前の爆発により1000mほど離れていた﹁舞風﹂の方位盤が故障したという[22]。
加賀沈没後、2小隊︵舞風、萩風︶は空母﹁赤城﹂︵第一航空戦隊︶及び同艦救援中の第1小隊︵嵐、野分︶と合流する。山本五十六連合艦隊司令長官︵戦艦大和座乗︶より﹁赤城の処分まて﹂との電令があり、有賀司令︵嵐座乗︶は﹁今夜は赤城の警戒に任じ、敵艦来たらば刺違え戦法をもってこれを撃滅せんとす﹂と号令した[23]。その後、改めて山本長官より赤城処分命令があった[24]。6月6日現地時間午前4時40分、第4駆逐隊は嵐-野分-萩風-舞風の単縦陣となり赤城右舷に酸素魚雷を発射[25]。萩風砲術長によれば、魚雷を発射したのは嵐・野分・萩風の3隻で﹁舞風﹂は発射しておらず、さらに﹁野分﹂の魚雷は不発だったという[26]。﹁野分﹂の魚雷は爆発せず、嵐・舞風の魚雷が赤城艦橋附近で起爆したともいう[27]。現地時間4時55分︵日本時間午前2時︶、﹁赤城﹂は沈没した[28]。
その後、第4駆逐隊は赤城の生存者を戦艦﹁陸奥﹂︵一部著作では榛名も含む︶へ、加賀生存者を戦艦﹁長門﹂に引き渡した[29]。次に、アリューシャン攻略作戦を支援するため、空母﹁瑞鳳﹂を護衛して北方海面に進出、6月9日附で第二機動部隊︵龍驤、隼鷹等︶に編入された[30]。7月4日をもって作戦終了、7月12日内地着、13日呉入港[31]。7月14日、第4駆逐隊は第四水雷戦隊から第十戦隊︵司令官木村進少将‥旗艦長良︶に編入され[14]、第四水雷戦隊には第27駆逐隊︵時雨、白露、有明、夕暮︶が加わった。
太平洋戦争中盤の戦い
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1942年︵昭和17年︶8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸しガダルカナル島の戦いがはじまった。舞風以下第4駆逐隊はソロモン諸島へ進出、駆逐艦輸送作戦︵鼠輸送︶に従事する。8月18日、第4駆逐隊第1小隊︵嵐、萩風︶はガダルカナル島で空襲を受け﹁萩風﹂が損傷、戦線離脱を余儀なくされた[32][14]。
一方、第4駆逐隊第2小隊︵野分、舞風︶は第十戦隊長良以下各艦と共に第三艦隊︵司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、旗艦翔鶴︶に同行、8月24-25日の第二次ソロモン海戦参加した[14]。第2小隊︵野分、舞風︶は第十一戦隊︵比叡・霧島︶の直衛であった。24日、2隻︵霧島、舞風︶はB-17の爆撃を受けるが至近弾であり、被害はなかった[33]。本海戦で日本海軍は空母﹁龍驤﹂等を撃沈されて敗北し、トラック泊地に一時撤収する。9月1日、﹁舞風﹂でジャイロコンパスの故障が発生、﹁野分﹂とは別行動になった[34]。翌日、﹁舞風﹂は﹁筥崎丸﹂のショートランド回航を護衛した[35]。
その後、2隻︵野分、舞風︶は最前線に進出した[36]。10月3日︵日進、野分、舞風)[37]、10月6日︵浦波、敷波、野分、舞風、秋雲、巻雲︶[36][38]、10月9日︵黒潮、親潮、早潮、龍田、野分、舞風︶[39]と鼠輸送を実施した。
10月26日、第4駆逐隊︵嵐、舞風、野分︶は駆逐艦6隻︵第16駆逐隊︽初風、雪風、天津風、時津風︾、第17駆逐隊︽浜風︾、第61駆逐隊︽照月︾︶と共に南太平洋海戦に参加する[40]。第4駆逐隊︵嵐、舞風︶は第一航空戦隊の空母3隻︵翔鶴、瑞鶴、瑞鳳︶直衛、﹁野分﹂は補給部隊護衛艦としてアメリカ軍機動部隊艦載機と交戦した[41]。戦闘で空母2隻︵翔鶴、瑞鳳︶、重巡2隻︵筑摩、熊野︶がそれぞれ損傷し、駆逐艦2隻︵初風、舞風︶は損傷空母2隻を護衛してトラック泊地へ向かった[42]。11月2日、駆逐艦部隊︵第4駆逐隊︽嵐、野分、舞風︾、第17駆逐隊︽谷風、浦風、浜風、磯風︾、第10駆逐隊︽秋雲︾、第61駆逐隊︽秋月︾︶は損傷艦艇︵空母2隻︽翔鶴、瑞鳳︾、重巡2隻︽熊野、筑摩︾︶を護衛してトラック泊地を出港、日本本土へ向かった[43]。内地で整備修理後、12月1日に呉を出発[14]。ふたたびソロモン海へ進出する[44]。
12月7日、駆逐艦11隻による鼠輸送中に僚艦﹁野分﹂が航行不能となる損傷を受け、半年以上戦線を離脱する[45]。﹁野分﹂は秋月型駆逐艦2番艦﹁照月﹂に護衛されつつ、夕雲型駆逐艦4番艦﹁長波﹂に曳航されてショートランド泊地まで退避した。﹁舞風﹂はショートランドに停泊中の﹁野分﹂をトラック泊地まで曳航した。
1943年︵昭和18年︶1月5日より、ラバウルからラエへ陸軍第51師団の一部などを輸送する十八号作戦に参加[46]。これは﹁舞風﹂と第17駆逐隊︵﹁谷風﹂、﹁浦風﹂、﹁浜風﹂、﹁磯風﹂︶が﹁ぶらじる丸﹂、﹁妙高丸﹂、﹁くらいど丸﹂、﹁日龍丸﹂、﹁智福丸﹂を護衛するものであった[47]。﹁舞風﹂は1月3日にラバウルに到着[48]。船団は1月5日にラバウルから出発[49]。船団は空襲を受け、1月7日に﹁日龍丸﹂が被弾沈没[49]。﹁舞風﹂は救助活動を行なった[49]。同日ラエ到着[50]。ラエでも空襲を受け、﹁妙高丸﹂が被弾擱坐した[50]。揚陸完了後、1月8日に船団はラエ発[50]。1月10日、船団はアメリカ潜水艦﹁アルゴノート﹂の攻撃を受けた[51]。上空を哨戒中の艦爆[52]が潜水艦を爆撃し、続いて﹁舞風﹂が爆雷攻撃を行った[51]。﹁アルゴノート﹂は突然艦首を海面から突き出し、それに対して﹁舞風﹂と﹁磯風﹂が砲撃を行い﹁アルゴノート﹂を撃沈した[51]。同日、船団はラバウルに到着[50]。
1月14日-15日、駆逐艦9隻︵秋月︽第十戦隊旗艦︾、時津風、黒潮、谷風、浦風、浜風、磯風、舞風、嵐︶で鼠輸送を実施、この任務中に第4駆逐隊司令駆逐艦﹁嵐﹂が被弾して内地修理を必要とする損傷を受け、勝見基中佐︵谷風駆逐艦長︶が戦死した[53][54]。有賀司令は他駆逐隊からの応援を断り、4駆僚艦﹁舞風﹂に﹁嵐﹂の曳航を命じている[54]。﹁嵐﹂はショートランド泊地を経てトラック泊地に移動した[54]。1月16日、第4駆逐隊司令駆逐艦は﹁舞風﹂になる[55]。1月23日、陽炎型2隻︵磯風、舞風︶はサンタイサベル島レカタ基地への輸送を実施[56]。1月26日、3隻︵磯風、舞風、喜山丸︶でコロンバンガラ島への輸送を実施[57]。
詳細は「ケ号作戦」を参照
同時期、第十戦隊司令官木村進少将が旗艦﹁秋月﹂大破時︵1月19日︶に負傷したため、第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将が1月21日附で第十戦隊司令官に任命された[58]。その後、本艦はガダルカナル島撤退作戦︵ケ号作戦︶に参加した。﹁舞風﹂は有賀司令が座乗する第4駆逐隊司令艦としての参加である[59][60]。
第1回作戦では、夕雲型駆逐艦5番艦﹁巻波﹂︵第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将座乗︶が中破して﹁長月﹂に曳航されて退避し、旗艦を﹁白雪﹂に変更後、作戦を続行した[59]。撤退作戦は成功したが夕雲型2番艦﹁巻雲﹂が沈没した[59][61]。
2月4日、日本海軍は駆逐艦2隻︵五月雨、朝雲︶等を増強して第2回撤収作戦を実施する[62][63]。零戦29機︵1機喪失1機不時着︶の護衛に対し、アメリカ軍は戦闘機31機・爆撃機32機を投入︵10機喪失︶[64]。午後2時、﹁舞風﹂はアメリカ軍機の攻撃を受け、至近弾により航行不能となった[65][66]。二列縦隊の左側先頭を航行していたためにアメリカ軍機の標的になり、至近弾で右舷に傾斜、火災も発生したという[64]。﹁舞風﹂は睦月型8番艦﹁長月﹂に曳航されてショートランド泊地に避退した[67][68]。
なお第3回作戦では姉妹艦﹁磯風﹂が爆撃により大破[64]。救援の為にまた﹁長月﹂が派遣されたが、﹁磯風﹂は﹁江風﹂に護衛され自力でショートランド泊地へ向かった[69]。﹁舞風﹂は工作艦﹁長浦﹂の手で応急修理をおこなったのち、第16駆逐隊﹁雪風﹂と共に2月10日ショートランド泊地発、12日トラック泊地着[70]。
2月13日、司令駆逐艦は﹁舞風﹂から﹁嵐﹂に変更[71]。
2月20日、第4駆逐隊司令は有賀幸作大佐から杉浦嘉十大佐︵太平洋戦争開戦時の第17駆逐隊司令︶[72]に交代した︵有賀は3月1日より高雄型重巡洋艦3番艦鳥海艦長︶[73][74]。司令駆逐艦も修理を終えた﹁萩風﹂に変更となった[75][76]。3月6日、﹁舞風﹂は朝潮型駆逐艦3番艦﹁満潮﹂︵同艦は第三次ソロモン海戦中に空襲で大破︶を曳航する姉妹艦﹁浜風﹂︵17駆︶を護衛してトラック泊地を出発、3隻︵舞風、浜風、満潮︶はサイパンを経由して16日に横須賀へ到着した[77]。17日より修理を開始する[14]。
6月21日、第十戦隊司令官は小柳冨次少将から大杉守一少将に交代する[78]。6月22日、舞風駆逐艦長は、中杉中佐から萩尾力中佐に交代[79]。萩尾は、初春型駆逐艦6番艦﹁夕暮﹂艦長[80]、神風型6番艦﹁追風﹂艦長[81]、吹雪型10番艦﹁浦波﹂艦長[82]等を歴任していた。
7月23日、修理を終えて横須賀を出撃[14]。トラックへ進出する[83]。
8月6日、コロンバンガラ島輸送任務に従事していた駆逐艦4隻︵萩風、嵐、江風、時雨︶はレーダーを装備した米駆逐艦6隻に奇襲された[84]。第4駆逐隊︵萩風、嵐︶と江風は一方的に撃沈され[14]、第27駆逐隊司令駆逐艦﹁時雨﹂︵司令原為一大佐座乗︶のみ生還した︵ベラ湾夜戦︶[85]。
9月5日、生還した杉浦司令は第4駆逐隊司令駆逐艦を﹁野分﹂に変更[86]。
第4駆逐隊は2隻︵野分、舞風︶になったため、9月15日附で朝潮型駆逐艦6番艦﹁山雲﹂が第4駆逐隊に編入された[87][14]。9月19日、第4駆逐隊︵舞風、野分︶は空母﹁瑞鳳﹂を護衛してブラウン環礁(エニウェトク環礁)に進出し、アメリカ軍機動部隊の出現に備えた[88]。しかしアメリカ軍機動部隊と直接交戦する事はなかった。10月22日、ラバウル方面への輸送作戦中に輸送船﹁栗田丸﹂が撃沈された[89]。2隻︵野分、舞風︶は生存者を救助した。
11月17日、第4駆逐隊司令は杉浦嘉十大佐から磯久研磨大佐[90]に交代した。杉浦大佐は12月1日より妙高型重巡洋艦4番艦﹁羽黒﹂艦長となり、同艦沈没時に戦死︵ペナン沖海戦︶[91]。一方、磯久大佐は、駆逐艦長月・霞・磯風駆逐艦長を務めた経歴を持っている。12月11日、第4駆逐隊︵舞風、野分︶は第三戦隊︵金剛、榛名︶を護衛してトラック出港[92]、16日午前10時に佐世保へ到着した[93]。2隻はただちに横須賀へ回航され、18日以降横須賀で待機した[94]。12月22日、磯久司令は司令駆逐艦を﹁舞風﹂に変更[95]。第4駆逐隊の次の任務は、高雄型重巡洋艦2番艦﹁愛宕﹂の護衛任務であった[96]。
1944年︵昭和19年︶1月4日、3隻︵愛宕、舞風、野分︶は横須賀を出港、9日トラック泊地に着いた[97]。1月15日附で第4駆逐隊︵舞風、野分︶は南東方面部隊に編入され、ラバウル方面の輸送任務に従事した[98]。2月12日、2隻はトラック泊地帰投。第十戦隊所属の第17駆逐隊︵浜風、谷風、浦風、磯風︶は﹁舞風﹂と入れ違いでトラック泊地を去っていた[99]。15日、第4駆逐隊3番艦﹁山雲﹂は輸送船﹁浅香丸﹂を護衛してトラック泊地を出発した[100]。2月16日深夜、本土修理のためトラック泊地を出港した軽巡洋艦﹁阿賀野﹂が米潜水艦の雷撃で沈没。阿賀野救援に向かった軽巡洋艦﹁那珂﹂も空襲により撃沈された。トラック泊地に有力なアメリカ軍機動部隊が接近しつつあり、米潜水艦はその先鋒であった[101]。
トラック島空襲
編集詳細は「トラック島空襲」を参照
1944年︵昭和19年︶2月17日、﹁舞風﹂は第4駆逐隊僚艦/姉妹艦﹁野分﹂と共に香取型練習巡洋艦1番艦﹁香取﹂、特設巡洋艦﹁赤城丸﹂を護衛︵第4215船団︶、内地帰還の予定だったがアメリカ軍機動部隊艦載機によるトラック島空襲に遭遇した[102]。同泊地に停泊していた第27駆逐隊︵時雨、春雨︶は空襲警報下令と共に泊地北水道を通過、﹁時雨﹂が損傷したものの脱出に成功した[103]。だが、同じ北水道を通過しながらも舞風達はのがれられなかった。
午前8時ごろ、空母ヨークタウンII飛行隊TBF アベンジャー雷撃機︵爆弾装備︶3機が﹁舞風﹂を攻撃し、3発命中を主張した[104]。午前8時30分、空母エンタープライズのTBFが舞風の前部砲塔に爆弾1発命中、至近弾9を主張した[105]。空母エセックス (USS Essex, CV-9)のTBFが艦中央部に爆弾1発の命中を主張[105]。野分乗組員によれば、午前9時30分に﹁舞風﹂から機関室浸水航行不能と、第4駆逐隊司令︵磯久研磨大佐︶の野分移乗を求める通信があった[105]。午前11時に﹁舞風﹂から発信された無電によれば、爆弾1発が左舷中央に命中して艦底まで貫通・機械室満水により航行不能となり、﹁野分﹂の曳航でトラック退避の予定であった[106]。だが空襲が継続したため、﹁野分﹂が﹁舞風﹂を曳航する機会はなかった。この時点で﹁赤城丸﹂は沈没、﹁舞風﹂は航行不能、﹁香取﹂は大火災を起こしていた[107]。
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アメリカ軍の艦載機から撮影された爆発・沈没する舞風 |
これら艦隊が航行不能に陥ったのを確認したレイモンド・スプルーアンス大将は航空機による攻撃を中断させ、自身が率いる艦で実艦射撃目標とすることにした。この艦隊はまず艦隊の針路上に出現した特設駆潜艇昭南丸︵350トン︶を﹁ニュージャージー﹂と駆逐艦が撃沈した。
午後12時10分︵12時16分とも︶、﹁舞風﹂、﹁香取﹂、﹁野分﹂はスプルーアンス大将自身が指揮し、機動部隊から分離された戦艦﹁ニュージャージー﹂︽旗艦︾、﹁アイオワ﹂、重巡洋艦﹁ミネアポリス﹂、﹁ニューオーリンズ﹂、駆逐艦4隻[101]を水平線上に発見した[108]。午後12時23分、まず戦艦アイオワが発砲し、12時25分に香取に対して着弾した[109]。午後12時26分、﹁野分﹂は﹁舞風﹂に対する艦砲射撃を確認した[110]。スプルーアンスはまず戦艦2隻︵ニュージャージー、アイオワ︶と駆逐艦2隻で健在の﹁野分﹂を追い掛け、残る艦に﹁香取﹂と﹁舞風﹂を攻撃するよう下令。﹁舞風﹂は集中砲撃を受けて船体が分断され、午後1時43分に黒煙をあげつつ沈没した[111]。戦史叢書の沈没時刻は午後2時24分。アメリカ軍記録による沈没地点北緯07度45分 東経151度20分 / 北緯7.750度 東経151.333度。﹁香取﹂も撃沈され、﹁香取﹂から3隻の救命艇︵﹁赤城丸﹂の生存者含む︶が脱出し、海面には﹁舞風﹂と﹁香取﹂の乗員が多数漂流したが、アメリカ軍機の執拗な銃撃によりこれらは全滅したとアメリカ軍が記録している[112]。このため﹁舞風﹂、﹁香取﹂と同艦に救助された﹁赤城丸﹂の生存者は1人もいなかった[113]。
磯久研磨第4駆逐隊司令、萩尾力艦長以下240名全員が戦死した。﹁野分﹂は単艦で西方に退避[107]。サイパンに脱出したのち﹁山雲﹂と合流、輸送船団を護衛して横須賀に帰投した[102][114]。
3月31日、﹁舞風﹂はトラック空襲で沈んだ各艦︵阿賀野、那珂、香取、太刀風、追風、文月︶等と共に帝国艦艇籍から除籍された[115]。
また不知火型駆逐艦から除籍[116]。
歴代艦長
編集- 艤装員長
- 駆逐艦長
参考文献
編集
●生出寿﹃戦艦﹁大和﹂最後の艦長 海上修羅の指揮官﹄光人社、1996年12月。ISBN 4-7698-2143-3。
●倉橋友二郎﹃駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・﹄徳間書店、1967年6月。 著者は1941年9月〜1942年9月まで駆逐艦﹁萩風﹂砲術長勤務。
●佐藤清夫﹃駆逐艦﹁野分﹂物語 若き航海長の太平洋海戦記﹄光人社、1997年。ISBN 4-7698-0803-8。
●佐藤清夫﹃駆逐艦野分 若き航海長の太平洋海戦記﹄光人社NF文庫、2004年1月︵原著1997年︶。ISBN 4-7698-2408-4。
●重本俊一ほか﹃陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦﹄潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
●戦史研究家落合康夫﹃駆逐隊別﹁陽炎型駆逐艦﹂全作戦行動ダイアリィ 第四、第十五、第十六、第十七、第十八駆逐隊 太平洋奮迅録﹄
●当時 四駆逐隊付・海軍少尉候補生戸田専一﹃乗艦﹁舞風﹂﹁萩風﹂ネズミ輸送の悲惨を語れ 駆逐艦の損傷相次ぎ風雲急を告げるソロモン戦線五ヶ月の体験﹄
●当時﹁嵐﹂水雷長・海軍大尉宮田敬助﹃第四駆逐隊﹁嵐﹂﹁萩風﹂ベラ湾夜戦に死す 昭和十八年八月六日夜、コロンバンガラ輸送の途次に魚雷をうけて三隻沈没﹄
●戦史研究家伊達久﹃日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後﹄
●橋本敏男、田辺弥八ほか﹃証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!﹄光人社NF文庫、1999年。ISBN 4-7698-2249-9。
●寺内正道ほか﹃海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相﹄潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0。
●当時﹁舞風﹂乗組四駆逐隊付・海軍少尉候補生戸田専一﹃第四駆逐隊﹁舞風﹂ガ島沖に突入せよ 兵学校卒業したての候補生が初陣でのぞんだガ島撤収作戦で被弾中破﹄
●戦史研究家村井至﹃太平洋戦争と日本の駆逐艦 満潮、朝雲、山雲、時雨。西村艦隊第四&二十七駆逐隊に象徴される駆逐艦の苦闘﹄
●元大本営参謀・海軍中佐吉田俊雄﹃陽炎型駆逐艦十七&十八駆逐隊の航跡 谷風ミッドウェーの奮戦と浦風、不知火、磯風、浜風の最後﹄
●豊田穣﹃雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦 栄光の生涯﹄光人社NF文庫、2004年︵原著1983年︶。ISBN 978-4-7698-2027-7。
●永井喜之・木俣滋郎﹁第2部 第二次大戦/日本軍編(13)練習巡洋艦﹁香取﹂﹂﹃新戦史シリーズ 撃沈戦記﹄朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8。
●チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳﹃ニミッツの太平洋海戦史﹄恒文社、1962年12月。
●原為一ほか﹃軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌﹄潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8。
●当時香取副長・海軍中佐多久丈夫﹃知られざる軽巡洋艦物語/初陣﹁香取﹂の奮戦﹄︵昭和18年2月まで香取副長︶
●戦史研究家伊達久﹃航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨﹄
●﹁丸﹂編集部﹃外国戦史に見る日本軽巡の最後﹄︵▽寸前まで抵抗した香取の武勇︶
●防衛庁防衛研修所戦史室﹃戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降﹄朝雲新聞社、1973年2月。
●防衛庁防衛研修所 戦史部﹃戦史叢書第83巻 南東方面海軍作戦<2>ガ島撤収まで﹄朝雲新聞社
●雑誌﹁丸﹂編集部﹃写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II﹄光人社、1990年 ISBN 4-7698-0461-X
●木俣滋郎﹃潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦﹄光人社、2000年、ISBN 4-7698-2289-8
●アジア歴史資料センター︵公式︶︵防衛省防衛研究所︶
●Ref.C08051772000﹃昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書﹄。
●Ref.C08030023800﹃昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(1)﹄。
●Ref.C08030023900﹃昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(2)﹄。
●Ref.C08030024000﹃昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(3)﹄。
●Ref.C08030024100﹃昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(4)﹄。
●Ref.C08030051500﹃昭和17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)﹄。
●Ref.C08030051600﹃昭和17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)﹄。
●Ref.C08030022500﹃昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)﹄。
●Ref.C08030022600﹃昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)﹄。
●Ref.C08030022700﹃昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(3)﹄。
●Ref.C08030022800﹃昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)﹄。
●Ref.C08030022900﹃昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(5)﹄。
●Ref.C08030586700﹃昭和17年9月11日~昭和18年7月22日 軍艦日進戦闘詳報(1)﹄。
●Ref.C08030768400﹃昭和17年11月~昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(1)﹄。
●Ref.C08030100400﹃昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)﹄。
●Ref.C08030146300﹃昭和18年2月1日~昭和19年10月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)﹄。
●Ref.C08030050000﹃昭和18年12月1日~昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(1)﹄。
●Ref.C08030050100﹃昭和18年12月1日~昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(2)﹄。
●Ref.C08030050200﹃昭和18年12月1日~昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(3)﹄。
●Ref.C08030050300﹃昭和18年12月1日~昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(4)﹄。
●Ref.C08030050400﹃昭和18年12月1日~昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(5)﹄。
●Ref.C12070108700﹃昭和16年1月~6月達/達昭和16年2月(1)﹄。
●Ref.C12070149700﹃昭和16年1月~4月内令1巻/昭和16年2月﹄。
●Ref.C12070162800﹃昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(2)﹄。
●Ref.C12070152000﹃昭和16年5月~8月内令2巻/昭和16年7月(2)﹄。
●Ref.C12070152800﹃昭和16年9月~10月内令3巻/昭和16年9月(1)﹄。
●Ref.C12070153600﹃昭和16年9月~10月内令3巻/昭和16年10月(4)﹄。
●Ref.C12070180700﹃昭和18年9~10月内令4巻/昭和18年9月(4)﹄。
●Ref.C12070196900﹃昭和19年1月~7月 内令/昭和19年3月(5)﹄。
●Ref.C12070195500﹃自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月﹄。
●Ref.C12070503600﹃自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2)﹄。
●Ref.C13072003500﹃昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/巻3追録/第13類艦船(1)﹄。
脚注
編集
(一)^ ab#達昭和16年2月(1)pp.3-4﹃達第二十四號 昭和十五年度ニ於テ建造ニ着手ノ一等駆逐艦二隻、一等潜水艦一隻、駆潜艇一隻及運送艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十六年二月五日 海軍大臣及川古志郎|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 一等駆逐艦 舞風(マヒカゼ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 一等駆逐艦 夕雲(ユフグモ)|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 伊號第十一潜水艦|株式會社石川島造船所ニ於テ建造 第十七號駆潜艇|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 運送艦 伊良湖(イラコ)﹄
(二)^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8﹃驅逐艦|一等|陽炎型|陽炎、不知火、黒潮、早潮、夏潮、初風、雪風、天津風、時津風、浦風、磯風、濱風、谷風、野分、嵐、萩風、舞風、秋雲﹄
(三)^ abc#内令昭和17年5月(2)p.22﹃舞風|一等駆逐艦|(艦諸元略)|藤永田造船所|15-4-22|16-3-15|16-7-15|(兵装略)﹄
(四)^ #内令昭和16年2月p.18﹃内令第百三十三號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十六年二月五日海軍大臣及川古志郎|駆逐艦、一等陽炎型ノ項中﹁萩風﹂ノ下ニ﹁、舞風﹂ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ||夕雲型|夕雲|| 潜水艦、一等伊九型ノ項中﹁伊號第十﹂ノ下ニ﹁、伊號第十一﹂ヲ加フ|駆潜艇第十三號型ノ項中﹁第十六號﹂ノ下ニ﹁、第十七號﹂ヲ加フ﹄
(五)^ ﹁昭和13年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)号外第273号 p.30﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
(六)^ ﹁昭和14年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(部内限)第408号 p.4﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072077100
(七)^ ab﹁昭和16年4月10日(発令4月10日付)海軍辞令公報(部内限)第614号 pp.31-32﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072080700
(八)^ ﹁昭和16年4月22日(火)海軍公報(部内限)第3777号 p.4﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070394400 ﹃○事務所設置 築城海軍航空隊(假稱)設立準備委員事務所ヲ四月十五日宇佐海軍航空隊内ニ設置シ事務ヲ開始ス|舞風艤装員事務所ヲ四月十八日藤永田造船所内ニ設置シ事務ヲ開始セリ﹄
(九)^ ﹁昭和16年7月18日(金)海軍公報(部内限)第3848号 p.43﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070396200 ﹃○事務所撤去 舞風艤装員事務所ヲ七月十五日撤去セリ﹄
(十)^ abc﹁昭和16年7月15日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第673号 p.23﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072081600
(11)^ #内令昭和16年7月(2)p.6﹃内令第八百三號 駆逐艦 舞風 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|横須賀鎮守府在籍 駆逐艦舞風 右警備駆逐艦ト定メラル 昭和十六年七月十五日海軍大臣及川古志郎﹄
(12)^ #内令昭和16年9月(1)p.5﹃内令第千號 横須賀鎮守府警備驅逐艦|驅逐艦 野分 驅逐艦 舞風|右練習兼警備驅逐艦ト定メラル|昭和十六年九月一日 海軍大臣 及川古志郎﹄
(13)^ #内令昭和16年10月(4)p.19﹃内令第千三百七號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十六年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第四駆逐隊ノ項中﹁萩風﹂ノ下ニ﹁、野分、舞風﹂ヲ加フ﹄
(14)^ abcdefghijk#陽炎型(2014)109-113頁﹃第四駆逐隊(嵐・萩風・野分・舞風)﹄
(15)^ ﹁昭和16年6月18日(発令6月18日付)海軍辞令公報(部内限)第657号 p.47﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072081400
(16)^ #駆逐艦隊悲劇の記録11頁
(17)^ #戦艦大和最後の艦長96頁
(18)^ #戦艦大和最後の艦長119頁
(19)^ #第1航空艦隊戦闘詳報(1)p.16﹃一.本作戦開始直前ニ於ケル艦隊編制及兵力部署﹄
(20)^ #駆逐艦隊悲劇の記録39頁
(21)^ #第1航空艦隊戦闘詳報(1)p.42﹃(ロ)加賀…1025御真影ヲ萩風ニ移シ奉ル。1340ニ至リ遂ニ絶望トナリタルヲ以テ1400総員退去ヲ下令シ駆逐艦萩風舞風ニ移乗ス…﹄
(22)^ #証言(文庫)328頁
(23)^ #駆逐艦隊悲劇の記録73頁、#戦艦大和最後の艦長162頁
(24)^ #第1航空艦隊戦闘詳報(1)p.40﹃1925GF長官ヨリ﹁処分待テ﹂ノ命令アリテ待機中6日0150GF長官ヨリ﹁処分セヨ﹂ノ令ニヨリ0200自沈ス﹄
(25)^ #駆逐艦隊悲劇の記録81頁
(26)^ #駆逐艦隊悲劇の記録82頁
(27)^ #戦艦大和最後の艦長165頁
(28)^ #第1航空艦隊戦闘詳報(3)p.14﹃0200/赤城北緯30度30分西経178度40分ニテ4dgノ魚雷ニテ自沈ス﹄
(29)^ #戦艦大和最後の艦長169頁
(30)^ #戦艦大和最後の艦長170頁
(31)^ #戦艦大和最後の艦長171頁
(32)^ #S1709八艦隊日誌(1)pp.54-55﹃8月16/佐五特派遣隊(200名)﹁タイボ﹂ニ揚陸成功、第4駆ハ佐五特揚陸後﹁ルンガ﹂方面ヲ砲撃海上﹁トラック﹂2撃沈3ヲ大破ス、萩風空襲ニ依リ損傷ヲ受ク﹄
(33)^ #第11戦隊日誌(2)pp.9-10﹃1550 200度方向遠距離ニB-17四機発見同機ハ反航北上240度方向ヨリ比叡ニ対シ向首セルモ針路ヲ転ジ霧島ヲ爆撃同艦ノ直衛タリシ舞風ニ至近弾アリ両艦トモ被害ナシ﹄
(34)^ #第11戦隊日誌(3)p.7﹃9月1日1340 11S参謀→7dg司令/舞風﹁ジャイロ﹂故障修理ノ為當分停泊ヲ要ス特ニ必要アル場合ノ外哨戒ニ使用セザル様希望ス﹄
(35)^ #第11戦隊日誌(3)p.9﹃9月2日0745舞風駆逐艦長/0430筥崎丸護衛ノ為﹁ショートランド﹂ニ向ケPT発﹄
(36)^ ab#野分物語(文庫)32頁
(37)^ #S1709八艦隊日誌(2)p.39﹃日進、野分、舞風|10-3|陸兵300、十五榴4、野砲2、牽引車5、糧食ヲ﹁タサハロング﹂ニ揚陸セリ﹄
(38)^ #S1709八艦隊日誌(2)p.40﹃第19駆(2小隊欠)、野分、舞風、秋雲、巻雲|10-6|速射砲4、聯隊砲2、陸兵550、舞四特150、其他弾薬糧秣ヲ﹁タサファロング﹂ニ揚陸ス﹄
(39)^ #S1709八艦隊日誌(2)p.41﹃第15駆(陽炎欠)、龍田、野分、舞風|10-9|陸兵732、龍田、野分、舞風ニ分乗聯隊砲2其他ヲ搭載﹁タサファロング﹂ニ揚陸ス﹄
(40)^ #戦艦大和最後の艦長193頁
(41)^ #野分物語(文庫)33頁
(42)^ #戦艦大和最後の艦長194頁
(43)^ #S1711七戦隊日誌(1)p.25﹃2日2220連合艦隊司令長官/連合艦隊電令作第369号 一.機動部隊中左ノ兵力ハ内地回航急速整備訓練ヲ実施スベシ、第一航空戦隊(第三艦隊司令部ヲ含ム)、熊野、筑摩、第4駆逐隊、第17駆逐隊、秋雲、秋月、第16駆逐隊2小隊|二.11月4日附 第11戦隊、第8戦隊(筑摩欠)、長良(第10戦隊司令部ヲ含ム)ハ第16駆逐隊(2小隊欠)、第61駆逐隊(秋月欠)ヲ前進部隊ニ編入﹄
(44)^ #野分物語(文庫)37頁
(45)^ #S1709八艦隊日誌(3)p.60﹃4dg(嵐、野分)長波、15dg(親潮黒潮陽炎)、17dg(浦風谷風)、24dg(江風涼風)有明|12-7|第三次﹁ドラム﹂罐輸送ヲ実施セントセシモ途中敵機ノ来襲及泊地ニ於ケル魚雷艇ノ為遂ニ揚陸ヲ断念ス、戦果艦爆5艦戦1魚雷艇1、被害野分航行不能、嵐小破﹄
(46)^ 戦史叢書第83巻 南東方面海軍作戦<2>ガ島撤収まで、483-487ページ
(47)^ 戦史叢書第83巻 南東方面海軍作戦<2>ガ島撤収まで、484-485ページ
(48)^ 戦史叢書第83巻 南東方面海軍作戦<2>ガ島撤収まで、485ページ
(49)^ abc戦史叢書第83巻 南東方面海軍作戦<2>ガ島撤収まで、486ページ
(50)^ abcd戦史叢書第83巻 南東方面海軍作戦<2>ガ島撤収まで、487ページ
(51)^ abc潜水艦攻撃、56ページ
(52)^ 戦史叢書第83巻 南東方面海軍作戦<2>ガ島撤収まで、487ページでは﹁舞風﹂の爆雷攻撃と水偵の爆撃で潜水艦を浮上させた、とある。
(53)^ #S1709八艦隊日誌(4)pp.26-27﹃秋月、時津風、嵐、黒潮、谷風、浦風、浜風、磯風、舞風|1-14.15|﹁エスペランス﹂ニ揚陸ヲ実施ス。輸送物件‥各艦陸兵163﹁ドラム﹂罐30ゴム嚢40 小発2、折畳式浮舟10 鳥海、羽黒、熊野機ハ﹁サボ﹂島ノ南西5浬ニ於テ魚雷艇6隻ト交戦1隻撃破2隻炎上セシム。15日敵機延B-17 10、fc15小型十数機来襲嵐至近弾ニ依リ航行不能、谷風浦風浜風至近弾ニ依リ若干ノ被害アリ、谷風艦長以下数名ノ戦死二十数名ノ傷者ヲ出セリ、嵐上空警戒ノR方面航空部隊観測機20ハB-17 10・P-39 12ト交戦P-39 1撃墜被害自爆6﹄
(54)^ abc#戦艦大和最後の艦長209-211頁
(55)^ ﹁昭和18年2月6日 海軍公報(部内限)第4310号 p.11﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070429600 ﹃○司令驅逐艦變更 第十六驅逐隊司令ハ一月二十日司令驅逐艦ヲ時津風ニ變更セリ/第四驅逐隊司令ハ一月十六日司令驅逐艦ヲ舞風ニ變更セリ/第六驅逐隊司令ハ二月一日司令驅逐艦ヲ雷ニ變更セリ﹄
(56)^ #S1709八艦隊日誌(4)p.28﹃舞風、磯風|1-23|﹁レカタ﹂輸送ヲ実施ス﹄
(57)^ #S1709八艦隊日誌(4)p.29﹃舞風、磯風、喜山丸|1-26|﹁コロンバンガラ﹂輸送ヲ実施ス﹄
(58)^ ﹁昭和18年1月25日(発令1月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1040号 p.14﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072089500
(59)^ abc#戦艦大和最後の艦長212-214頁
(60)^ #陽炎型(2014)163-164頁
(61)^ #S1709八艦隊日誌(5)pp.21-22﹃巻波、舞風、江風、黒潮、白雪、文月、皐月、長月、10dg(風雲巻雲夕雲秋雲)、17dg(谷風浦風浜風磯風)、16dg(時津風雪風)、8dg(大潮荒潮)|2-1|﹁ケ﹂號作戦第一次輸送ノ為出撃1615地点8-30・S158-30Eニ於テ敵機約30機ト交戦巻波中破旗艦ヲ白雪ニ変更文月曳航シテ帰還他ハ任務ヲ続行ス。2130泊地着作業中魚雷艇6隻ト交戦R方面航空部隊水偵ト協力其ノ他4隻ヲ撃沈ス。収容人員陸軍5119、海軍250、船員14。巻雲揚陸作業中触雷(機雷ノ如シ)大破シ夕雲ヲシテ曳航ヲ試ミタルモ見込ナシ処分ス。帰途荒潮長月ハ各敵1機ヲ撃墜ス﹄
(62)^ #S1709八艦隊日誌(5)pp.22-23﹃白雪、黒潮、朝雲、五月雨、舞風、江風、10dg(風雲、夕雲、秋雲)、17dg(谷風、浜風、浦風、磯風)、16dg(時津風、雪風)、8dg(大潮、荒潮)、皐月、長月、文月、川内、巻波、夕霧|2-4|﹁ケ﹂號作戦第二次輸送ヲ実施ス、敵機来襲情況1330B-17九fc六、1425fcfl三〇、1510fcfl十数機、1740fcfl十数機ト交戦 戦果竝ニ被害 1330直衛機ト協力10機撃墜、舞風舵故障火災長月救援ニ任ズ、﹁エスペランス﹂及﹁カミンボ﹂ヨリ転進部隊ヲ乗艦セシム、陸軍乗員数4760(海軍40名)﹄
(63)^ #S1812十七駆日誌(1)p.36﹃支援隊付属隊|川内、巻波、夕霧|ROニテ待機、RWCニテ待機﹄
(64)^ abc#戦艦大和最後の艦長214-216頁
(65)^ #S1812十七駆日誌(1)pp.14-15﹃1352艦首方向敵戦闘機及艦爆計30数機ヲ認ム対空戦|1403打方始ム第五戦速|1405艦爆急降下爆撃開始、舞風至近弾ニヨリ航行不能|1413打方止ム(略)1447長月舞風ノ救援ニ赴キ﹁ショートランド﹂ニ回航﹄
(66)^ #陽炎型(2014)168頁
(67)^ #S1801二水戦日誌(3)pp.13-14﹃二.第二次ガ島撤収 参加駆逐艦20隻(黒潮、江風参加)撤収人員4760、舞風爆撃ニ依リ損傷(長月曳航)、江風黒潮爆撃至近弾ニ依リ小破(作戦続行)﹄
(68)^ #陽炎型(2014)170頁
(69)^ #S1812十七駆日誌(1)p.24﹃二月七日﹁ケ﹂號作戦 第二次輸送ニ於ケル対空戦闘︵磯風分離行動中ノ経過︶﹄
(70)^ #戦艦大和最後の艦長219頁
(71)^ ﹁昭和18年3月2日 海軍公報(部内限)第4329号 p.38﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070429700 ﹃○旗艦變更 聯号艦隊司令長官ハ二月十一日旗艦ヲ武藏ニ變更セリ/○司令驅逐艦變更 第十五驅逐隊司令ハ一月二十六日司令驅逐艦ヲ陽炎ニ變更セリ/第三十一驅逐隊司令ハ二月十二日司令驅逐艦ヲ大波ニ變更セリ/第四驅逐隊司令ハ二月十三日司令驅逐艦ヲ嵐ニ變更セリ﹄
(72)^ ﹁昭和18年2月23日(発令2月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1057号 p.1﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072089800
(73)^ ﹁昭和18年3月1日(発令3月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1062号 p.2﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072089900
(74)^ #戦艦大和最後の艦長220頁
(75)^ ﹁昭和18年3月3日(水)海軍公報(部内限)第4330号 p.43﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070429700 ﹃○司令驅逐艦變更 第十五驅逐隊司令ハ一月二十六日司令驅逐艦ヲ陽炎ニ變更セリ/第四驅逐隊司令ハ二月二十四日司令驅逐艦ヲ萩風ニ變更セリ/第二十四驅逐隊司令ハ二月二十四日司令驅逐艦ヲ海風ニ變更セリ﹄
(76)^ #陽炎型(2014)171頁(杉浦矩郎司令着任は誤認)
(77)^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)299頁
(78)^ ﹁昭和18年6月21日(発令6月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1155号 pp.16-17﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072091700
(79)^ abc﹁昭和18年6月22日(発令6月22日付)海軍辞令公報(部内限)第1155号 p.19﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072091700
(80)^ ﹁昭和14年2月20日(発令2月20日付)海軍辞令公報(部内限)第303号 p.34﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072075400
(81)^ ﹁昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.4﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072076800
(82)^ ﹁昭和16年4月15日(発令4月15日付)海軍辞令公報(部内限)第620号 p.10﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072080800
(83)^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)259頁
(84)^ #駆逐艦隊悲劇の記録124-125頁
(85)^ #戦艦大和最後の艦長235頁
(86)^ ﹁昭和18年9月18日 海軍公報(部内限)第4496号 p.4﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070434000 ﹃○司令驅逐艦變更 第四驅逐隊司令ハ九月四日司令驅逐艦ヲ野分ニ變更セリ﹄
(87)^ #内令昭和18年9月(4)p.28﹃内令第千九百三十六號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年九月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第四駆逐隊ノ項中﹁舞風﹂ノ下ニ﹁、山雲﹂ヲ加フ﹄
(88)^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)401頁
(89)^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)437頁
(90)^ ﹁昭和18年11月20日(発令11月17日付)海軍辞令公報(部内限)第1265号 p.19﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072094500
(91)^ ﹁昭和18年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1272号 p.49﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072094600
(92)^ #S1812十戦隊日誌(1)p.6﹃(チ)4dg(野分、舞風)11日﹁トラック﹂発佐世保迄3Sノ護衛ニ任ズ﹄
(93)^ #S1812十戦隊日誌(1)p.30﹃16日1203将旗3S/第三戦隊、第四駆逐隊(野分舞風)佐世保着﹄
(94)^ #S1812十戦隊日誌(1)p.47﹃16日1000野分舞風佐世保着、1115野分舞風横須賀ニ向ケ佐世保発/18日0830野分舞風横須賀着﹄
(95)^ ﹁昭和19年1月3日(月)海軍公報(部内限)第4581号 p.2﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070457700 ﹃○司令驅逐艦變更 第四驅逐隊司令ハ十二月二十二日司令驅逐艦ヲ舞風ニ變更セリ﹄
(96)^ #S1812十戦隊日誌(1)p.41﹃30日1447KdBシキ/第4駆逐隊(野分舞風)ハ愛宕艦長ノ指揮ヲ受ケ同艦﹁トラック﹂回航中ノ警戒ニ任ズベシ﹄
(97)^ #S1812十戦隊日誌(2)p.36﹃5日/0900野分舞風トラックニ向ケ横須賀発||9日1000野分舞風トラック着﹄
(98)^ #S1812十戦隊日誌(2)p.5﹃(カ)4dg15日附南東方面部隊ニ編入セラル﹄-p.10﹃四.麾下艦船部隊ノ行動﹄
(99)^ #S1812十戦隊日誌(3)p.5﹃(ハ)17dg5日﹁パラオ﹂発8日﹁トラック﹂着10日附遊撃部隊ニ編入4S(愛宕、鳥海)5Sヲ護衛10日﹁トラック﹂発13日﹁パラオ﹂進出敷島部隊ニ復帰ス﹄
(100)^ #S1812十戦隊日誌(3)p.5﹃(ト)山雲、浅香丸ヲ護衛15日﹁トラック﹂発﹁サイパン﹂ヲ経テ23日横須賀着﹄
(101)^ ab#ニミッツの太平洋海戦史246頁
(102)^ ab#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)622頁﹁四二一五船団の戦闘状況﹂
(103)^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)624頁
(104)^ #駆逐艦野分物語(1997)109頁
(105)^ abc#駆逐艦野分物語(1997)112頁
(106)^ #S1812十戦隊日誌(3)p.20﹃17日1100将旗4dg/4dg機密第171100番電 舞風機械室左舷ニ爆弾1命中艦底貫通機械室満水航行不能基点ノ317度40浬、野分異状ナシ今夜野分ニテ﹁トラック﹂ニ曳航ノ予定﹄
(107)^ ab#S1812十戦隊日誌(3)p.21﹃17日2245野分/野分戦闘概報2月17日|一.4215船団0500ヨリ1400迄トラック北口ニ於テ敵飛行機延200機ト交戦1200迄ニ赤城丸沈没、舞風航行不能、香取大火災、1210敵戦艦2隻重巡2隻ノ砲撃ヲ受ケ西方ニ避退、以後船団ノ消息不明|二.浅香丸船団ニ合同スル如ク行動ス|三.残弾主砲58機銃3185|四.弾片ニ依リ二番聯管電気装置全部故障其ノ他戦闘航海ニ支障ナシ、戦死1重傷3﹄
(108)^ #駆逐艦野分物語(1997)125頁
(109)^ 佐藤清夫﹃駆逐艦﹁野分﹂物語﹄126頁
(110)^ #駆逐艦野分物語(1997)127頁
(111)^ #駆逐艦野分物語(1997)128頁
(112)^ 佐藤清夫﹃駆逐艦﹁野分﹂物語﹄128頁
(113)^ 撃沈戦記242-244頁﹃﹁香取﹂の最期﹄
(114)^ #S1812十戦隊日誌(3)p.6﹃(ヌ)4dg(舞風野分)赤城丸護衛17日﹁トラック﹂発内地回航中﹁トラック﹂礁外ニ於テ敵機並ニ敵戦艦部隊ト交戦舞風沈没野分避退、野分ハ﹁サイパン﹂ニ於テ浅香丸船団ニ合同爾後横須賀迄之ガ護衛ニ任ズ﹄
(115)^ #内令昭和19年3月(5)p.41﹃内令第五百十三号 横須賀鎮守府在籍 軍艦 那珂 軍艦 香取|呉鎮守府在籍 軍艦 阿賀野 右帝國海軍籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 舞風|呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雲|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 峯風 驅逐艦 追風 驅逐艦 文月 驅逐艦 海風|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 太刀風|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(略)昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎﹄
(116)^ #内令昭和19年3月(5)p.21﹃内令第199号 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等ノ部中﹁川内型﹂ノ項ヲ、同阿賀野型ノ項中﹁阿賀野、﹂ヲ、同練習巡洋艦ノ項中﹁香取、﹂ヲ削ル。驅逐艦一等峯風型ノ項中﹁峯風、﹂﹁太刀風、﹂ヲ、同神風型ノ項中﹁追風、﹂ヲ、同卯月型ノ項中﹁文月、﹂ヲ、同初雪型ノ項中﹁白雲、﹂ヲ、同白露型ノ項中﹁海風、﹂ヲ、同不知火型ノ項中﹁舞風、﹂ヲ削ル。驅潜艇、第十四号型ノ項中﹁第二十二号、﹂﹁第四十号、﹂ヲ削ル﹄
(117)^ ﹁昭和19年6月8日(発令2月17日付)海軍辞令公報(部内限)第1509号 p.16﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072099500