那須信吾
生涯 編集
文政12年11月11日︵1829年12月6日︶、土佐藩の家老を務める深尾家々臣である浜田光章の三男として生まれる。幼くして父を失ったため、槍術道場主の郷士・那須俊平の娘婿となる。田中光顕の叔父にあたる。武市瑞山に深く傾倒し、文久元年︵1861年︶に土佐勤王党に加わった。坂本龍馬とも親交があり、文久2年3月に龍馬が脱藩する際には、那須邸に宿泊し、信吾は国境の韮ヶ峠まで道案内をしている。文久2年4月8日︵1862年5月6日︶武市の指示により安岡嘉助や大石団蔵らと共に、尊王を無視して藩政改革、佐幕を唱える吉田東洋を暗殺した上で脱藩し、長州藩を頼り逃亡、京都に潜伏する。
文久3年8月17日︵1863年9月29日︶、先に土佐藩を脱藩していた吉村虎太郎らと天誅組の変に参加し、軍監を務める[1]。五条代官所襲撃後、信吾は軍使として高取藩へ赴き高取藩家老と談判し恭順を迫り、これを約束させた。しかしその直後、八月十八日の政変により大和行幸は中止となり、先に天誅組に恭順を約した高取藩が態度を翻して兵糧の差し出しを拒否したため、天誅組は高取城攻撃を決定する。高取城へ向けて進撃中、捕らえられた高取藩の斥候を信吾が尋問するが、返答しなかったため斬首している。高取城攻略は失敗に終わり、周辺諸藩から追討軍が派遣されると、天誅組は熊野方面へ退却する方針となった。信吾は吉村や池内蔵太らと共に徹底抗戦を主張し、天ノ川辻に留まり別働隊として追討軍を迎え打つ事とした。五条には紀州藩の追討軍が進出して来ていたが、実体不明の天誅組を恐れて進軍は滞っていた。その様子を見て取った信吾らは8月30日夜、紀州藩陣地に夜襲を掛けて紀州藩兵を駆逐し、陣地に放火して武具や食料等の戦利品を奪って引き上げた。その後、再び戻って来た本隊が合流し、周辺で追討軍と交戦を繰り広げるが、天ノ川辻守備陣地は追討軍に包囲され陥落、信吾らも十津川郷へ退却する。しかし、十津川郷士の離反を受けた天誅組は活動継続が不可能となって解散が決定していた。
一行は河内方面への脱出を試みて大和山中を移動、鷲尾峠を経て、同年9月24日︵1863年11月5日︶、鷲家口︵奈良県東吉野村︶に至るが、そこには彦根藩兵が陣を張っていた。そこで、まず決死隊が敵陣に夜襲を掛け、その混乱を突いて主将中山忠光を脱出させる事となり、信吾は志願して宍戸弥四郎、植村定七、林豹吉郎、鍋島米之助、前田繁馬の6名で決死隊を編成し、その隊長となった。信吾らは敵陣に忍び寄ると側面から斬り込み、その際に植村が戦死したものの、敵陣を大混乱に陥れた。他の5人は脇本陣目掛けて突入し、信吾は脇本陣の碇屋前で彦根藩士大館孫左衛門を倒し、更に突撃を試みたが、銃撃を受けその場で絶命した。享年35︵満33歳没︶。信吾の首は京都に運ばれ、翌10月、吉村寅太郎ら12名の隊士の首と共に粟田口に晒された。
明治27年︵1894年︶、当時小川村となっていた鷲家口の住民梶谷留吉の尽力により、信吾らの墓碑が明治谷墓地︵現奈良県東吉野村︶に建立された。
墓所は他に、京都府の霊山墓地、高知県高岡郡梼原町の﹁那須先生父子邸址﹂に俊平・信吾父子の招魂碑がある。また、同町内には﹁勤王六志士の墓﹂として那須信吾ほか吉村寅太郎らの墓碑がある。
辞世は﹃君ゆえに 惜しからぬ身をながらえて 今この時に あふぞうれしき﹄。明治24年︵1891年︶12月、贈従四位[2]。
昭和51年︵1976年︶、慎吾生誕の地である高知県檮原町と、最期の地である奈良県東吉野村は友好町村盟約を結んでいる。