鈴木千秋
ラジオパーソナリティ
略歴
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●1925年︵大正14年︶‥東京府下谷区︵現‥台東区︶に生まれ、文京区に育つ。
●旧制東京高等学校を経て、1948年︵昭和23年︶、東京大学文学部美学美術史学科へ入学。
●1951年︵昭和26年︶‥同大学文学部大学院︵日本建築史、特に茶室︶進学後、中退。
●1952年︵昭和27年︶‥ラジオ東京︵現‥TBS︶に入社。考査部を経て、アナウンス部に異動。
●1959年︵昭和34年︶‥ラジオ東京退社後、フリーアナウンサー第1号となる[注1]。
︵出典‥本人による﹁東京放送社史﹂への加筆メモに基づく︶
主な担当番組
編集ラジオ東京 時代
編集ラジオ奥さま午前十時です - パーソナリティ (月曜 - 日曜の全曜日に放送していた生番組。10年以上にわたって放送)https://www.youtube.com/watch?v=_QNiU0dOdwU
編集フリー転向後
編集テレビ
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●美をもとめて︵ナレーター︶
●京都市文化観光資源保護財団の映像ライブラリーには﹁壬生狂言﹂の回のVTRがあり、インターネットで公開されている[2]。
●これが世界だ︵後に﹁CBSドキュメント﹂へ改題 / 吹き替えチーフナレーター︶
●ガルブレイス 不確実性の時代︵唯一のテレビ顔出し出演、夏期特別編成 一週連続シリーズ番組の進行役。この時だけは髭を剃った︶
●(以上、TBS)
●黎明の群像︵鹿児島テレビ放送、ナレーター︶ - シリーズ番組作品︵全5時間︶
●ザ 日本100景︵テレビ朝日、同番組内の﹁黒部峡谷﹂でナレーター。1984年元日放送︶
●ウィークエンダー︵日本テレビ、"シルバーマン"というハンドルネームを使って匿名で顔出し‥本人の口述によるが、未確認︶
●Ist登場︵テレビ大阪、ナレーター?︶
ラジオ
編集- TBS「コロムビア アワー」 - パーソナリティ(売り出し中のジュディ・オングとコンビで進行)
- FM東京「FMモーニングエコー」 - パーソナリティ(朝の帯生ワイド番組(2時間枠))
- 文化放送「おはよう 鈴木千秋です」 - パーソナリティ(朝の帯生番組(1時間枠))
映画
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●﹃世界の空軍 AIR FORCE'82 ドッグ・ファイト﹄ - ナレーションの吹き替え︵テレビ東京版。﹃木曜洋画劇場﹄で1986年8月28日に放送︶
※上記の他、テレビ・ラジオの各CM、全日空機内BGM用番組、学校向け教育映画などで多くのナレーションを務めた。
受賞歴
編集著書
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●平眠 ーわが母の願った﹁安楽死﹂ー[3]︵新潮社︶ - TBSテレビでもドキュメンタリーとして放送された。番組中では一部、本人自身が廻した16ミリも使われている。前後して、朝日新聞 朝刊紙面でも大きく取り上げられた。テーマが論争を生む性格のものであったので、主に批判を受ける形で活字メディアで俎上に上がった。なお、当該の母親︵喜久世︶は﹁安楽死協会 (現‥日本尊厳死協会) 第1号会員﹂。TBS制作/著作権所有の当該番組をベースにした映像は、同社からVHS化され市販されていたもようである。
エピソード
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●1970年代、六本木の旧防衛庁近くに、ベルウッドという名の﹁反戦喫茶﹂と称したバーを持っていて、今田勝、日野皓正、石川昌ら、本邦ジャズ草創期のジャズマンも常連だった。
●同時期、ベルウッドコレクションとして小規模ながらも、オリジナルの革・彫金装飾品ラインナップも手掛けていた。TBS (番組内で紹介) や、つながりのあった﹁ヒデとロザンナ﹂からもPRに協力を得た。その過程で、ピースシンボル︵当時も今も国際的な平和のシンボルマーク︶を商標登録したことが、知名度があった事もあり紙上で批判を受けた。
●︵最初の︶配偶者は同局社内関係者で、その第一子である息子は障害者。
●二人兄弟の兄は興銀出身で、系列の和光証券︵後に合併”新光→みずほ”︶会長を務めた経済人。
●本人の遺志に基づき、遺骨は死去の翌春5月、親族・友人数名が船上参列のもとで東京湾沖に散骨された。
その他
編集- 本人画像(当時54歳):画像(『これが世界だ』 の顔出し起用審査用VTRより抜粋) - SONY αcafe
脚注
編集注釈
編集出典
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(一)^ “安田善彦 (初版) - ﹃人事興信録﹄データベース”. 2022年5月27日閲覧。
(二)^ “美をもとめて 壬生狂言”. 京都の歴史と文化 映像ライブラリー. 京都市文化観光資源保護財団 (1954年7月). 2023年3月10日閲覧。
(三)^ “平眠 : わが母の願った﹁安楽死﹂ - Webcat Plus”. webcatplus.nii.ac.jp. 2022年6月5日閲覧。