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「アレクサンダー・リピッシュ」の版間の差分

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{{Infobox Engineer

'''アレサンダー・マルティン・リピッシュ'''(Alexander Martin Lippisch、[[1894年]][[11月2日]] - [[1976年]][[2月11日]])は、ドイツの[[流体力学]]者。世界初のロケット推進航空[[Me163]]の機体を設計したことで知られる。

|氏名= アレクサンダー・リピッシュ<br />Alexander Martin Lippisch

|画像= Bundesarchiv Bild 102-13690, Günter Groenhoff.jpg

|画像のサイズ= 250px

|画像の説明= A・リピッシュ(中央左)(1929年頃)

|国籍= {{FRG}}

|生年月日= {{生年月日|1894|11|2|no}}

|出生地= {{DEU1871}}<br />[[File:Flag of Bavaria (striped).svg|26px]] [[バイエルン王国]][[ミュンヘン]]

|死没日= {{死亡年月日と没年齢|1894|11|2|1976|2|11}}

|死没地= {{USA}}<br />[[アイオワ州]][[シーダーラピッズ]]

|最終学歴=

|専門分野= 航空[[エンジニアリング]]<br />[[流体力学]]

|所属機関= [[ヴァイマル共和政|ドイツ]]・RRG<br />[[ドイツ滑空機研究所]]<br />[[ウィーン]]航空研究所

|勤務先= [[ナチス・ドイツ|ドイツ]]・[[ツェッペリン]]社<br />同 [[メッサーシュミット]]社<br />アメリカ合衆国・[[コンベア]]社<br />同 コリンズラジオ社<br />同 リピッシュ・リサーチ社

|設計= [[メッサーシュミット Me163]]<br />[[XF-92 (航空機)|コンベア XF-92]]<br />ほか

|成果= 世界初の有人[[ロケット]]航空機を設計<br />[[翼平面形#デルタ翼|デルタ翼]][[ジェット機]]の実用化<br />ほか

|受賞歴= [[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]工学博士号

|署名=

}}



''''''Alexander Lippisch[[1894]][[112]] - [[1976]][[211]])[[]][[]][[#|]][[]][[]][[|]] [[ Me163|Me163]]


== 生涯 ==

== 生涯 ==

[[File:Bundesarchiv Bild 102-11370, Günther Groenhoff in schwanzlosem Flugzeug.jpg|thumb|left|220px|無尾翼機シュトルヒV 試験中のリピッシュ(左)(1929年頃)]]

アレクサンダー・リピッシュは1894年11月2日に[[バイエルン王国]]の首都[[ミュンヘン]]で生まれました。

リピッシュは1894年11月2日、[[バイエルン王国]]の首都[[ミュンヘン]]に生まれる。1909年9月、[[ベルリン]]の[[テンペルホーフ国際空港|テンペルホーフ飛行場]]で行われた[[ライト兄弟|オーヴィル・ライト]]によるデモ飛行を見たことによって航空機への関心を呼び覚まされた<ref>[http://www.centennialofflight.gov/essay/Wright_Bros/Military_Flyer/WR11G1.htm Wright Flyer over Templehoff]</ref>。ただし、当初は父親の跡を継ぎ、美術学校に進学する予定であった。1914年の[[第一次世界大戦]]勃発が、彼の人生の転機となった。1915年から1918年の間、彼は陸軍に従軍し、空中撮影員および測量員として飛行する機会を得た。


[[]][[]]1921 E-2[[1920]][[1930]]50''Rhön-Rossitten Gesellschaft''RRG



19271933I IX[[Fi 156 ()|Fi156]]

1909年9月、[[ベルリン]]の[[テンペルホーフ]]飛行場で行われた、[[ライト兄弟|オーヴィル・ライト]]によるデモ飛行を見たことによって航空機への関心を持ち始めました。しかし、にもかかわらず彼は父親の跡を継いで美術学校へ進学することを計画していました。

[[File:Bundesarchiv Bild 146-1972-058-62, Raketenjäger Me 163 A-V4.jpg|thumb|right|220px|試作型 Me163-V4]]

;デルタ翼機への情熱

:シュトルヒ系列の経験をもとに、リピッシュはデルタ翼機の設計に傾注し、1931年から1939年にけかて、5機のデルタ翼機、デルタ I 〜 V が製作された。この間の1933年、RRGは[[ドイツ滑空機研究所]](''''Deutsche Forschungsanstalt für Segelflug'' 、DFS)として再編され、シリーズ後期の[[フィーゼラー F 3|デルタ IV]] およびデルタ V には、それぞれDFS 39、DFS 40の形式名が与えられた。




:1939[[]]RLM[[]][[]][[]] {{|DFS 194 ()|en|DFS 194|label=DFS 194}}1940[[ Me163|Me 163]] 

1914年に[[第一次世界大戦]]が勃発し、これが彼の人生の転機となりました。1915年から1918年の間、彼は従軍し、空中写真家と地図作成者として飛行する機会を得ました。

[[File:Akaflieg_DM_1.jpg|thumb|right|220px|デルタ翼滑空試験機 DM-1]]

:しかし、技術として革新的ではあったものの、Me163は実用性に欠け兵器としては失敗作であった。さらにこの間、リピッシュと[[ウィリー・メッサーシュミット]]博士との間には摩擦が絶えず、結局、リピッシュは1943年5月、高速飛行の研究に専念するため、[[オーストリア]]の[[ウィーン]]航空研究所(''Luftfahrtforschungsanstalt Wien''、LFW)に移籍した。同年に、[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]によって工学博士号がリピッシュに与えられた。



:1939年に行った[[風洞]]実験は、デルタ翼機が超音速飛行に適した形式であることを示唆していた。そこで、リピッシュは[[ラムジェットエンジン]]を搭載した超音速戦闘機、[[リピッシュ P.13a]]の開発を開始した。しかし、[[ナチス・ドイツ]]の[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|敗戦]]時、計画はまだ[[DM1 (航空機)|DM-1]]と呼ばれる滑空試験機を製作している段階であった。

第一次世界大戦後、彼は[[ツェッペリン]]社で働きました。この頃から[[無尾翼機]]に関心を持つようになりました。

;戦後

[[File:Convair_XF-92A.jpg|thumb|right|220px|デルタ翼試作機 XF-92A]]

:[[第二次世界大戦]]後、リピッシュは他の多くのドイツ人研究者・技術者同様、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]による人材獲得のための「[[ペーパークリップ作戦]]」によって渡米することとなった。ジェットエンジンはリピッシュの考える機体形体への搭載に適したものであり、その技術の発展は、リピッシュの研究開発をより実用的なものとした。



:米[[コンベア]]社はジェット/ロケットのハイブリッド機に関心を持ち、これをF-92として[[アメリカ空軍]]に提案した。一方で、デルタ翼機の経験を積むため、ジェットエンジンのみの試験機9002を製作したが、これは初のジェット動力のデルタ翼機であった。アメリカ空軍はハイブリッド機であるF-92への関心は失ったものの、9002には[[XF-92 (航空機)|XF-92A]]の形式名が与えられ、これはコンベア社にデルタ翼機設計の経験を積ませることとなった。[[1950年代]]から[[1960年代]]にかけて、デルタ翼機はコンベア社のお家芸となり、その中から[[F-102 (戦闘機)|F-102デルタダガー]]、[[F-106 (戦闘機)|F-106デルタダート]]、[[B-58 (航空機)|B-58ハスラー]]などが制式採用された。


1921 E-21920193050RRG


:1950年から、[[アイオワ州]][[シーダーラピッズ]]にある[[ロックウェル・コリンズ|コリンズラジオ社]]に勤務した。同社は航空機部門を持っていた。この時期、彼の主な関心は[[地面効果翼機]]に向かい、その結果として、独創的な[[垂直離着陸機]]や「空中翼船(aerofoil boat)」の設計が生まれた。しかし癌が発病し、1964年にコリンズ社を辞した。


19271933IIXEnte

;晩年

:1966年、彼は健康を取り戻し、調査会社であるリピッシュ・リサーチ社を設立した。同社は[[西ドイツ]]政府の関心を引くことに成功し、垂直離着陸機、地面効果翼機の試作機が製作されたが、それ以上の開発は行われなかった。さらにキークヒーファー・マーキュリー社([[:en:Mercury Marine|Mercury Marine]])がリピッシュの地面効果翼機に関心を持ち、彼の設計による1機を「エアロスキマー」の名称で試験、成功を収めたが、同社も間もなく関心を失った。



:1976年2月11日、晩年を過ごしたシーダーラピッズで死去

シュトルヒシリーズの経験から、リピッシュはデルタ翼機のデザインにますます集中するようになりました。



== 主な設計機体 ==

1931年から1939年の間に5機のデルタ翼機、デルタIからデルタVが製造されました。

* [[メッサーシュミット Me163]]

* [[XF-92 (航空機)]]



== 脚注 ==

1933年に、RRGは「ドイツ セイルプレーン研究所」(DFS)に再編成されました。

<references />


デルタIVおよびデルタVは、DFS 39とDFS 40としてそれぞれ指定されました。



1939RLM[[]][[]][[]] [[DFS 194 ()|DFS 194]]1940[[Me163|Me 163]] 

Me 163は、革新的ではあったが実用的でなく、結局、兵器としてはあまり成功しませんでした。そしてこの頃、リピッシュと[[ウィリー・メッサーシュミット]]博士の間には意見の違いから頻繁に摩擦と衝突が起きていました。


こうした事情もあって1943年5月、リピッシュは部下を引き連れてメッサーシュミット社を退社し、高速飛行の問題に専念する為に、[[オーストリア]]の[[ウィーン]]航空研究所(LFW)に移りました。その同じ年に、工学博士号が[[ハイデルベルク大学]]によって彼に与えられました。


Me 163はその後も引き続きメッサーシュミット社のスタッフによって研究開発が続けられました。



[[]][[|]] [[]][[]]195060[[]]

1950年から1964年にかけて、彼は[[アイオワ州]]、[[:en:Cedar Rapids, Iowa|シーダーラピッズ]]のコリンズラジオ社で働きました。そこは航空機部門を持っていました。そこでの彼の関心は[[地面効果]]を利用した乗り物に移りました。その成果が[[VTOL]]機とエアロフォイル艇でした。


しかし彼は[[癌]]にかかり、コリンズ社を辞職しました。


1976年2月11日彼はシーダーラピッズで亡くなりました


== 主な設計機体 ==

*[[メッサーシュミットMe163|Me163 コメート]]



== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

* [[XF-92 (戦闘機)|XF-92]]

* [[F-102 (戦闘機)]]

* [[F-102 (戦闘機)|F-102 デルタダガー]]

* [[F-106 (戦闘機)]]

* [[F-106 (戦闘機)|F-106 デルタダート]]

* [[B-58 (航空機)]]

* [[ドイツ空軍 (国防軍)]]

* [[B-58 (航空機)|B-58 ハスラー]]



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[[Category:ドイツの物理学者]]

[[Category:ドイツの物理学者]]

[[Category:航空エンジニア]]

[[Category:ドイツの航空機技術者]]

[[Category:ドイツの技術者]]

[[Category:空気力学者]]

[[Category:ミュンヘン出身の人物]]

[[Category:バイエルンの軍人]]

[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]

[[Category:ペーパークリップ作戦]]

[[Category:1894年生]]

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[[Category:1976年没]]

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[[sv:Alexander Lippisch]]


2022年2月23日 (水) 00:28時点における最新版

アレクサンダー・リピッシュ
Alexander Martin Lippisch
A・リピッシュ(中央左)(1929年頃)
生誕 (1894-11-02) 1894年11月2日
ドイツの旗 ドイツ帝国
バイエルン王国ミュンヘン
死没 (1976-02-11) 1976年2月11日(81歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
アイオワ州シーダーラピッズ
国籍 西ドイツの旗 西ドイツ
業績
専門分野 航空エンジニアリング
流体力学
所属機関 ドイツ・RRG
ドイツ滑空機研究所
ウィーン航空研究所
勤務先 ドイツツェッペリン
メッサーシュミット
アメリカ合衆国・コンベア
同 コリンズラジオ社
同 リピッシュ・リサーチ社
設計 メッサーシュミット Me163
コンベア XF-92
ほか
成果 世界初の有人ロケット航空機を設計
デルタ翼ジェット機の実用化
ほか
受賞歴 ハイデルベルク大学工学博士号

Alexander Lippisch1894112 - 1976211) Me163

[]

V()(1929)

189411219099[1]191419151918 1921 E-21920193050Rhön-Rossitten GesellschaftRRG

19271933IIXFi156
 Me163-V4



193119395IV1933RRG''Deutsche Forschungsanstalt für Segelflug DFSIV VDFS 39DFS 40

1939RLM DFS 1941940Me 163 
 DM-1

Me16319435Luftfahrtforschungsanstalt WienLFW

1939 P.13aDM-1


 XF-92A



F-929002F-929002XF-92A19501960F-102F-106B-58

1950aerofoil boat1964



1966調西Mercury Marine1

1976211

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 Me163

XF-92 ()

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(一)^ Wright Flyer over Templehoff

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F-102 ()

F-106 ()

B-58 ()

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