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「ウィーン国立歌劇場」の版間の差分

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|建築主=オーストリア・ハンガリー二重帝国政府

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'''ウィーン国立歌劇場'''(ウィーンこくりつかげきじょう、{{Lang-de|'''Wiener Staatsoper'''}})は、[[オーストリア]]の[[ウィーン]]にある[[歌劇場]]。1920年までは'''ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場'''(k.k. Hof-Operntheater–Neues Haus)と呼ばれていた。[[レパートリーシステム]]<ref>フランス語の「レペルトワール」Répertoireを使うのが普通。ミラノ・スカラ座などは一つの演目を1〜2週間繰り返すやり方をしていて「スタジオーネ・システム」と呼ばれるが、こちらは演目が3〜4日ごとに変る。これはオペラが貴族の独占的な楽しみであった時代と違い、新興ブルジョワジーが観劇するようになって増大した需要に応えるためだったという(野村三郎『ウィーン国立歌劇場』「第一章 レパートリー・システム」)。</ref>をとる。

'''ウィーン国立歌劇場'''(ウィーンこくりつかげきじょう、{{Lang-de|'''Wiener Staatsoper'''}} ヴィーナー シュターツオーパー、ドイツ語の原音から「ヴィーン〜」とも)は、[[オーストリア]]の[[ウィーン]]にある[[歌劇場]]。1920年までは'''ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場'''(k.k. Hof-Operntheater–Neues Haus)と呼ばれていた。[[レパートリーシステム]]<ref group="注">フランス語の「レペルトワール」Répertoireを使うのが普通。ミラノ・スカラ座などは一つの演目を1〜2週間繰り返すやり方をしていて「スタジオーネ・システム」と呼ばれるが、こちらは演目が3〜4日ごとに変る。これはオペラが貴族の独占的な楽しみであった時代と違い、新興ブルジョワジーが観劇するようになって増大した需要に応えるためだったという(野村三郎『ウィーン国立歌劇場』「第一章 レパートリー・システム」)。</ref>をとる。



==概要==

==概要==

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1999(GmbH)<ref> 2014233</ref>(GmbH)[[]]2002[[]][[]][[]]<ref> 2014163</ref>

1999(GmbH)<ref> 2014233</ref>(GmbH)[[]]2002[[]][[]][[]]<ref> 2014163</ref>


[[ウィーン国立バレエ団]]の本拠地でもある。

==歴史==


===「沈んだ箱」?===

歌劇場のチケットは度々売り切れるが、需要を満たすために、[[パブリック・ビューイング]]が無料で屋外公開され、潜在需要の掘り起こしに役立っている<ref>2018年1月1日18時NHKEテレ放送「ウィーンニューイヤーコンサートに乾杯!生中継直前 音楽の祝祭を100倍楽しむ方法」</ref>。


== 歴史 ==

=== 「沈んだ箱」? ===

[[ファイル:Bau Staatsoper.jpg|thumb|right|250px|着工直後のようす(1863年]]

[[ファイル:Bau Staatsoper.jpg|thumb|right|250px|着工直後のようす(1863年]]

[[ファイル:Wiener Hofoper 1869.jpg|thumb|right|250px|こけら落とし(1869年)]]

[[ファイル:Wiener Hofoper 1869.jpg|thumb|right|250px|こけら落とし(1869年)]]

[[ファイル:Staatsoper (ca.1898).jpg|thumb|250px|right|1898年ごろ]]

[[ファイル:Staatsoper (ca.1898).jpg|thumb|250px|right|1898年ごろ]]



[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の治世に行われた、城壁の撤去と[[リングシュトラーセ|リング通り]]の建設を中心としたウィーン都市大改造計画の一環として、[[ウィーン市役所]]、[[ブルク劇場]]とともにこの歌劇場は建設された「ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場」が前身である。これら3つの建造物建設計画は1859年に募集された85のプロジェクトから選ばれたものである。ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場建設計画はウィーン大改造に伴い取り壊しが決まった[[ケルントナー門歌劇場]]の代替としてウィーン造形芸術アカデミーの建築家[[エドゥアルト・ファン・デア・ニル]]と[[アウグスト・シカート・フォン・ジッカルツブルク]]の共作で考案したものが選定された。劇場はウィーンの中心部、[[ケルントナー通り]]と[[リングシュトラーセ|リング通り]]の交点に面して建てられており「オペル・リン(オペラ通り:Oper Ring)」と呼ばれている。


[[1 ()|1]][[|]][[]][[]]<!--{{|date=201610|3185985}}--85 P58-->[[]][[]][[]][[]][[]][[|]]Oper Ring



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[[|]][[]]18635201865107[[1869]][[525]]60023248709[[]][[]][[|]]1868<ref>2011</ref>

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===完成後===

=== 完成後 ===


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また、マーラーはそれまでオペレッタを上演することがなかったウィーン宮廷歌劇場で[[ヨハン・シュトラウス2世]]のオペレッタ[[こうもり (オペレッタ)|こうもり]]を正式にレパートリーとした(1897年)。さらに、ウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲(灰かぶり姫というシンデレラ物語)をヨハン・シュトラウス2世に委嘱したが、これは完成しなかった<ref>小宮正安ヨハン・シュトラウス〜ワルツ王と落日のウィーン(中央公論新社)</ref>。

また、マーラーはそれまでオペレッタを上演することがなかったウィーン宮廷歌劇場で[[ヨハン・シュトラウス2世]]のオペレッタ[[こうもり (オペレッタ)|こうもり]]を正式にレパートリーとした(1897年)。さらに、ウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲(灰かぶり姫という[[シンデレラ]]物語)をヨハン・シュトラウス2世に委嘱したが、これは完成しなかった<ref>小宮正安ヨハン・シュトラウス〜ワルツ王と落日のウィーン(中央公論新社)</ref>。




20[[]][[]]1916104[[]]19191010[[]][[1945]]31222{{Sfn | |1990 |p=8}}[[]]12015[[]]194551614[[]]19456181955831[[]]

20世紀になると、総監督の[[リヒャルト・シュトラウス]]の[[ナクソス島のアリアドネ]](1916年10月4日)や[[影のない女]](1919年10月10日)の世界初演が行われている。


[[]][[1945]]31212015[[]]194551614[[]]19456181955831[[]]


再建した客席数2,200名の劇場は、再び総監督に就任した[[カール・ベーム]]の指揮による[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[フィデリオ]]』によって[[1955年]]11月5日に再開した。

再建した客席数2,200名の劇場は、再び総監督に就任した[[カール・ベーム]]の指揮による『フィデリオ』によって[[1955年]]11月5日に再開した。



ウィーン国立歌劇場はイタリアやその他の外国語作品も契約歌手によドイツ語による上演を行ってきたが、カラヤンは客演歌手を招き原語上演する方針を導入した。これは、やはり訳詞上演が慣例化していたドイツその他の国の大歌劇場にも波及した。


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歌劇場ではオペラやバレエの上演のほか、何十年にもわたって上流階級による[[オーパンバル]](オペラ座舞踏会)にも使用されている。

歌劇場ではオペラやバレエの上演のほか、何十年にもわたって上流階級による[[オーパンバル]](オペラ座舞踏会)にも使用されている。



==総監督==

== 総監督 ==

* [[ヨハン・ヘルベック]] (1870–1875)

* [[ヨハン・ヘルベック]] (1870–1875)

* [[ヴィルヘルム・ヤーン]] (1881–1897)

* [[ヴィルヘルム・ヤーン]] (1881–1897)

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* [[ロリン・マゼール]] (1982–1984)

* [[ロリン・マゼール]] (1982–1984)



===音楽監督(楽長)===

=== 音楽監督(楽長) ===

[[ファイル:Fest der Freude 2493a-Michelides.jpg|thumb|right|250px|フィリップ・ジョルダン (2015年)]]

* [[ハンス・リヒター]](1893-1900)/総監督は[[ヴィルヘルム・ヤーン]]

* [[ハンス・リヒター (指揮者)|ハンス・リヒター]](1893-1900)/総監督は[[ヴィルヘルム・ヤーン]]

* [[フランツ・シャルク]](1900-1918)/総監督は[[グスタフ・マーラー]]

* [[フランツ・シャルク]](1900-1918)/総監督は[[グスタフ・マーラー]]

* [[ブルーノ・ワルター]](1901-1913)/総監督は[[グスタフ・マーラー]]

* [[ブルーノ・ワルター]](1901-1913)/総監督は[[グスタフ・マーラー]]

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* [[クラウディオ・アバド]] (1986–1991)/総監督は[[:en:Claus Helmut Drese|クラウス・ヘルムート・ドレーゼ(英語版)]]

* [[クラウディオ・アバド]] (1986–1991)/総監督は[[:en:Claus Helmut Drese|クラウス・ヘルムート・ドレーゼ(英語版)]]

* [[小澤征爾]] (2002–2010)/総監督は[[:en:Ioan Holender|イオアン・ホレンダー(英語版)]]

* [[小澤征爾]] (2002–2010)/総監督は[[:en:Ioan Holender|イオアン・ホレンダー(英語版)]]

* [[フランツ・ウェルザー=メスト]] (2010-2014)<ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140905/ent14090523350018-n1.htm 小澤氏後任の音楽監督辞任、ウィーン国立歌劇場]MSN産経ニュース 2014年9月5日</ref>/総監督は[[:de:Dominique Meyer|ドミニク・メイエ(独語版)]]

* [[フランツ・ウェルザー=メスト]] (2010-2014)<ref>[https://web.archive.org/web/20140905214908/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140905/ent14090523350018-n1.htm 小澤氏後任の音楽監督辞任、ウィーン国立歌劇場]MSN産経ニュース 2014年9月5日</ref>/総監督は[[:de:Dominique Meyer|ドミニク・メイエ(独語版)]]

* [[フィリップ・ジョルダン]] (2020-)/総監督は[[:de:Bogdan Roščić|ボグダン・ロシュチッチ(独語版)]]



==友の会==

== 友の会 ==

オペラチケットの販売だけでは赤字なので<ref>野村三郎『ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで』音楽之友社、2014年、253ページ。</ref>、会費または寄付の額により75のメセナ会員、130のスポンサー会員、119の後援会員、その他の一般会員からなる「友の会」があり、会員になると[[プレミア]]の[[ゲネプロ]]鑑賞6回、オペラサロントークショー16回、入場券の優先販売、世界各地の歌劇場訪問旅行、年報発行配布の特典がある。これら会員の会費、寄付によって赤字圧縮につとめている<ref>野村三郎『ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで』音楽之友社、2014年、265ページ。</ref>。

オペラチケットの販売だけでは赤字なので<ref>野村三郎『ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで』音楽之友社、2014年、253ページ。</ref>、会費または寄付の額により75のメセナ会員、130のスポンサー会員、119の後援会員、その他の一般会員からなる「友の会」があり、会員になると[[プレミア]]の[[ゲネプロ]]鑑賞6回、オペラサロントークショー16回、入場券の優先販売、世界各地の歌劇場訪問旅行、年報発行配布の特典がある。これら会員の会費、寄付によって赤字圧縮につとめている<ref>野村三郎『ウィーン国立歌劇場 すみからすみまで』音楽之友社、2014年、265ページ。</ref>。



==関連項目==

== 関連項目 ==

*[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]] - 世界随一の実績と知名度を誇る名門楽団。国立歌劇場専属オーケストラである[[ウィーン国立歌劇場管弦楽団]]のメンバーによる自主運営団体である。

*[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]] - 世界随一の実績と知名度を誇る名門楽団。国立歌劇場専属オーケストラである[[ウィーン国立歌劇場管弦楽団]]のメンバーによる自主運営団体である。

*ウィーン国立歌劇場合唱団 - [[1927年]]に創設された合唱団。

*ウィーン国立歌劇場合唱団 - [[1927年]]に創設された合唱団。

*ウィーン国立歌劇場少年少女合唱団(グンポルツキルヒナー・シュパッツェン) - [[1949年]]に創設された少年少女合唱団。[[1974年]]よりウィーン国立歌劇場と専属契約を結ぶ。

*ウィーン国立歌劇場少年少女合唱団(グンポルツキルヒナー・シュパッツェン) - [[1949年]]に創設された少年少女合唱団。[[1974年]]よりウィーン国立歌劇場と専属契約を結ぶ。

*[[ウィーン国立バレエ団]]

*[[世紀末ウィーン]]

*[[世紀末ウィーン]]

*[[折衷主義]]

*[[折衷主義]]

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*[[ドラマトゥルク]]

*[[ドラマトゥルク]]

*[[プロンプター]]

*[[プロンプター]]

*[[アンネット・一恵・ストゥルナート]] - 日本人のみならず、東洋人として初の採用者

*[[中村祥子]]

*[[中村祥子]]

*[[藤村実穂子]]

*[[藤村実穂子]]

*[[ジョン・健・ヌッツォ]]



== ギャラリー==

== ギャラリー==

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== 注 ==

== 注 ==

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=== 注釈 ===

{{Notelist2}}

=== 出典 ===

<references />

<references />

{{commonscat|Staatsoper, Vienna}}

{{commonscat|Staatsoper, Vienna}}

== 外部リンク ==



== 参考文献 ==

* {{Cite book|和書

|author= Verlag E. Drner

|title= ウィーン国立オペラ座

|year=1990

|date=

|publisher= ウィーン

|isbn =

|ref={{Sfnref |ウィーン国立オペラ座 |1990}} }}


== 外部リンク ==

*[http://www.wiener-staatsoper.at/ ウィーン国立歌劇場](ドイツ語、英語)

*[http://www.wiener-staatsoper.at/ ウィーン国立歌劇場](ドイツ語、英語)



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[[Category:ウィーンの歌劇場]]

[[Category:ウィーンの歌劇場]]

[[Category:オーストリア=ハンガリー帝国の文化]]

[[Category:オーストリア=ハンガリー帝国の文化]]

[[Category:インネレシュタット (ウィーン)]]

[[Category:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]

[[Category:1869年竣工の建築物]]


2024年1月9日 (火) 20:17時点における最新版

ウィーン国立歌劇場
情報
用途 歌劇場、バレエ・ホール
旧用途 歌劇場・ホール
設計者 エドゥアルト・ファン・デア・ニル
アウグスト・シカート・フォン・ジッカルツブルク
施工 ウィーン市役所
建築主 オーストリア・ハンガリー二重帝国政府
構造形式 折衷様式
敷地面積 8,709 m²
階数 5
高さ 65.3m
着工 1863年5月20日
竣工 1869年5月25日
改築 1955年
所在地 ウィーン市オペラ通り
座標 北緯48度12分10.8秒 東経16度22分8.7秒 / 北緯48.203000度 東経16.369083度 / 48.203000; 16.369083 (ウィーン国立歌劇場)座標: 北緯48度12分10.8秒 東経16度22分8.7秒 / 北緯48.203000度 東経16.369083度 / 48.203000; 16.369083 (ウィーン国立歌劇場)
テンプレートを表示

: Wiener Staatsoper  1920k.k. Hof-OperntheaterNeues Haus[ 1]

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ウィーン国立歌劇場
ウィーン国立歌劇場
  • ウィーン国立歌劇場 (東側面)
    ウィーン国立歌劇場
    (東側面)
  • ウィーン国立歌劇場 (夜景)
    ウィーン国立歌劇場
    (夜景)
  • ウィーン国立歌劇場 (観客席)
    ウィーン国立歌劇場
    (観客席)
  • ウィーン国立歌劇場 (内部)
    ウィーン国立歌劇場
    (内部)
  • 脚注[編集]

    注釈[編集]

    1. ^ フランス語の「レペルトワール」Répertoireを使うのが普通。ミラノ・スカラ座などは一つの演目を1〜2週間繰り返すやり方をしていて「スタジオーネ・システム」と呼ばれるが、こちらは演目が3〜4日ごとに変る。これはオペラが貴族の独占的な楽しみであった時代と違い、新興ブルジョワジーが観劇するようになって増大した需要に応えるためだったという(野村三郎『ウィーン国立歌劇場』「第一章 レパートリー・システム」)。

    []



    (一)^  2014145

    (二)^  2014129

    (三)^  2014167

    (四)^  2014240

    (五)^  2014233

    (六)^  2014163

    (七)^ 20181118NHKE 100

    (八)^ 2011

    (九)^ 

    (十)^  1990, p. 8.

    (11)^ MSN 201495

    (12)^  2014253

    (13)^  2014265

    参考文献[編集]

    • Verlag E. Drner『ウィーン国立オペラ座』ウィーン、1990年。 

    外部リンク[編集]