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「ウィーン国立歌劇場」の版間の差分

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'''ウィーン国立歌劇場'''(ウィーンこくりつかげきじょう、{{Lang-de|'''Wiener Staatsoper'''}} ヴィーナー シュターツオーパー、ドイツ語の原音から「ヴィーン〜」とも)は、[[オーストリア]]の[[ウィーン]]にある[[歌劇場]]。1920年までは'''ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場'''(k.k. Hof-Operntheater–Neues Haus)と呼ばれていた。[[レパートリーシステム]]<ref>フランス語の「レペルトワール」Répertoireを使うのが普通。ミラノ・スカラ座などは一つの演目を1〜2週間繰り返すやり方をしていて「スタジオーネ・システム」と呼ばれるが、こちらは演目が3〜4日ごとに変る。これはオペラが貴族の独占的な楽しみであった時代と違い、新興ブルジョワジーが観劇するようになって増大した需要に応えるためだったという(野村三郎『ウィーン国立歌劇場』「第一章 レパートリー・システム」)。</ref>をとる。

'''ウィーン国立歌劇場'''(ウィーンこくりつかげきじょう、{{Lang-de|'''Wiener Staatsoper'''}} ヴィーナー シュターツオーパー、ドイツ語の原音から「ヴィーン〜」とも)は、[[オーストリア]]の[[ウィーン]]にある[[歌劇場]]。1920年までは'''ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場'''(k.k. Hof-Operntheater–Neues Haus)と呼ばれていた。[[レパートリーシステム]]<ref group="注">フランス語の「レペルトワール」Répertoireを使うのが普通。ミラノ・スカラ座などは一つの演目を1〜2週間繰り返すやり方をしていて「スタジオーネ・システム」と呼ばれるが、こちらは演目が3〜4日ごとに変る。これはオペラが貴族の独占的な楽しみであった時代と違い、新興ブルジョワジーが観劇するようになって増大した需要に応えるためだったという(野村三郎『ウィーン国立歌劇場』「第一章 レパートリー・システム」)。</ref>をとる。



==概要==

==概要==

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[[ファイル:Staatsoper (ca.1898).jpg|thumb|250px|right|1898年ごろ]]

[[ファイル:Staatsoper (ca.1898).jpg|thumb|250px|right|1898年ごろ]]



[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の治世に行われた、城壁の撤去と[[リングシュトラーセ|リング通り]]の建設を中心としたウィーン都市大改造計画の一環として、[[ウィーン市庁舎]]、[[ブルク劇場]]とともに建設された「ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場」が前身である。{{要出典範囲|date=2016年10月|これら3つの建造物建設計画は1859年に募集された85のプロジェクトから選ばれたものである。}}<!----リングシュトラーセの計画に85件の応募があった、という話との混同か? 田口P58--->ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場建設計画はウィーン大改造に伴い取り壊しが決まった[[ケルントナー門歌劇場]]の代替として[[ウィーン美術アカデミー]]の建築家[[エドゥアルト・ファン・デア・ニル]]と[[アウグスト・シカート・フォン・ジッカルツブルク]]の共作で考案したものが選定された。劇場はウィーンの中心部、[[ケルントナー通り]]と[[リングシュトラーセ|リング通り]]の交点に面して建てられており、「オペル・リン(オペラ通り:Oper Ring)」と呼ばれている。

[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]の治世に行われた、城壁の撤去と[[リングシュトラーセ|リング通り]]の建設を中心としたウィーン都市大改造計画の一環として、[[ウィーン市庁舎]]、[[ブルク劇場]]とともに建設された「ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場」が前身である。<!--{{要出典範囲|date=2016年10月|これら3つの建造物建設計画は1859年に募集された85のプロジェクトから選ばれたものである。}}--リングシュトラーセの計画に85件の応募があった、という話との混同か? 田口P58-->ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場建設計画はウィーン大改造に伴い取り壊しが決まった[[ケルントナー門歌劇場]]の代替として[[ウィーン美術アカデミー]]の建築家[[エドゥアルト・ファン・デア・ニル]]と[[アウグスト・シカート・フォン・ジッカルツブルク]]の共作で考案したものが選定された。劇場はウィーンの中心部、[[ケルントナー通り]]と[[リングシュトラーセ|リング通り]]の交点に面して建てられており、「オーパー・リン(オペラ通り:Oper Ring)」と呼ばれている。



新劇場の設計も[[建築設計競技|設計コンペ]]の結果、ニルとジッカルツブルクの[[ネオルネサンス様式]]の設計案が採用された。1863年5月20日に着工、1865年に10月7日に外装が完成、公開され、[[1869年]][[5月25日]]に完成した。総工費600万グルデン、客席数2324、面積8709平方メートルの大劇場である。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]の『[[ドン・ジョヴァンニ]]』の上演でこけら落しを行った。建物は建設途上から「建設上の[[ケーニヒグレーツの戦い|ケーニヒグレーツ]]」、「ギリシャ風、ゴシック風、ルネッサンス風とどれもこれもとりいれ」たありふれたリバイバル建築、などと酷評された。さらに道路面が予定よりも高くなり、建物入口の階段が低くなったため、「皇帝は新劇場を『沈んだ箱』と評した」という噂もたった。これらの酷評のせいで、1868年にニルは自殺し、ジッカルツブルクは憤死した<ref>菊池良生『哀しいドイツ歴史物語‐歴史の闇に消えた九人の男たち』(2011年、ちくま文庫)</ref>。

新劇場の設計も[[建築設計競技|設計コンペ]]の結果、ニルとジッカルツブルクの[[ネオルネサンス様式]]の設計案が採用された。1863年5月20日に着工、1865年に10月7日に外装が完成、公開され、[[1869年]][[5月25日]]に完成した。総工費600万グルデン、客席数2324、面積8709平方メートルの大劇場である。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]の『[[ドン・ジョヴァンニ]]』の上演でこけら落しを行った。建物は建設途上から「建設上の[[ケーニヒグレーツの戦い|ケーニヒグレーツ]]」、「ギリシャ風、ゴシック風、ルネッサンス風とどれもこれもとりいれ」たありふれたリバイバル建築、などと酷評された。さらに道路面が予定よりも高くなり、建物入口の階段が低くなったため、「皇帝は新劇場を『沈んだ箱』と評した」という噂もたった。これらの酷評のせいで、1868年にニルは自殺し、ジッカルツブルクは憤死した<ref>菊池良生『哀しいドイツ歴史物語‐歴史の闇に消えた九人の男たち』(2011年、ちくま文庫)</ref>。

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また、マーラーはそれまでオペレッタを上演することがなかったウィーン宮廷歌劇場で[[ヨハン・シュトラウス2世]]のオペレッタ『[[こうもり (オペレッタ)|こうもり]]』を正式にレパートリーとした(1897年)。さらに、ウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲(『灰かぶり姫』という[[シンデレラ]]物語)をヨハン・シュトラウス2世に委嘱したが、これは完成しなかった<ref>小宮正安『ヨハン・シュトラウス〜ワルツ王と落日のウィーン』(中央公論新社)</ref>。

また、マーラーはそれまでオペレッタを上演することがなかったウィーン宮廷歌劇場で[[ヨハン・シュトラウス2世]]のオペレッタ『[[こうもり (オペレッタ)|こうもり]]』を正式にレパートリーとした(1897年)。さらに、ウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲(『灰かぶり姫』という[[シンデレラ]]物語)をヨハン・シュトラウス2世に委嘱したが、これは完成しなかった<ref>小宮正安『ヨハン・シュトラウス〜ワルツ王と落日のウィーン』(中央公論新社)</ref>。



20世紀になると、総監督[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[ナクソス島のアリアドネ]]』(1916年10月4日)や『[[影のない女]]』(1919年10月10日)の世界初演が行われている。[[第二次世界大戦]]中の[[1945年]]3月12日、連合軍の爆撃により舞台が破壊され、建物は火災に見舞われた。モーリツ・フォン・シュヴァイエの[[フレスコ画]]のあるホワイエと正面階段、連廊、それに喫茶室は焼失を免れたが、120作のオペラ上演のための舞台装置と大小道具のほぼ全て、15万着もの衣装が失われた。このため国立歌劇場は[[ウィーン・フォルクスオーパー]](1945年5月1日から6月14日まで)および[[アン・デア・ウィーン劇場]](1945年6月18日から1955年8月31日まで)を仮の拠点とした。また、従来ウィーンの上演と連携したプロダクションを上演していた[[ザルツブルク音楽祭]]は、これにより独自のプロダクションを作るようになった。


20[[]][[]]1916104[[]]19191010[[]][[1945]]31222{{Sfn | |1990 |p=8}}[[]]12015[[]]194551614[[]]19456181955831[[]]


再建した客席数2,200名の劇場は、再び総監督に就任した[[カール・ベーム]]の指揮による『フィデリオ』によって[[1955年]]11月5日に再開した。

再建した客席数2,200名の劇場は、再び総監督に就任した[[カール・ベーム]]の指揮による『フィデリオ』によって[[1955年]]11月5日に再開した。



ウィーン国立歌劇場はイタリアやその他の外国語作品も、契約歌手によりドイツ語で上演してきたが、カラヤンは客演歌手を招き原語上演する方針を導入した。これは、やはり訳詞上演が慣例化していたドイツその他の国の大歌劇場にも波及した。

ウィーン国立歌劇場はイタリアやその他の外国語作品も、契約歌手によりドイツ語で上演してきたが、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]は客演歌手を招き原語上演する方針を導入した。これは、やはり訳詞上演が慣例化していたドイツその他の国の大歌劇場にも波及した。



歌劇場ではオペラやバレエの上演のほか、何十年にもわたって上流階級による[[オーパンバル]](オペラ座舞踏会)にも使用されている。

歌劇場ではオペラやバレエの上演のほか、何十年にもわたって上流階級による[[オーパンバル]](オペラ座舞踏会)にも使用されている。

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=== 音楽監督(楽長) ===

=== 音楽監督(楽長) ===

[[ファイル:Fest der Freude 2493a-Michelides.jpg|thumb|right|250px|フィリップ・ジョルダン (2015年)]]

[[ファイル:Fest der Freude 2493a-Michelides.jpg|thumb|right|250px|フィリップ・ジョルダン (2015年)]]

* [[ハンス・リヒター]](1893-1900)/総監督は[[ヴィルヘルム・ヤーン]]

* [[ハンス・リヒター (指揮者)|ハンス・リヒター]](1893-1900)/総監督は[[ヴィルヘルム・ヤーン]]

* [[フランツ・シャルク]](1900-1918)/総監督は[[グスタフ・マーラー]]

* [[フランツ・シャルク]](1900-1918)/総監督は[[グスタフ・マーラー]]

* [[ブルーノ・ワルター]](1901-1913)/総監督は[[グスタフ・マーラー]]

* [[ブルーノ・ワルター]](1901-1913)/総監督は[[グスタフ・マーラー]]

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* [[クラウディオ・アバド]] (1986–1991)/総監督は[[:en:Claus Helmut Drese|クラウス・ヘルムート・ドレーゼ(英語版)]]

* [[クラウディオ・アバド]] (1986–1991)/総監督は[[:en:Claus Helmut Drese|クラウス・ヘルムート・ドレーゼ(英語版)]]

* [[小澤征爾]] (2002–2010)/総監督は[[:en:Ioan Holender|イオアン・ホレンダー(英語版)]]

* [[小澤征爾]] (2002–2010)/総監督は[[:en:Ioan Holender|イオアン・ホレンダー(英語版)]]

* [[フランツ・ウェルザー=メスト]] (2010-2014)<ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140905/ent14090523350018-n1.htm 小澤氏後任の音楽監督辞任、ウィーン国立歌劇場]MSN産経ニュース 2014年9月5日</ref>/総監督は[[:de:Dominique Meyer|ドミニク・メイエ(独語版)]]

* [[フランツ・ウェルザー=メスト]] (2010-2014)<ref>[https://web.archive.org/web/20140905214908/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140905/ent14090523350018-n1.htm 小澤氏後任の音楽監督辞任、ウィーン国立歌劇場]MSN産経ニュース 2014年9月5日</ref>/総監督は[[:de:Dominique Meyer|ドミニク・メイエ(独語版)]]

* [[フィリップ・ジョルダン]] (2020-)/総監督は[[:de:Bogdan Roščić|ボグダン・ロシュチッチ(独語版)]]

* [[フィリップ・ジョルダン]] (2020-)/総監督は[[:de:Bogdan Roščić|ボグダン・ロシュチッチ(独語版)]]



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== 注 ==

== 注 ==

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=== 注釈 ===

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=== 出典 ===

<references />

<references />

{{commonscat|Staatsoper, Vienna}}

{{commonscat|Staatsoper, Vienna}}

== 外部リンク ==



== 参考文献 ==

* {{Cite book|和書

|author= Verlag E. Drner

|title= ウィーン国立オペラ座

|year=1990

|date=

|publisher= ウィーン

|isbn =

|ref={{Sfnref |ウィーン国立オペラ座 |1990}} }}


== 外部リンク ==

*[http://www.wiener-staatsoper.at/ ウィーン国立歌劇場](ドイツ語、英語)

*[http://www.wiener-staatsoper.at/ ウィーン国立歌劇場](ドイツ語、英語)



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[[Category:インネレシュタット (ウィーン)]]

[[Category:インネレシュタット (ウィーン)]]

[[Category:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]

[[Category:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]

[[Category:1869年竣工の建築物]]


2024年1月9日 (火) 20:17時点における最新版

ウィーン国立歌劇場
情報
用途 歌劇場、バレエ・ホール
旧用途 歌劇場・ホール
設計者 エドゥアルト・ファン・デア・ニル
アウグスト・シカート・フォン・ジッカルツブルク
施工 ウィーン市役所
建築主 オーストリア・ハンガリー二重帝国政府
構造形式 折衷様式
敷地面積 8,709 m²
階数 5
高さ 65.3m
着工 1863年5月20日
竣工 1869年5月25日
改築 1955年
所在地 ウィーン市オペラ通り
座標 北緯48度12分10.8秒 東経16度22分8.7秒 / 北緯48.203000度 東経16.369083度 / 48.203000; 16.369083 (ウィーン国立歌劇場)座標: 北緯48度12分10.8秒 東経16度22分8.7秒 / 北緯48.203000度 東経16.369083度 / 48.203000; 16.369083 (ウィーン国立歌劇場)
テンプレートを表示

: Wiener Staatsoper  1920k.k. Hof-OperntheaterNeues Haus[ 1]

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ウィーン国立歌劇場
ウィーン国立歌劇場
  • ウィーン国立歌劇場 (東側面)
    ウィーン国立歌劇場
    (東側面)
  • ウィーン国立歌劇場 (夜景)
    ウィーン国立歌劇場
    (夜景)
  • ウィーン国立歌劇場 (観客席)
    ウィーン国立歌劇場
    (観客席)
  • ウィーン国立歌劇場 (内部)
    ウィーン国立歌劇場
    (内部)
  • 脚注[編集]

    注釈[編集]

    1. ^ フランス語の「レペルトワール」Répertoireを使うのが普通。ミラノ・スカラ座などは一つの演目を1〜2週間繰り返すやり方をしていて「スタジオーネ・システム」と呼ばれるが、こちらは演目が3〜4日ごとに変る。これはオペラが貴族の独占的な楽しみであった時代と違い、新興ブルジョワジーが観劇するようになって増大した需要に応えるためだったという(野村三郎『ウィーン国立歌劇場』「第一章 レパートリー・システム」)。

    []



    (一)^  2014145

    (二)^  2014129

    (三)^  2014167

    (四)^  2014240

    (五)^  2014233

    (六)^  2014163

    (七)^ 20181118NHKE 100

    (八)^ 2011

    (九)^ 

    (十)^  1990, p. 8.

    (11)^ MSN 201495

    (12)^  2014253

    (13)^  2014265

    参考文献[編集]

    • Verlag E. Drner『ウィーン国立オペラ座』ウィーン、1990年。 

    外部リンク[編集]