「シムテック」の版間の差分
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1994年はワースが設計した﹁[[シムテック・S941|S941]]﹂でF1に初挑戦したが、第3戦の[[1994年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]予選でラッツェンバーガーが事故死してしまった。その後、ラッツェンバーガーの後任として起用した[[アンドレア・モンテルミーニ]]も、初戦[[1994年スペイングランプリ|スペインGP]]の予選中に両足を複雑[[骨折]]するなどアクシデントが相次いだものの、次第にマシンは改善が進み、シーズン終盤には予選ではブラバムが[[ロータス]]や[[ラルース]]といった所とも張り合えるまでになり、決勝レースでも安定した走りで合計12レースで完走を果たした。
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1994年はワースが設計した﹁[[シムテック・S941|S941]]﹂でF1に初挑戦したが、第3戦の[[1994年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]予選でラッツェンバーガーが事故死してしまった。その後、ラッツェンバーガーの後任として起用した[[アンドレア・モンテルミーニ]]も、初戦[[1994年スペイングランプリ|スペインGP]]の予選中に両足を複雑[[骨折]]するなどアクシデントが相次いだものの、次第にマシンは改善が進み、シーズン終盤には予選ではブラバムが[[ロータス]]や[[ラルース]]といった所とも張り合えるまでになり、決勝レースでも安定した走りで合計12レースで完走を果たした。
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同年夏から秋にかけては、[[1994年の全日本F3000選手権|日本のF3000]]で好結果を出していた[[トム・クリステンセン]]を[[1994年日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]以後のシートに乗せるべく獲得交渉をしていたが<ref name="Ron_1994aug">クリステンセンとチーバーがF1へ? F1デビューのうわさを本人に直撃 [[Racing On]]No.173 15頁 1994年8月26日発行</ref>、FIAによる急激なマシンレギュレーション変更への対応などでチームは慢性的な資金不足となっており、その後、新スポンサーに[[大韓航空]]の支援を獲得していたものの充分ではなく、クリステンセンより大きい金額のスポンサーを持ち込んだ[[ジャン=マルク・グーノン]]<ref>グーノンは元々開幕戦からシムテックで参戦予定であり当初FIA発表のエントリーリストにも名前があったが、開幕直前にチームがラッツェンバーガーへと変更したためデビューが延期となっていた。</ref>、[[ドメニコ・スキャッタレーラ]]、[[井上隆智穂]]とセカンドシートに3人のペイドライバーを乗せることでデビューシーズンを乗り切った<ref>交渉中のクリステンセンも「一部の報道にあった通り交渉しているんだけど、結局持ち込めるおカネの金額次第という感じなんだ」と述べていた Racing On No.173 15頁 1994年8月26日</ref>。 |
同年夏から秋にかけては、[[1994年の全日本F3000選手権|日本のF3000]]で好結果を出していた[[ロス・チーバー]]と[[トム・クリステンセン]]を[[1994年日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]以後のシートに乗せるべく獲得交渉をしていたが<ref name="Ron_1994aug">クリステンセンとチーバーがF1へ? F1デビューのうわさを本人に直撃 [[Racing On]]No.173 15頁 1994年8月26日発行</ref>、FIAによる急激なマシンレギュレーション変更への対応などでチームは慢性的な資金不足となっており、その後、新スポンサーに[[大韓航空]]の支援を獲得していたものの充分ではなく、クリステンセンより大きい金額のスポンサーを持ち込んだ[[ジャン=マルク・グーノン]]<ref>グーノンは元々開幕戦からシムテックで参戦予定であり当初FIA発表のエントリーリストにも名前があったが、開幕直前にチームがラッツェンバーガーへと変更したためデビューが延期となっていた。</ref>、[[ドメニコ・スキャッタレーラ]]、[[井上隆智穂]]とセカンドシートに3人のペイドライバーを乗せることでデビューシーズンを乗り切った<ref>交渉中のクリステンセンも「一部の報道にあった通り交渉しているんだけど、結局持ち込めるおカネの金額次第という感じなんだ」と述べていた Racing On No.173 15頁 1994年8月26日</ref>。 |
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==== 1995年 ==== |
==== 1995年 ==== |
2024年5月6日 (月) 23:51時点における最新版
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活動拠点 |
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創設者 |
ニック・ワース マックス・モズレー |
参戦年度 | 1994 - 1995 |
出走回数 | 21 |
コンストラクターズ タイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1994年ブラジルGP |
最終戦 | 1995年モナコGP |
概要[編集]
前身[編集]
創設者のニック・ワースはロンドン大学を卒業後、空力エンジニアとしてマーチに就職。当時、マーチの共同オーナーであったマックス・モズレーに能力を認められ、1989年にモズレーと共同で﹁シムテック・リサーチ﹂を設立した。同社は他企業から研究開発業務を請け負い、モズレーの縁故によりFISAからの仕事も多くこなした。ただし、モズレーは国際自動車連盟 (FIA) 会長に就任すると、立場上シムテックの経営から手を引いた。 1990年にBMWのF1参戦計画に参画しマシンの設計に携わるが、この参戦計画は消滅し、BMWとは翌1991年にドイツツーリングカー選手権向けのBMW・3シリーズの製作で協業した。このBMW用の設計は後に1992年にコローニの後を受けてF1に参戦したアンドレア・モーダの依頼を受けた際に復活し、同チームのマシン﹁アンドレア・モーダ・S921﹂[2]として製作される事となったが、足回りはスクーデリア・イタリアの中古品を使用するなど十分な整備体制とは言えない状況で、予備予選でマシンをまともに走行させることもできず、1年を待たずしてチームは追放処分を受け解散した。その後、シムテックは1993年にスペインのブラボF1チームのマシン﹁S931﹂を開発したが[3]、オーナーのジャン=フランソワ・モニエが急死した事により参戦計画が消滅し、ブラボ・S931[4]は日の目を見る事は無かった。F1参戦[編集]
1994年[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d8/Ratzenberger.jpg/240px-Ratzenberger.jpg)
1995年[編集]
その後[編集]
チームオーナーとデザイナーを兼任していたニック・ワースは、後にデザイナーとしての評価からベネトンに起用され、ロリー・バーンの後任として1999年までチーフデザイナーを務めた。 その後、ワースは﹁ワース・リサーチ﹂を設立し、ホンダ・パフォーマンス・ディベロップメント (HPD) と共同でアキュラ・ARX-01を開発。アメリカン・ル・マン・シリーズのLMP2クラスを制覇し、コンピュータ上のCFD計算のみでデザインする設計手法が注目された。2010年と2011年には新興F1チームであるヴァージン・レーシングのテクニカルディレクターに就任し、マシン製作を請け負った[9][10]。変遷表[編集]
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 油脂 | ドライバー | ポイント | 順位 | 優勝 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1994年 | MTV・シムテック・フォード | S941 | G | フォードHB (V8) | エルフ | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
0 | NC | 0 |
1995年 | MTV・シムテック・フォード | S951 | G | フォードED (V8) | エルフ | ![]() ![]() |
0 | NC | 0 |
- 斜体はスポット参戦したドライバー
主なスポンサー[編集]
脚注[編集]
- ^ SIMTEK 1994F1総集編 AS+F 82-83頁 三栄書房 1994年12月14日発行
- ^ THE STORY OF THE BMW S192 AND THE BRAVO S931 UNRACED 1990-1999 2015年7月12日
- ^ Zeitungsnotiz vom 25. Februar 1993 (2014年6月17日閲覧)
- ^ Abbildung eines Modells des Bravo S931 (2014年6月17日閲覧)
- ^ チェックアップ・ザ・ポテンシャル SIMTEK 最後のハードルは資金力 F1グランプリ特集3月号 48頁下段 ソニーマガジンズ 1994年3月16日発行
- ^ クリステンセンとチーバーがF1へ? F1デビューのうわさを本人に直撃 Racing OnNo.173 15頁 1994年8月26日発行
- ^ グーノンは元々開幕戦からシムテックで参戦予定であり当初FIA発表のエントリーリストにも名前があったが、開幕直前にチームがラッツェンバーガーへと変更したためデビューが延期となっていた。
- ^ 交渉中のクリステンセンも「一部の報道にあった通り交渉しているんだけど、結局持ち込めるおカネの金額次第という感じなんだ」と述べていた Racing On No.173 15頁 1994年8月26日
- ^ "ワース「オールCFDのアプローチをF1で成功させたい」". オートスポーツ.(2009年12月16日)2013年3月19日閲覧。
- ^ "ヴァージン、ニック・ワースを解雇". STINGER.(2011年6月3日)2013年3月19日閲覧。
関連項目[編集]
- ローランド・ラッツェンバーガー
- F1コンストラクターの一覧
- アンドレア・モーダ
- シムテックによって設計された他の車両
- BMW・S192→アンドレア・モーダ・S921
- ブラボー・S931(キャンセル)
- F1コンストラクターとしてのシムテック
外部リンク[編集]
- Wirth Research(英語)