「ジョージ・クレイトン・フォーク」の版間の差分
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'''ジョージ・クレイトン・フォーク'''︵George Clayton Foulk, [[1856年]][[10月30日]] - [[1893年]][[8月6日]]︶は、[[アメリカ合衆国]]の[[外交官]]。 |
'''ジョージ・クレイトン・フォーク'''︵George Clayton Foulk, [[1856年]][[10月30日]] - [[1893年]][[8月6日]]︶は、[[アメリカ合衆国]]の[[外交官]]、アメリカ海軍少尉。アメリカ代理公使として朝鮮に2期駐在し︵1885-1886, 1886-1887︶、漢字名として'''福久'''︵フォーク、{{lang|ko|복구}}︶を名乗った。
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== 生い立ち == |
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1856年に[[ペンシルバニア州]][[マリエッタ (ペンシルベニア州)|マリエッタ]]にて誕生<ref name="oac">{{Cite web|url=http://www.oac.cdlib.org/findaid/ark:/13030/kt7779n8r3/|title=Guide to the George Clayton Foulk Papers, ca. 1876-1889|publisher=University of California|accessdate=2012-01-03}}</ref>。 |
1856年に[[ペンシルバニア州]][[マリエッタ (ペンシルベニア州)|マリエッタ]]にて誕生<ref name="oac">{{Cite web|url=http://www.oac.cdlib.org/findaid/ark:/13030/kt7779n8r3/|title=Guide to the George Clayton Foulk Papers, ca. 1876-1889|publisher=University of California|accessdate=2012-01-03}}</ref>。1872年に[[アナポリス (メリーランド州)|アナポリス]]の[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|海軍兵学校]]に進み、1876年に卒業後軍務に就く<ref name="oac" /><ref name=hawley>[http://www.samuelhawley.com/foulkarticle1.html JOURNEY IN KOREA: THE 1884 TRAVEL DIARY OF GEORGE C. FOULK by SAMUEL HAWLEY]samuelhawley.com, 著書紹介ページ</ref>。1877年に少尉に任官され、アジア分艦隊で6年間勤仕。蒸気船''アラート''号にてアジア旅行へ発ち、ニューヨーク港から大西洋を渡って地中海、スエズ運河を経てインド洋へ、そして[[日本]]に続く航海をした。この航海の間に、[[日本語]]と[[中国語]]を独学で勉強<ref name=hawley/>。1880年には神戸横浜間を徒歩旅行<ref name=hawley/>。1882年6月3日に、[[ベンジャミン・バッキンガム]]中尉および[[:en:Walter McLean (United States Navy officer)|ウォルター・マクレーン]]少尉とともに日本を出発し、[[李氏朝鮮]]の[[釜山港]]と[[元山港]]、[[シベリア]]、[[ヨーロッパ]]を経て<ref name=hawley/>、9月8日に到着。帰国後は海軍本部資料部の図書係に配属されたが、転部と昇進を願って日本語に加えて[[朝鮮語]]の勉強も始める<ref name=hawley/>。
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1882年、[[ベンジャミン・バッキンガム]]中尉および[[ウォルター・マクレーン]]少尉とともに、アメリカに帰還。1882年6月3日に日本を出発し、[[李氏朝鮮]]の釜山港と元山港、シベリア、ヨーロッパを経て、9月8日に到着。帰国後は海軍本部の資料部に配属され、中国語と日本語と朝鮮語を勉強。 |
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== 朝鮮駐在時代 == |
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1883年9月、李氏朝鮮から |
朝鮮に来航する外国船との衝突が増えるにつれ、朝鮮政府に対する宗主国・清の圧力が強まり、ロシア・日本の朝鮮支配を恐れた清政府は朝鮮政府に対して、イギリスから独立を勝ち取ったアメリカとの接近を指示、朝鮮側も[[アメリカ例外主義]]を信じ、対露、対日だけでなく対中勢力としてもアメリカに期待した<ref name=kim>[http://scholarship.claremont.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=2208&context=cmc_theses An Idealist's Journey: George Clayton Foulk andU.S.-Korea Relations, 1883-1887]Joohyun Kim, Claremont McKenna College, 2015</ref>。1882年に[[米朝修好通商条約]]が締結され、1883年9月、李氏朝鮮から[[閔妃]]の甥である[[閔泳翊]]ら遣米報聘使の一行が訪米すると、朝鮮語を扱えるほぼ唯一の通訳者として、フォークが起用され、2か月に渡ってボストンからワシントンDCまでアメリカ各地を案内した。報聘使長の閔泳翊は帰国に際しフォークの朝鮮駐在をアメリカ国務省に打診、海軍所属の一図書係を無暗に外交職にはできない国務省は海軍本部と協議し、朝鮮に海軍はなかったもののアメリカ公使館付﹁海軍[[駐在武官]]﹂という前例のない役職名を与えてこれを許可した<ref name=kim/>。フォークは報聘使一行とともにヨーロッパを経由し、1884年5月、{{仮リンク|トレントン号|en|USS Trenton (1876)}}で朝鮮に入国した<ref name=kim/>。
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彼は朝鮮駐箚中、[[輿]]で朝鮮各地を視察した。大きな視察は2回あり、1回目は43日かけて[[公州市|公州]]、[[光州広域市|光州]]、[[海印寺 (慶尚南道陜川郡)|海印寺]]、[[釜山広域市|釜山]]、[[大邱広域市|大邱]]、[[聞慶市|聞慶]]などを訪問。2回目は[[漢城府|漢城]]を訪問したが、このとき[[壬午事変]]が発生。このクーデターを機に、朝鮮人は彼を日本のスパイと疑い、敵意を向けた。
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彼は朝鮮駐箚中、[[輿]]で朝鮮各地を視察した。大きな視察は2回あり、1回目は43日かけて[[公州市|公州]]、[[光州広域市|光州]]、[[海印寺 (慶尚南道陜川郡)|海印寺]]、[[釜山広域市|釜山]]、[[大邱広域市|大邱]]、[[聞慶市|聞慶]]などを訪問。2回目は[[漢城府|漢城]]を訪問したが、このとき[[壬午事変]]が発生。このクーデターを機に、朝鮮人は彼を日本のスパイと疑い、敵意を向けた。
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在朝鮮アメリカ公使[[ルーシャス・ハーウッド・フット]]の辞任にともない、1885年にフォークが代理公使となった。1885年から1886年まで、および1886年から1887年まで2度、駐朝鮮公使を務めた。フォークは1886年に任務を一度[[ウィリアム・ハーウォー・パーカー]]に引き継いだが、まもなくパーカーについて「常習的に飲酒をしている」と[[アルコール使用障害]]の報告が[[ワシントンD.C.]]になされた。連邦政府はこれを深刻な事態と判断し、フォークを可及的速やかに朝鮮に戻すことを決定した。このときフォークは客船で帰国の途についていたが、その客船を引き止めるために[[アメリカ合衆国海軍|アメリカ海軍]]の艦隊が使用された。再任から数ヵ月後の1887年、清の要請を受けたアメリカ政府の人事により、フォークは駐朝鮮代理公使を退任。公使就任中は部下の一人もおらず、朝鮮の要人らからは、朝鮮の脅威である中国や日本、イギリス、ロシアへの対応策に関しての相談を頻繁に持ちかけられ孤軍奮闘ししていたが、朝鮮独立に関する助言が清政府から疎まれ、清との関係を慮った米政府により辞任させられた<ref name=hawley/>。 |
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== 晩年 == |
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公使退任後、フォークは[[同志社学院]]に講師として就職<ref name="oac" />。1887年9月7日、朝鮮駐在時代から文通を続けていた日本 |
公使退任後、フォークは[[同志社学院]]に講師として就職<ref name="oac" />。1887年9月7日、朝鮮駐在時代から文通を続けていた長崎出身の日本女性村瀬かね(1858-1936、三田教会会員)と結婚<ref name="oac" /><ref>[https://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=82819213 Kane Murase Foulk]Find A Grave</ref><ref>﹃キリスト敎新聞記事総覧, Volume 4﹄日本図書センター, 1996, p1285</ref>。1888年から1890年まで横浜の[[w:American Trading Company Japan|アメリカン貿易]]に勤務<ref name="oac" />。1890年から1893年まで同志社学院で数学教授として勤務<ref name="oac" />。朝鮮を離れた時点から体調を悪くしていたフォークは、1893年に保養のため妻と[[箱根]]に滞在中、山登りの途中に行方不明となり、翌日心不全で亡くなっているのが発見された<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20160304225537/http://www.geocities.co.jp/rainichi20051/oldHOMEPAGEdata/korea.html|title=近代来韓︵朝︶西洋人名一覧|author=武内博|accessdate=2012-01-03}}</ref><ref name=hawley/>。京都市左京区鹿ケ谷若王子山町にある同志社墓地に埋葬されている。
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George Foulk Murase Kane together alive - pre 1893.jpg|ジョージ・クレイトン・フォークと村瀬かね |
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== 関連書 == |
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*INSIDE THE HERMIT KINGDOM The 1884 Korea Travel Diary of George Clayton Foulk, Samuel Hawley (Lexington Books, 2007) - 1884年に43日間朝鮮内を巡った際の旅日記 |
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*AMERICA'S MAN IN KOREA The Private Letters of George C. Foulk, 1884-1887, Samuel Hawley (Lexington Books, 2007) |
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== 出典 == |
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== 外部リンク == |
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* {{NYPL Archives & Manuscripts|1052|mss|George Clayton Foulk papers 1883-1887}} |
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* {{Internet archive2|inkoreawithmarq01laddgoog|"In Korea with Marquis Ito"}}([[ジョージ・トランブル・ラッド]]著、 New York, C. Scribner's sons, 1908、邦訳『1907 IN KOREA WITH MARQUIS ITO(伊藤侯爵と共に朝鮮にて)』星雲社、2015)- フォーク少尉の報告として朝鮮事情に触れている(p200-) |
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* [http://www.samuelhawley.com/foulk.html フォークに関する写真と本の紹介] |
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[[Category:海軍兵学校 (アメリカ合衆国)出身の人物]] |
2024年5月23日 (木) 15:49時点における最新版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a1/Ensign_George_Clayton_Foulk%2C_USN_%E2%80%94_NH_85539.jpg/220px-Ensign_George_Clayton_Foulk%2C_USN_%E2%80%94_NH_85539.jpg)
生い立ち[編集]
1856年にペンシルバニア州マリエッタにて誕生[1]。1872年にアナポリスの海軍兵学校に進み、1876年に卒業後軍務に就く[1][2]。1877年に少尉に任官され、アジア分艦隊で6年間勤仕。蒸気船アラート号にてアジア旅行へ発ち、ニューヨーク港から大西洋を渡って地中海、スエズ運河を経てインド洋へ、そして日本に続く航海をした。この航海の間に、日本語と中国語を独学で勉強[2]。1880年には神戸横浜間を徒歩旅行[2]。1882年6月3日に、ベンジャミン・バッキンガム中尉およびウォルター・マクレーン少尉とともに日本を出発し、李氏朝鮮の釜山港と元山港、シベリア、ヨーロッパを経て[2]、9月8日に到着。帰国後は海軍本部資料部の図書係に配属されたが、転部と昇進を願って日本語に加えて朝鮮語の勉強も始める[2]。朝鮮駐在時代[編集]
朝鮮に来航する外国船との衝突が増えるにつれ、朝鮮政府に対する宗主国・清の圧力が強まり、ロシア・日本の朝鮮支配を恐れた清政府は朝鮮政府に対して、イギリスから独立を勝ち取ったアメリカとの接近を指示、朝鮮側もアメリカ例外主義を信じ、対露、対日だけでなく対中勢力としてもアメリカに期待した[3]。1882年に米朝修好通商条約が締結され、1883年9月、李氏朝鮮から閔妃の甥である閔泳翊ら遣米報聘使の一行が訪米すると、朝鮮語を扱えるほぼ唯一の通訳者として、フォークが起用され、2か月に渡ってボストンからワシントンDCまでアメリカ各地を案内した。報聘使長の閔泳翊は帰国に際しフォークの朝鮮駐在をアメリカ国務省に打診、海軍所属の一図書係を無暗に外交職にはできない国務省は海軍本部と協議し、朝鮮に海軍はなかったもののアメリカ公使館付﹁海軍駐在武官﹂という前例のない役職名を与えてこれを許可した[3]。フォークは報聘使一行とともにヨーロッパを経由し、1884年5月、トレントン号で朝鮮に入国した[3]。 彼は朝鮮駐箚中、輿で朝鮮各地を視察した。大きな視察は2回あり、1回目は43日かけて公州、光州、海印寺、釜山、大邱、聞慶などを訪問。2回目は漢城を訪問したが、このとき壬午事変が発生。このクーデターを機に、朝鮮人は彼を日本のスパイと疑い、敵意を向けた。 在朝鮮アメリカ公使ルーシャス・ハーウッド・フットの辞任にともない、1885年にフォークが代理公使となった。1885年から1886年まで、および1886年から1887年まで2度、駐朝鮮公使を務めた。フォークは1886年に任務を一度ウィリアム・ハーウォー・パーカーに引き継いだが、まもなくパーカーについて﹁常習的に飲酒をしている﹂とアルコール使用障害の報告がワシントンD.C.になされた。連邦政府はこれを深刻な事態と判断し、フォークを可及的速やかに朝鮮に戻すことを決定した。このときフォークは客船で帰国の途についていたが、その客船を引き止めるためにアメリカ海軍の艦隊が使用された。再任から数ヵ月後の1887年、清の要請を受けたアメリカ政府の人事により、フォークは駐朝鮮代理公使を退任。公使就任中は部下の一人もおらず、朝鮮の要人らからは、朝鮮の脅威である中国や日本、イギリス、ロシアへの対応策に関しての相談を頻繁に持ちかけられ孤軍奮闘ししていたが、朝鮮独立に関する助言が清政府から疎まれ、清との関係を慮った米政府により辞任させられた[2]。晩年[編集]
公使退任後、フォークは同志社学院に講師として就職[1]。1887年9月7日、朝鮮駐在時代から文通を続けていた長崎出身の日本女性村瀬かね(1858-1936、三田教会会員)と結婚[1][4][5]。1888年から1890年まで横浜のアメリカン貿易に勤務[1]。1890年から1893年まで同志社学院で数学教授として勤務[1]。朝鮮を離れた時点から体調を悪くしていたフォークは、1893年に保養のため妻と箱根に滞在中、山登りの途中に行方不明となり、翌日心不全で亡くなっているのが発見された[6][2]。京都市左京区鹿ケ谷若王子山町にある同志社墓地に埋葬されている。-
ジョージ・クレイトン・フォークと村瀬かね
関連書[編集]
- INSIDE THE HERMIT KINGDOM The 1884 Korea Travel Diary of George Clayton Foulk, Samuel Hawley (Lexington Books, 2007) - 1884年に43日間朝鮮内を巡った際の旅日記
- AMERICA'S MAN IN KOREA The Private Letters of George C. Foulk, 1884-1887, Samuel Hawley (Lexington Books, 2007)
出典[編集]
- ^ a b c d e f “Guide to the George Clayton Foulk Papers, ca. 1876-1889”. University of California. 2012年1月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g JOURNEY IN KOREA: THE 1884 TRAVEL DIARY OF GEORGE C. FOULK by SAMUEL HAWLEYsamuelhawley.com, 著書紹介ページ
- ^ a b c An Idealist's Journey: George Clayton Foulk andU.S.-Korea Relations, 1883-1887Joohyun Kim, Claremont McKenna College, 2015
- ^ Kane Murase FoulkFind A Grave
- ^ 『キリスト敎新聞記事総覧, Volume 4』日本図書センター, 1996, p1285
- ^ 武内博. “近代来韓(朝)西洋人名一覧”. 2012年1月3日閲覧。
外部リンク[編集]
- George Clayton Foulk papers 1883-1887 at Manuscripts and Archives Division - New York Public Library
- "In Korea with Marquis Ito" - インターネット・アーカイブ(ジョージ・トランブル・ラッド著、 New York, C. Scribner's sons, 1908、邦訳『1907 IN KOREA WITH MARQUIS ITO(伊藤侯爵と共に朝鮮にて)』星雲社、2015)- フォーク少尉の報告として朝鮮事情に触れている(p200-)
- フォークに関する写真と本の紹介
外交職 | ||
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先代 ルーシャス・ハーウッド・フット |
在李氏朝鮮アメリカ合衆国公使 1885年 - 1886年 |
次代 ウィリアム・ハーウォー・パーカー |
先代 ウィリアム・ハーウォー・パーカー |
在李氏朝鮮アメリカ合衆国公使 1886年 - 1887年 |
次代 ヒュー・アンダーソン・ディンスモア |