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[[1607年]]、[[教役者]]でジェームズ4世の宗教政策に反対した{{仮リンク|ジョン・マンロー・オブ・テイン|en|John Munro of Tain}}は、同僚の教役者と共にドゥーン城に投獄された。マンローはその後当時の城主の計略で城を脱出し、この城主はマンローらを逃がしたことで投獄されている。王党派だった[[ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)|初代モントローズ侯爵ジェームズ・グレアム]]は、[[清教徒革命]]の最中である[[1645年]]にこの城を占領した。[[1654年]]、[[オリバー・クロムウェル]]によるスコットランド侵攻に反対する{{仮リンク|グレンケルンの乱|en|Glencairn's rising}}中には、サー・マンゴ・マリー<ref group="注">{{lang-en-short|Sir Mungo Murray|links=no}}</ref>率いる王党派と、{{仮リンク|トバイアス・ブリッジ|en|Tobias Bridge}}少佐率いるクロムウェル支持派との間で、ドゥーン城を舞台とした小競り合いが起きている{{r|Salter}}。[[1689年]]に起きた「麗しのダンディー」<ref group="注">{{lang-en-short|"Bonnie Dundee"|links=no}}</ref>こと[[ジョン・グラハム (初代ダンディー子爵)|初代ダンディー子爵]]による[[ジャコバイト|ジャコバイトの乱]]の際には、国軍によって城が要塞化され修理も行われた([[1715年]]に起きた[[1715年ジャコバイト蜂起|ジャコバイトの乱]]の際にも同じ事が行われている){{r|Coventry}}。[[1745年]]の[[1745年ジャコバイト蜂起|ジャコバイトの乱]]の際には、ドゥーン城は「麗しのチャーリー王子」<ref group="注">{{lang-en-short|"Bonnie Prince Charlie"|links=no}}</ref>こと[[チャールズ・エドワード・ステュアート]]や、彼を支持するジャコバイト軍勢<ref group="注">原文は {{en|"Jacobite Highlanders."}} ジャコバイトのスコットランド高地人、の意味。[[ハイランド地方]]はスコットランドの地方名でもある。</ref>によって占拠された。[[1746年]]のフォールカークの戦い{{enlink|Battle of Falkirk Muir}}{{refnest|group="注"|{{en|"Battle of Falkirk Muir."}} [[フォルカーク|フォールカーク]] (Falkirk) は[[1298年]]に[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]が[[ウィリアム・ウォレス]]を破った[[フォルカークの戦い]]が起きた場所である |
[[1607年]]、[[教役者]]でジェームズ4世の宗教政策に反対した{{仮リンク|ジョン・マンロー・オブ・テイン|en|John Munro of Tain}}は、同僚の教役者と共にドゥーン城に投獄された。マンローはその後当時の城主の計略で城を脱出し、この城主はマンローらを逃がしたことで投獄されている。王党派だった[[ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)|初代モントローズ侯爵ジェームズ・グレアム]]は、[[清教徒革命]]の最中である[[1645年]]にこの城を占領した。[[1654年]]、[[オリバー・クロムウェル]]によるスコットランド侵攻に反対する{{仮リンク|グレンケルンの乱|en|Glencairn's rising}}中には、サー・マンゴ・マリー<ref group="注">{{lang-en-short|Sir Mungo Murray|links=no}}</ref>率いる王党派と、{{仮リンク|トバイアス・ブリッジ|en|Tobias Bridge}}少佐率いるクロムウェル支持派との間で、ドゥーン城を舞台とした小競り合いが起きている{{r|Salter}}。[[1689年]]に起きた「麗しのダンディー」<ref group="注">{{lang-en-short|"Bonnie Dundee"|links=no}}</ref>こと[[ジョン・グラハム (初代ダンディー子爵)|初代ダンディー子爵]]による[[ジャコバイト|ジャコバイトの乱]]の際には、国軍によって城が要塞化され修理も行われた([[1715年]]に起きた[[1715年ジャコバイト蜂起|ジャコバイトの乱]]の際にも同じ事が行われている){{r|Coventry}}。[[1745年]]の[[1745年ジャコバイト蜂起|ジャコバイトの乱]]の際には、ドゥーン城は「麗しのチャーリー王子」<ref group="注">{{lang-en-short|"Bonnie Prince Charlie"|links=no}}</ref>こと[[チャールズ・エドワード・ステュアート]]や、彼を支持するジャコバイト軍勢<ref group="注">原文は {{en|"Jacobite Highlanders."}} ジャコバイトのスコットランド高地人、の意味。[[ハイランド地方]]はスコットランドの地方名でもある。</ref>によって占拠された。[[1746年]]のフォールカークの戦い{{enlink|Battle of Falkirk Muir}}{{refnest|group="注"|{{en|"Battle of Falkirk Muir."}} [[フォルカーク|フォールカーク]] (Falkirk) は[[1298年]]に[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]が[[ウィリアム・ウォレス]]を破った[[フォルカークの戦い]]が起きた場所である |
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<ref name="geniusbigfalkirk">{{Cite encyclopedia|author=[[小西友七]]|author2=南出康世|date=2001-04-25|year=2001|title=Falkirk|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|place=[[東京都]][[文京区]]|publisher=[[大修館書店]]|publication-date=2011|series=[[ジーニアス (辞典)|ジーニアス]]|id={{NCID|BA51576491}}. {{ASIN|4469041319}}. {{全国書誌番号|20398458}}|isbn=978-4469041316|oclc=47909428}}</ref>。今回の戦いはまた別のもので、先述のチャールズ・エドワード・ステュアートが[[グレートブリテン王国]]に勝利したものである{{r|geniusbigfalkirk}}。また {{en|"Muir"}} とは、スコットランドの方言で﹁荒野・荒れ地﹂を指す︵英語の {{en|"moor"}} と同義︶<ref>{{Cite encyclopedia|author=小西友七|author2=南出康世|date=2001-04-25|year=2001|title=muir|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|place=東京都文京区|publisher=大修館書店|publication-date=2011|series=ジーニアス|id={{NCID|BA51576491}}. {{ASIN|4469041319}}. {{全国書誌番号|20398458}}|isbn=978-4469041316|oclc=47909428}}</ref>。戦いの名前を訳すとすれば﹁フォールカーク荒野の戦い﹂となる。}}で捕らえられた国軍兵用の監獄としても使われた。台所上層の部屋に投獄された囚人たちの中には、ベッドシーツを結び付けてロープとし、窓から抜け出して脱獄したものもいる{{r|Salter}}。逃亡者の中には作家の{{仮リンク|ジョン・ホーム|en|John Home}}や牧師の[[ジョン・ウィザースプーン]]がおり、後者は後にアメリカ植民地へ渡って[[アメリカ独立宣言]]に署名した<ref>{{cite web |work=The History of the Presbyterian Church |title=John Witherspoon |url=http://presbyterianhistory.com/b_witherspoon.htm |accessdate=2007-12-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080220154431/http://presbyterianhistory.com/b_witherspoon.htm |archivedate=2008年2月20日 |deadurl=yes |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
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<ref name="geniusbigfalkirk">{{Cite encyclopediaja|author=[[小西友七]]|author2=南出康世|date=2001-04-25|year=2001|title=Falkirk|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|place=[[東京都]][[文京区]]|publisher=[[大修館書店]]|publication-date=2011|series=[[ジーニアス (辞典)|ジーニアス]]|id={{NCID|BA51576491}}. {{ASIN|4469041319}}. {{全国書誌番号|20398458}}|isbn=978-4469041316|oclc=47909428}}</ref>。今回の戦いはまた別のもので、先述のチャールズ・エドワード・ステュアートが[[グレートブリテン王国]]に勝利したものである{{r|geniusbigfalkirk}}。また {{en|"Muir"}} とは、スコットランドの方言で﹁荒野・荒れ地﹂を指す︵英語の {{en|"moor"}} と同義︶<ref>{{Cite encyclopediaja|author=小西友七|author2=南出康世|date=2001-04-25|year=2001|title=muir|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|place=東京都文京区|publisher=大修館書店|publication-date=2011|series=ジーニアス|id={{NCID|BA51576491}}. {{ASIN|4469041319}}. {{全国書誌番号|20398458}}|isbn=978-4469041316|oclc=47909428}}</ref>。戦いの名前を訳すとすれば﹁フォールカーク荒野の戦い﹂となる。}}で捕らえられた国軍兵用の監獄としても使われた。台所上層の部屋に投獄された囚人たちの中には、ベッドシーツを結び付けてロープとし、窓から抜け出して脱獄したものもいる{{r|Salter}}。逃亡者の中には作家の{{仮リンク|ジョン・ホーム|en|John Home}}や牧師の[[ジョン・ウィザースプーン]]がおり、後者は後にアメリカ植民地へ渡って[[アメリカ独立宣言]]に署名した<ref>{{cite web |work=The History of the Presbyterian Church |title=John Witherspoon |url=http://presbyterianhistory.com/b_witherspoon.htm |accessdate=2007-12-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080220154431/http://presbyterianhistory.com/b_witherspoon.htm |archivedate=2008年2月20日 |deadurl=yes |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
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=== 荒廃と修復作業、そして保全と公開 ===<!--この節へアンカーリンクがあります。節名変更時にはご注意ください--> |
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中庭に向かう通路が含まれる1階部分と、その上層にあって2階部分全てを占めている領主館の間には直接の連絡がない。領主館には、中庭から繋がる石垣で囲まれた階段から出入りすることができ、階段の先には門がある<ref group="注">﹃モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル﹄では、ランスロット卿︵ジョン・クリーズ︶による結婚式乱入シーンで、クリーズがこの階段を駆け上るシーンを見ることができる。</ref>。領主館の広間はヴォールトになっており、珍しいことに[[暖炉]]が2基据えられている。床面のタイルや木製の羽目板、{{仮リンク|ミンストレルズ・ギャラリー|en|Minstrels' gallery}}は、1880年代になって導入されたものである。以前は大広間に繋がる扉も1880年代のものと考えられていたが、現在では建築当時のものと考えられている{{r|BoS}}。広間と同じ階にはいくつかの脇部屋があるが、ラウンドタワーの部屋には上方にくぐり戸があるほか、南壁の中にある小部屋からは広間と中庭の両方を見渡せる。広間の北窓下にある、﹁殺人穴﹂︵{{lang-en-short|"murder hole"|links=no}}︶とも呼ばれる[[出し狭間]]からは、パッセージにやってきた襲撃者に対して、物を投げつけることができる{{r|BoS}}。
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中庭に向かう通路が含まれる1階部分と、その上層にあって2階部分全てを占めている領主館の間には直接の連絡がない。領主館には、中庭から繋がる石垣で囲まれた階段から出入りすることができ、階段の先には門がある<ref group="注">﹃モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル﹄では、ランスロット卿︵ジョン・クリーズ︶による結婚式乱入シーンで、クリーズがこの階段を駆け上るシーンを見ることができる。</ref>。領主館の広間はヴォールトになっており、珍しいことに[[暖炉]]が2基据えられている。床面のタイルや木製の羽目板、{{仮リンク|ミンストレルズ・ギャラリー|en|Minstrels' gallery}}は、1880年代になって導入されたものである。以前は大広間に繋がる扉も1880年代のものと考えられていたが、現在では建築当時のものと考えられている{{r|BoS}}。広間と同じ階にはいくつかの脇部屋があるが、ラウンドタワーの部屋には上方にくぐり戸があるほか、南壁の中にある小部屋からは広間と中庭の両方を見渡せる。広間の北窓下にある、﹁殺人穴﹂︵{{lang-en-short|"murder hole"|links=no}}︶とも呼ばれる[[出し狭間]]からは、パッセージにやってきた襲撃者に対して、物を投げつけることができる{{r|BoS}}。
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大広間の上層︵3階部分︶には第2広間があり、公爵夫人の続き部屋の一部を成している。南壁にある小礼拝堂{{enlink|Oratory (worship)|Oratory}}からは中庭を見渡すことができ、中には{{仮リンク|聖水盤|en|Piscina}}や{{仮リンク|祭器卓|en|Credence table}}{{refnest|group="注"|キリスト教でミサ聖祭に用いるパンやぶどう酒を載せるもの<ref>{{cite encyclopedia|author=小西友七 |authorlink=小西友七 | |
大広間の上層︵3階部分︶には第2広間があり、公爵夫人の続き部屋の一部を成している。南壁にある小礼拝堂{{enlink|Oratory (worship)|Oratory}}からは中庭を見渡すことができ、中には{{仮リンク|聖水盤|en|Piscina}}や{{仮リンク|祭器卓|en|Credence table}}{{refnest|group="注"|キリスト教でミサ聖祭に用いるパンやぶどう酒を載せるもの<ref>{{cite encyclopediaja|author=小西友七 |authorlink=小西友七 |author2=南出康世|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|title=credence table |edition=|year=2011|publisher=[[大修館書店]]|id= |isbn= |oclc= |doi= }}{{accessdate|2016-07-27}}</ref>。}}を収める{{読み仮名|[[壁龕]]|へきがん}}がある。小礼拝堂の壁面にある通路は、城の[[カーテンウォール (要塞)|カーテンウォール]]に沿った通路に繋がっている。公爵夫人の広間︵{{lang-en-short|The Duchess' hall|links=no}}︶にある木製の天井や、木製の床・屋根は、いずれも1880年代のものである。上層部の石造り部分は、1580年代の修繕で据え付けられたものである{{r|BoS}}。
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=== 大広間・台所塔 === |
=== 大広間・台所塔 === |
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=== 中庭とカーテンウォール === |
=== 中庭とカーテンウォール === |
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台所棟の南壁にある﹁タスキング﹂︵{{lang-en-short|tuskings|links=no}}︶{{refnest|group="注"|{{en|"Tusk"}}には﹁ゾウやイノシシのきば、人の出っ歯﹂との意味があるほか、動詞としては﹁〜をきばで突く﹂との意味がある<ref>{{Cite encyclopedia|author=小西友七|author2=南出康世|date=2001-04-25|year=2001|title=tusk|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|place=|publisher=[[大修館書店]]|publication-date=2011|series=[[ジーニアス (辞典)|ジーニアス]]|id={{NCID|BA51576491}}. {{ASIN|4469041319}}. {{全国書誌番号|20398458}}|isbn=978-4469041316|oclc=47909428}}</ref>。}}として知られる突き出た石や、南のカーテンウォールにある4つの尖頭アーチ窓は、建物を更に拡張する計画があったことを示唆している。建物の東端にある大きな窓はチャペル用に作られた可能性がある。8世紀の修道士{{仮リンク|フィラン|label=聖フィラン|en|Fillan}}に捧げられた礼拝堂がドゥーン城にあったことは記録されているが、城の東部では基礎部分が見つかっていないことから、そこには大きな建物はなかったものと推測される{{r|BoS}}。2002年9月には現存する基礎部分が発掘され、南壁に向かって陶器窯・オーブンと考えられる構造が見つかった{{r|NMRS}}。また中央の[[井戸]]はおよそ{{convert|18|m|ft}} の深さがある{{r|Salter}}。
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台所棟の南壁にある﹁タスキング﹂︵{{lang-en-short|tuskings|links=no}}︶{{refnest|group="注"|{{en|"Tusk"}}には﹁ゾウやイノシシのきば、人の出っ歯﹂との意味があるほか、動詞としては﹁〜をきばで突く﹂との意味がある<ref>{{Cite encyclopediaja|author=小西友七|author2=南出康世|date=2001-04-25|year=2001|title=tusk|encyclopedia=ジーニアス英和大辞典|place=|publisher=[[大修館書店]]|publication-date=2011|series=[[ジーニアス (辞典)|ジーニアス]]|id={{NCID|BA51576491}}. {{ASIN|4469041319}}. {{全国書誌番号|20398458}}|isbn=978-4469041316|oclc=47909428}}</ref>。}}として知られる突き出た石や、南のカーテンウォールにある4つの尖頭アーチ窓は、建物を更に拡張する計画があったことを示唆している。建物の東端にある大きな窓はチャペル用に作られた可能性がある。8世紀の修道士{{仮リンク|フィラン|label=聖フィラン|en|Fillan}}に捧げられた礼拝堂がドゥーン城にあったことは記録されているが、城の東部では基礎部分が見つかっていないことから、そこには大きな建物はなかったものと推測される{{r|BoS}}。2002年9月には現存する基礎部分が発掘され、南壁に向かって陶器窯・オーブンと考えられる構造が見つかった{{r|NMRS}}。また中央の[[井戸]]はおよそ{{convert|18|m|ft}} の深さがある{{r|Salter}}。
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[[カーテンウォール (要塞)|カーテンウォール]]は厚さ{{convert|2|m|ft}} 、高さ{{convert|12|m|ft}} である{{r|Salter}}。壁の上に沿った通路は両側から欄干で防御されており、急な階段で広間・ゲートハウス部分の傾斜のきつい屋根に繋がっている。覆いのない円形のタレットが角ごとにあり、壁の中間には半円形の突出部がある。出し狭間付きの四角いタレットは、西壁の裏門上に1つだけ設置されている{{r|BoS}}。
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2024年1月10日 (水) 07:10時点における最新版
ドゥーン城 Doune Castle | |
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![]() スターリング、ドゥーン UK grid reference NN727010 | |
![]() ドゥーン城の北壁。 | |
座標 | 北緯56度11分07秒 西経4度03分01秒 / 北緯56.185158度 西経4.050253度 |
種類 | 中庭付きの城砦 (Tower house) |
地上高 | 領主塔頂点まで29メートル (95 ft) |
施設情報 | |
所有者 | ヒストリック・スコットランド |
管理者 | オールバニ公爵(1420年まで) スコットランド王(17世紀まで) マリー伯爵 |
一般公開 | 一般公開中 |
現況 | 荒廃 |
歴史 | |
建設 | 1400年頃 |
建設者 | オールバニ公爵ロバート・ステュアート (オールバニ公爵) |
建築資材 | 石造り(大部分は粗石積み、隅には飾り石) |
歴史[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f8/Doune_Castle_above_river.jpg/220px-Doune_Castle_above_river.jpg)
摂政・オールバニ公爵[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Robert_of_Albany.jpg/220px-Robert_of_Albany.jpg)
王立保養所[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2a/James_III_and_Margaret_of_Denmark.jpg/220px-James_III_and_Margaret_of_Denmark.jpg)
刑務所そして要塞として[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/James_Graham%2C_Marquess_of_Montrose.jpg/220px-James_Graham%2C_Marquess_of_Montrose.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1e/The_Castle_of_Doune_by_Henry_Fox_Talbot.jpg/200px-The_Castle_of_Doune_by_Henry_Fox_Talbot.jpg)
荒廃と修復作業、そして保全と公開[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/88/Doune_Castle_Scotland.jpg/220px-Doune_Castle_Scotland.jpg)
城内の詳細[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/20/Doune_Castle_plan.png/400px-Doune_Castle_plan.png)
領主塔[編集]
この城で1番の塔であるゲートハウスは領主塔︵英: The Lord's tower︶として使われており、建物は13メートル (43 ft) 四方︵元々の計画では18メートル (59 ft) 四方︶、およそ29メートル (95 ft) の高さがある[2]。また北東の角には、エントランスに隣接してラウンドタワーが張り出している。この塔には領主館︵英: The Lord's Hall、2階部分︶と3階部分の部屋があり、これらはエントランスの通路の上に位置している。丸石で飾られたヴォールト状[注 12]の通路は14メートル (46 ft)の長さで、以前は2組の木製扉で守られていたほか、現在でもイェット︵蝶番式になった鉄格子の扉︶が残されている[5]。パッセージの両側に据えられた衛兵所では、銃眼を通して通路を見渡すことができ、領主塔の基底部である1階部分もよく見える。またこの通路を抜けると中庭に出ることができる。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/12/Doune_Castle_-_great_hall.jpg/220px-Doune_Castle_-_great_hall.jpg)
大広間・台所塔[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0e/Doune_castle_1997.jpg/220px-Doune_castle_1997.jpg)
中庭とカーテンウォール[編集]
台所棟の南壁にある﹁タスキング﹂︵英: tuskings︶[注 15]として知られる突き出た石や、南のカーテンウォールにある4つの尖頭アーチ窓は、建物を更に拡張する計画があったことを示唆している。建物の東端にある大きな窓はチャペル用に作られた可能性がある。8世紀の修道士聖フィランに捧げられた礼拝堂がドゥーン城にあったことは記録されているが、城の東部では基礎部分が見つかっていないことから、そこには大きな建物はなかったものと推測される[5]。2002年9月には現存する基礎部分が発掘され、南壁に向かって陶器窯・オーブンと考えられる構造が見つかった[22]。また中央の井戸はおよそ18メートル (59 ft) の深さがある[2]。 カーテンウォールは厚さ2メートル (6.6 ft) 、高さ12メートル (39 ft) である[2]。壁の上に沿った通路は両側から欄干で防御されており、急な階段で広間・ゲートハウス部分の傾斜のきつい屋根に繋がっている。覆いのない円形のタレットが角ごとにあり、壁の中間には半円形の突出部がある。出し狭間付きの四角いタレットは、西壁の裏門上に1つだけ設置されている[5]。間取りの解釈[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a7/Doune_Castle_south_wall.jpg/220px-Doune_Castle_south_wall.jpg)
フィクションやドラマでの使用[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Scotia_Depicta_-_Doune_Castle_-Plate-.jpg/300px-Scotia_Depicta_-_Doune_Castle_-Plate-.jpg)
﹃モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル﹄[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Doune_Castle_east_wall.jpg/175px-Doune_Castle_east_wall.jpg)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- Fawcett, Richard (1994). Scottish Architecture from the accession of the Stewarts to the Reformation, 1371–1560. Architectural History of Scotland. Edinburgh University Press. ISBN 978-0-7486-0465-4. NCID BA23807643. OCLC 31144553
- Fraser, William (1880). The Red Book of Menteith. Edinburgh
- Gifford, John; Walker, Frank Arneil (2002). Stirling and Central Scotland. Buildings of Scotland. Yale University Press. ISBN 0-300-09594-5. NCID BA63802871. OCLC 49395264
- MacGibbon, David; Ross, Thomas (1887). The Domestic and Castellated Architecture of Scotland. Vol.I. David Douglas. ISBN 0-901824-18-6. NCID BB16879878. OCLC 33331121
- Oram, Richard (2011), "The Great House in Late Medieval Scotland: Courtyards and Towers c. 1300-c. 1400", in The Medieval Great House, ed. M. Airs and P.S. Barnwell: 43-60. Rewley House Studies in the Historic Environment, 1. Shaun Tyas. ISBN 9781907730078
- Pringle, R. Denys (1987). Doune Castle. HMSO. ISBN 0114933413. OCLC 18780020
- Salter, Mike (1994). The Castles of the Heartland of Scotland. Folly Publications. ISBN 1-871731-18-6. OCLC 35843187
- Simpson, W. Douglas (1938). “Doune Castle” (PDF). Proceedings of the Society of Antiquaries of Scotland 72: 73–83 .
- Tabraham, Chris (1997). Scotland's Castles. B. T. Batsford/Historic Scotland. ISBN 0-7134-8147-1. OCLC 37656382
- “Our Royal, Titled, Noble, and Commoner Ancestors & Cousins (over 174,000 names).”. 2016年6月30日閲覧。
外部リンク[編集]
- Doune Castle - Historic Environment Scotland
- Doune Castle - Visit Scotland
- Doune Community, Information and Heritage centre
- Doune Castle - ジェームズ・フィトラーの刷ったドゥーン城の版画を、デジタルコピーしたもの。1804年の作品 "Scotia Depicta, or the antiquities, castles, public buildings, noblemen and gentlemen's seats, cities, towns and picturesque scenery of Scotland" より。スコットランド国立図書館所蔵
座標: 北緯56度11分07秒 西経4度03分01秒 / 北緯56.185158度 西経4.050253度