ニュー・アカデミズム
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ニュー・アカデミズムとは、1980年代の初頭に日本で起こった、人文科学、社会科学の領域における流行、潮流のこと。ニューアカと略される場合もある。
概要
﹁ニュー・アカデミズム﹂とは浅田彰の活躍に代表される事象をマスコミが社会現象として捉えて名付けた造語であり、言葉自体に厳密な定義はないが、特定の学問の領域を超えた研究・思想という学際的な特徴がある[1]。 レヴィ=ストロース、ラカン、アルチュセール、ソシュール、バルト等構造主義や記号論を受け継いだ潮流と、後にポスト構造主義ないしポスト・モダニズムと総称されるようになるフーコー、ドゥルーズ、デリダ、クリステヴァ、リオタール、ボードリヤールを受け継いだ潮流がある。略年譜
●1968年、吉本隆明﹃共同幻想論﹄ ●1972年、廣松渉﹃世界の共同主観的存在構造﹄ ●1975年、山口昌男﹁文化と両義性﹂ ●1978年、岸田秀﹃ものぐさ精神分析﹄ ●1979年、蓮實重彦﹃表層批評宣言﹄、中村雄二郎﹃共通感覚論﹄ ●1980年、柄谷行人﹃日本近代文学の起源﹄ ●1981年、今村仁司﹃労働のオントロギー﹄、細川周平﹃音楽の記号論﹄ ●1981年、栗本慎一郎﹃パンツをはいたサル﹄ ●1982年、上野千鶴子﹃セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方﹄ ●1983年、浅田彰﹃構造と力﹄、中沢新一﹃チベットのモーツァルト﹄ ●1984年、丸山圭三郎﹃文化のフェティシズム﹄、四方田犬彦﹃クリティック﹄ ●1985年、岩井克人﹃﹃ヴェニスの商人の資本論﹄解説
1960年代までにおける社会科学・人文科学におけるアカデミズムの主流は、政治学における丸山真男、経済学における宇野弘蔵、歴史学における大塚久雄の流れをくむマルクス主義であった。文壇でも、マルクス主義の実存主義による補完を目指したサルトルを戦後民主主義を支持する大江健三郎が紹介するなどして流行していた。 当時の政治事情を背景に市井の評論家であった吉本隆明が日本独自の思想の擁立を目指し、アカデミズム・戦後民主主義を批判したことによりポスト・マルクス主義の時代が始まった[2]。 1970年代になると、新たな時代の思想を求めて、同様にマルクス主義批判が高まっていたフランスの現代思想が輸入されるようになるが、その発表の場となったのは、当時三浦雅士が編集長を務めていた﹃現代思想﹄である。市井の評論家であった吉本隆明をのぞき、廣松渉、柄谷行人、蓮實重彦らは正統なアカデミズムに属する大学人であり、それぞれ専門分野をもっていたが、自身の思想の発表の場を学会誌ではなく、雑誌に求めたのである。この雑誌が﹁思想界へのデビュー﹂となった人物には丸山圭三郎、木田元、栗本慎一郎、岸田秀、粉川哲夫、今村仁司、岩井克人などがいる。 1983年 に浅田彰の﹃構造と力﹄が出版されると、新聞や一般誌にもたびたび取り上げられて、15万部を売り上げ、﹁スキゾ﹂と﹁パラノ﹂は流行語にすらなった。現代思想も最盛期で公称数万部の発行部数を弾き出した。柔らかい読み物は一切なく、生硬で学術的な論文で固められた雑誌としては驚異的な発行部数だったと言える。 ﹃構造と力﹄に掲載された論文は当時26歳で京都大学人文科学研究所の助手になったばかりの浅田が大学院在学中に執筆したものである。26歳という年齢と、その年齢にそぐわない非常に明快、明晰な持論を展開したことで話題を呼んだ。﹁余りに図式的すぎる﹂﹁独自性がない﹂という批判もあったが、本人は﹁元々現代思想のチャート式入門書を書こうと思ったのだから、図式的であり独自性がないのは当然のこと。﹂﹁そもそも現代思想に本質的な意味での独自性などありはしない。﹂と臆することなく反論した。 その後、浅田に加えて、中沢新一など多くのものが引き続き多くの著書を刊行し、その内容の難度にもかかわらず、大学生を中心に広く読まれたが、やがて現代思想に論文を掲載していたもの達はそれぞれ自分の専門分野に戻り、ニュー・アカデミズムは後退して行った。脚注
参考文献
- 『ニューアカデミズム その虚像と実像』(新日本出版社、1985)
- 小阪修平・竹田青嗣・西研他著『現代思想・入門』(宝島社、1987)
- 仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』(NHKブックス、2006)
- 佐々木敦『ニッポンの思想』(講談社現代新書、2009)