「フゴッペ洞窟」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
'''フゴッペ洞窟'''︵フゴッペどうくつ︶とは、[[北海道]][[余市町]]栄町にある[[国指定遺跡]]。[[1950年]]︵昭和25年︶、[[札幌市|札幌]]から海水浴にきた中学生が発見。[[アムール文化]]との関連性が言われているが真偽の程は不明。しかしながらフゴッペ洞窟に関しては、余市郷土誌やそのころの新聞等から見ても発見時や発見者が大きく異なっており、解釈の相違が見られる。[[小樽文学館]]の展示物である﹁小樽新聞﹂では発見は大正14年であり、戦前の余市郷土史では農夫某が客土用の土を採取している際に発見となっている。また[[草風社]]刊﹁違星北斗 遺稿 コタン﹂9ページに﹁疑うべきフゴッペの遺跡﹂という文が載っている。[[違星北斗]]の没年は[[1929年]](昭和4年)であり、昭和25年発見説とは矛盾することになる。今後再検討しなければならない課題である。また、昭和25年説の初見の昭和36年発行ポケット版余市郷土史では発見者は高校生となっている。
|
'''フゴッペ洞窟'''︵フゴッペどうくつ︶とは、[[北海道]][[余市町]]栄町にある[[国指定遺跡]]。[[1950年]]︵昭和25年︶、[[札幌市|札幌]]から海水浴にきた中学生が発見。[[アムール文化]]との関連性が言われているが真偽の程は不明。しかしながらフゴッペ洞窟に関しては、余市郷土誌やそのころの新聞等から見ても発見時や発見者が大きく異なっており、解釈の相違が見られる。[[小樽文学館]]の展示物である﹁小樽新聞﹂では発見は大正14年であり、戦前の余市郷土史では農夫某が客土用の土を採取している際に発見となっている。また[[草風社]]刊﹁違星北斗 遺稿 コタン﹂9ページに﹁疑うべきフゴッペの遺跡﹂という文が載っている。[[違星北斗]]の没年は[[1929年]](昭和4年)であり、昭和25年発見説とは矛盾することになる。今後再検討しなければならない課題である。また、昭和25年説の初見の昭和36年発行ポケット版余市郷土史では発見者は高校生となっている。ここで注意しなければならないことは、異なる遺跡であると想定することもできることである。つまり、北斗の﹁フゴッペの遺跡﹂と国指定﹁フゴッペ洞窟﹂が相違するのか、同一のものを指すのかということである。北斗の前掲の文には、その場所が函館本線からの距離や、周囲の状況が明示されており、まさしく現在の﹁フゴッペ洞窟﹂の位置や環境と一致しており、しかも、近辺にはその他の類似洞窟遺跡は無いことである。
|
||
{{DEFAULTSORT:ふこつへとうくつ}} |
{{DEFAULTSORT:ふこつへとうくつ}} |
2008年1月28日 (月) 01:53時点における版
フゴッペ洞窟︵フゴッペどうくつ︶とは、北海道余市町栄町にある国指定遺跡。1950年︵昭和25年︶、札幌から海水浴にきた中学生が発見。アムール文化との関連性が言われているが真偽の程は不明。しかしながらフゴッペ洞窟に関しては、余市郷土誌やそのころの新聞等から見ても発見時や発見者が大きく異なっており、解釈の相違が見られる。小樽文学館の展示物である﹁小樽新聞﹂では発見は大正14年であり、戦前の余市郷土史では農夫某が客土用の土を採取している際に発見となっている。また草風社刊﹁違星北斗 遺稿 コタン﹂9ページに﹁疑うべきフゴッペの遺跡﹂という文が載っている。違星北斗の没年は1929年(昭和4年)であり、昭和25年発見説とは矛盾することになる。今後再検討しなければならない課題である。また、昭和25年説の初見の昭和36年発行ポケット版余市郷土史では発見者は高校生となっている。ここで注意しなければならないことは、異なる遺跡であると想定することもできることである。つまり、北斗の﹁フゴッペの遺跡﹂と国指定﹁フゴッペ洞窟﹂が相違するのか、同一のものを指すのかということである。北斗の前掲の文には、その場所が函館本線からの距離や、周囲の状況が明示されており、まさしく現在の﹁フゴッペ洞窟﹂の位置や環境と一致しており、しかも、近辺にはその他の類似洞窟遺跡は無いことである。