フゴッペ洞窟
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フゴッペ洞窟︵フゴッペどうくつ︶とは、北海道余市町栄町にある史跡。
1950年︵昭和25年︶、札幌から海水浴にきた中学生が発見、高校生で郷土研究部に属していた兄に知らせたことにより一躍有名になった。︵発見者が中学生であるとも、高校生であるともいわれるのはこのためである︶。
アムール文化との関連性が言われているが真偽の程は不明。国の史跡の指定を受けている。
仮装した人物、動物など、200以上の続縄文時代の刻画が描かれており、カプセル方式の施設により保護・展示され、一般に公開されている。
北斗の﹁フゴッペの遺跡﹂と国指定遺跡の﹁フゴッペ洞窟﹂は厳密にいえば異なるものであるが、北斗の論文には、遺跡の場所・函館本線からの距離・周囲の状況が明示されており、まさしく現在の﹁フゴッペ洞窟﹂の裏側の壁面であり、二つの遺跡に関連性がないということは考えにくい。 現在、戦前のフゴッペの壁画の現存しない。戦前のフゴッペ壁画が金田一京助によってニセモノであると否定され、昭和天皇に尋ねられた際にも知人のアイヌの少年のイタズラであると伝えたという事件もあったためか、保存処置も行われず、朽ちるがままにされてしまったのである。
フゴッペ遺跡
﹁フゴッペ洞窟﹂ではなく﹁フゴッペ遺跡﹂と呼ばれる場合には、昭和2年に鉄道工事中に発見された古代文字様の壁画と石偶をあらわす場合があるので、混同しないよう注意が必要である。 戦前に発見されたフゴッペの遺跡は小樽新聞昭和2年11月14日によると、鉄道工事作業員の宮本氏によって発見された。鉄道敷設に際して、フゴッペの丸山を掘削して、二つの分けたのだが、その壁面に古代文字のような壁画と石偶のようなものが出現し、話題となった。違星北斗の論文は、この﹁古代文字﹂について論じたものである。この古代文字に関しては、小樽高商の西田彰三教授によって﹁この遺跡はアイヌのものである﹂と発表されたが、アイヌ出身である違星北斗による﹁この遺跡はアイヌのものではない﹂という反論が、同じく小樽新聞に掲載された﹁疑うべきフゴッペの遺跡﹂である。 小樽文学館の展示物によると、﹃小樽新聞﹄では発見は大正14年であるとなっているようだが、昭和2年の間違いであろうと思われる。戦前の﹃余市郷土誌﹄では農夫某が客土用の土を採取している際に発見となっているようだが、これも疑わしい。北斗の﹁フゴッペの遺跡﹂と国指定遺跡の﹁フゴッペ洞窟﹂は厳密にいえば異なるものであるが、北斗の論文には、遺跡の場所・函館本線からの距離・周囲の状況が明示されており、まさしく現在の﹁フゴッペ洞窟﹂の裏側の壁面であり、二つの遺跡に関連性がないということは考えにくい。 現在、戦前のフゴッペの壁画の現存しない。戦前のフゴッペ壁画が金田一京助によってニセモノであると否定され、昭和天皇に尋ねられた際にも知人のアイヌの少年のイタズラであると伝えたという事件もあったためか、保存処置も行われず、朽ちるがままにされてしまったのである。