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シュテッティン条約で公国は分割されたものの、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]]の男系が断絶した時にポンメルン州の継承期待権がスウェーデン側に認められている。これは公国の最終的な継承権がスウェーデンに渡ることを意味していたが、[[選帝侯]]家である[[ホーエンツォレルン家]]は断絶せず、[[大北方戦争]]後に公国の大半を占めるに至った。スウェーデンはこの戦争による敗北によって |
シュテッティン条約で公国は分割されたものの、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]]の男系が断絶した時にポンメルン州の継承期待権がスウェーデン側に認められている。これは公国の最終的な継承権がスウェーデンに渡ることを意味していたが<ref>伊藤、P111 - P114。</ref>、[[選帝侯]]家である[[ホーエンツォレルン家]]は断絶せず、[[大北方戦争]]後に公国の大半を占めるに至った。スウェーデンはこの戦争による敗北によって領土を失ったが、フォアポンメルンの北半分のみを維持し続けた。公国は長きに渡り分断された後、[[1814年]]の[[キール条約]]でブランデンブルク=プロイセンから発展した[[プロイセン王国]]によって統一され{{仮リンク|ポンメルン州 (1815年 - 1945年)|en|Province of Pomerania (1815–1945)|de|Provinz Pommern|label=ポンメルン州}}となったものの、公国として復活する事はなかった。称号としてホーエンツォレルン家による[[ドイツ皇帝]]の称号の一つとなり、[[ドイツ帝国]]が消滅する[[1918年]]まで用いられた。[[1919年]][[6月28日]]に調印された[[ヴェルサイユ条約]]で[[西プロイセン]]が[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]へ割譲され、[[ポーランド回廊]]と呼ばれることとなり、[[東プロイセン]]がドイツ本国から分断された。
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2015年3月5日 (木) 08:20時点における版
- ポメラニア公国
- Herzogtum Pommern
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← 1121年 - 1637年 →
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(国章)
ボギスラフ14世が治めたポメラニア公国-
首都 シュテッティン - ポメラニア公
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1121年 - 1135/36年 ヴァルティスラフ1世 1620年 - 1637年 ボギスラフ14世 - 変遷
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ヴァルティスラフ1世ポメラニア公に即位 1121年 ヴォルガストとシュテッティンに分立(ボギスラフ5世の下で再統合) 1295年-1478年 オーバーザクセン・クライスに参加 1512年 再びヴォルガストとシュテッティンに分立 1532年 ボギスラフ14世の死 1637年3月10日
ポメラニア公国︵ドイツ語: Herzogtum Pommern︶は、バルト海南岸のポメラニアにあった西スラヴ系の公国。
歴史
1109年、ポーランドの大公ボレスワフ3世曲唇公が﹁ポメラニア人﹂と呼ばれる異教のスラヴ系諸部族が支配していたポメラニア一帯︵リューゲン島のリューゲン公国を含む︶を平定。1121年ポメラニア人のグリフィン家︵ドイツ語でグライフェン家、ポーランド語でグリフ家︵グルィフ家︶と呼ばれる︶のヴァルティスラフ1世を自らの臣下として封じて公国が成立。 ボレスワフ3世曲唇公はポメラニア公国全体のキリスト教化を目指し神聖ローマ帝国皇帝ロタール3世に協力を依頼。バンベルクよりオットー司祭が招かれ、大公はポメラニア公国全体のキリスト教化に成功するものの、ローマ・カトリックのコスモポリタニズムの教義を忠実に守るポーランドは皇帝にポメラニア全体を献上し、ポーランドによるポメラニア支配は1138年に終了。その期間を通じてヴァルティスラフ1世は公国の政治的統一を進めた。 後には神聖ローマ帝国とデンマーク王国との間でポメラニアの支配権をめぐる抗争が勃発︵第1次分割 1155-1264︶。1219年にデンマークが公国の支配権を確立する。1227年には、旧リューゲン公国領を巡ってデンマークと東方植民以降勢力を拡大しつつあったハンザ同盟のホルシュタイン伯︵de:Grafschaft Holstein︶との間でen:Battle of Bornhöved (1227)が勃発した。 1295年にen:Partitions of the Duchy of Pomeraniaで Pomerania-Demmin と Pomerania-Stettin に分割された︵第2次分割 1295-1368︶。第3次分割 ︵1368-1376︶。第4次分割 ︵1376/1377-1478︶。14世紀末にはポンメルンのエリクことエーリク7世︵ポメラニア公ヴァルティスラフ7世の子︶がノルウェー︵在位1389年 - 1442年︶、デンマーク︵在位1396年 - 1439年︶、スウェーデン︵在位1396年 - 1439年︶の国王に選出されている︵カルマル同盟︶。1464年にPomerania-Stettin領有権を巡って Pomerania-Wolgast と Brandenburgからのクレームでen:Brandenburg–Pomeranian conflictが起こり、en:Treaty of Prenzlau︵1472、1479︶で Pomerania-Wolgast に併合された。 第5次分割 ︵1531-1569︶。第6次分割 ︵1569-1625︶。三十年戦争︵1618年 - 1648年︶中の1637年3月10日に最後のポメラニア公ボギスラフ14世が亡くなり、1653年のシュテッティン条約でブランデンブルク=プロイセン領ポンメルン州とスウェーデン領ポメラニアに分割され消滅した[1]。ポメラニア公国は三十年戦争におけるスウェーデンの拠点であった。1630年にグスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍は公国の沿岸から上陸し、ここで神聖ローマ帝国政府への戦争宣告書が発せられた[2]。スウェーデン軍はポメラニアに駐屯し、1653年に国境線が画定されるまではスウェーデン軍の占領状態にあった[3]。消滅後の歴史
シュテッティン条約で公国は分割されたものの、ブランデンブルク選帝侯の男系が断絶した時にポンメルン州の継承期待権がスウェーデン側に認められている。これは公国の最終的な継承権がスウェーデンに渡ることを意味していたが[4]、選帝侯家であるホーエンツォレルン家は断絶せず、大北方戦争後に公国の大半を占めるに至った。スウェーデンはこの戦争による敗北によって領土を失ったが、フォアポンメルンの北半分のみを維持し続けた。公国は長きに渡り分断された後、1814年のキール条約でブランデンブルク=プロイセンから発展したプロイセン王国によって統一されポンメルン州となったものの、公国として復活する事はなかった。称号としてホーエンツォレルン家によるドイツ皇帝の称号の一つとなり、ドイツ帝国が消滅する1918年まで用いられた。1919年6月28日に調印されたヴェルサイユ条約で西プロイセンがポーランドへ割譲され、ポーランド回廊と呼ばれることとなり、東プロイセンがドイツ本国から分断された。脚注
参考文献
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- 菊池良生『戦うハプスブルク家 近代の序章としての三十年戦争』(講談社現代新書、1995年) ISBN 4-06-149282-9
- 伊藤宏二『ヴェストファーレン条約と神聖ローマ帝国 ドイツ諸侯としてのスウェーデン』(九州大学出版会、2005年) ISBN 4-87378-891-9