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=== 教職員時代 ===

=== 教職員時代 ===

大学卒業後は、学資支援等を受けていた下村辰右衛門の長女菊千代と結婚し養子に入る。このころから'''下村 虎人'''(しもむら こじん)の[[筆名]]を使い始めた。佐賀中学校教師・唐津中学校教頭・鹿島中学校校長・唐津中学校校長を務め、さらに同郷の[[田澤義鋪]]の勧めで台中第一中学校校長・[[台北高等学校 (旧制)|台北高等学校]]校長を歴任した後、1931年(昭和6年)に教職を辞す。1933年(昭和8年)から4年間にわたって田澤が主宰していた[[日本青年館]]別館「浴恩館」に設置された大日本青年団講習所の所長となっている。

大学卒業後は、学資支援等を受けていた[[下村辰右衛門]]の長女菊千代と結婚し養子に入る。このころから'''下村 虎人'''(しもむら こじん)の[[筆名]]を使い始めた。佐賀中学校教師・唐津中学校教頭・鹿島中学校校長・唐津中学校校長を務め、さらに同郷の[[田澤義鋪]]の勧めで台中第一中学校校長・[[台北高等学校 (旧制)|台北高等学校]]校長を歴任した後、1931年(昭和6年)に教職を辞す。1933年(昭和8年)から4年間にわたって田澤が主宰していた[[日本青年館]]別館「浴恩館」に設置された大日本青年団講習所の所長となっている。



=== 文筆・講演活動時代 ===

=== 文筆・講演活動時代 ===


2021年5月14日 (金) 13:52時点における版

下村 湖人しもむら こじん
ペンネーム 内田 夕闇
誕生 内田 虎六郎
1884年10月3日
佐賀県神埼郡千歳村
死没 (1955-04-20) 1955年4月20日(70歳没)
東京都新宿区百人町
職業 小説家社会教育家
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京帝国大学英文科卒業
代表作次郎物語
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  188417103 - 195530420  

鹿


4  稿


  使鹿19316193384


19327 193611

193813194722NHK1942194823195328

195429稿1955420112宿70[1]2

著作

学生時代の内田虎六郎
内田夕闇
『冬靑葉』歌集  新政社、1933年
下村虎六郎 / 下村虎人
『人生を語る』 泰文館、1933年
『敎育的反省』 泰文館、1934年
『凡人道』 日本靑年館、1934年
『眞理に生きる』 泰文館、1935年
『魂は歩む』 泰文館、1936年
下村湖人
『人閒生活の意義』 佐藤新興生活館、1937年
『論語物語』 大日本雄辨會講談社、1938年
  のち角川文庫・ポプラ社・旺文社文庫・講談社学術文庫ほか
『自己表現と奉仕』 泰文館、1940年
『塾風教育と協同生活訓練』 三友社、1940年
『修道夜話』 泰文館、1941年
佐藤信淵』 大日本雄辨會講談社、1942年 のち偉人傳文庫
『靑少年のために』 小山書店、1943年
『心窗記』 開隆堂出版、1943年
『煙仲間』 偕成社、1943年
『若き建設者』 第一書房、1943年
『我等の誓願』 小山書店、1944年
『教育の新理念と農村文化』 日光書院・日本建設新書、1947年
『次郎物語』第一部〜第四部  小山書店、1947–49年
  のち角川文庫・新潮文庫旺文社文庫ポプラ社文庫偕成社文庫岩波文庫
『眼ざめ行く子ら』 海住書店、1951年
『少年のための次郎物語』 学童社(1・2)、1951–52年
『人生随想  心窓去来』 高風館、1951年
『現代訳 論語』 池田書店、1954年
  のち角川文庫、PHP研究所(選書)
『青年の思索のために』 新潮文庫、1955年、のちPHP研究所(選書)、まどか出版
『隣人』 池田書店「全集 4」、国土社「全集 9」  
下村湖人全集」全18巻 池田書店、1955–57年
下村湖人全集」全10巻・新版 池田書店、1965年
『この人を見よ - 田澤義鋪の生涯』 同顕彰会、1966年
下村湖人全集」全10巻  国土社、1975–76年
『下村湖人全短歌集成』 吉川出善編、池田書店、2004年

脚注



(一)^ 1997172


  - 

 - 





  -宿

1970)

19871, ISBN 9784326930852.