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旧[[高田藩]]士中村九朗の三男として生まれる。初め[[末岡精一]]に師事し[[国法学]]を研究したが、実兄である国際法学者前田盛江が夭逝すると、[[ドイツ]]・[[イギリス]]・[[フランス]]各国に留学して、国際法、外交史等の研究に転じた<ref>大平善梧[http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/5154/1/ronso0040601000.pdf ﹁名誉教授中村進午博士逝く﹂]</ref>。
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旧[[高田藩]]士中村九朗の三男として生まれる。初め[[末岡精一]]に師事し[[国法学]]を研究したが、実兄である国際法学者前田盛江が夭逝すると、[[ドイツ]]・[[イギリス]]・[[フランス]]各国に留学して、国際法、外交史等の研究に転じた<ref>大平善梧[http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/5154/1/ronso0040601000.pdf ﹁名誉教授中村進午博士逝く﹂]</ref>。
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[[拓殖大学]]・[[学習院]]の教授を歴任し、[[東京商科大学]]︵現[[一橋大学]]︶[[領事]]科主任教授等を経て、[[1930年]]に定年退官し、東京商科大学名誉教授の称号を受けた<ref>[https://kotobank.jp/word/中村+進午-1651317]20世紀日本人名事典</ref>。弟子はいなかったため、国際法講座の後任教授には、民法の[[岩田新]]門下で |
[[拓殖大学]]・[[学習院]]の教授を歴任し、[[東京商科大学]]︵現[[一橋大学]]︶[[領事]]科主任教授等を経て、[[1930年]]に定年退官し、東京商科大学名誉教授の称号を受けた<ref>[https://kotobank.jp/word/中村+進午-1651317]20世紀日本人名事典</ref>。弟子はいなかったため、国際法講座の後任教授には、民法の[[岩田新]]門下で[[グロチウス]]研究をしていた[[大平善梧]]を据えた<ref>[[皆川洸]][https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/2406/1/ronso0630200010.pdf ﹁大平善梧先生 : 人と学説﹂]一橋論叢</ref>。その後も死の前年まで引き続き東京商科大学の講師を務めるととともに、1939年に死去するまで[[早稲田大学]]法科の教授や拓殖大学学監も務めた<ref>[http://tksosa.dijtokyo.org/?page=collection_detail.php&p_id=726&lang=ja]</ref>。この他[[海軍大学校]]、[[海軍経理学校]]、[[日本大学]]、[[慶應義塾大学]]、[[中央大学]]、[[明治大学]]、[[法政大学]]、[[上智大学]]、[[日本女子大学]]等でも教鞭を執った。
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外交史、国際法に関する著書も多い。日露開戦の直前、他の六人の博士とともに政府の対[[ロシア帝国|ロシア]]外交を非難して、[[日露戦争]]の開戦を主張したことで知られる︵[[七博士建白事件]]︶。この事件で学習院辞職後、[[千葉県]][[一宮町]]老女子に所有した別荘に閑居した。
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外交史、国際法に関する著書も多い。日露開戦の直前、他の六人の博士とともに政府の対[[ロシア帝国|ロシア]]外交を非難して、[[日露戦争]]の開戦を主張したことで知られる︵[[七博士建白事件]]︶。この事件で学習院辞職後、[[千葉県]][[一宮町]]老女子に所有した別荘に閑居した。
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2017年12月31日 (日) 03:34時点における版
中村 進午︵なかむら しんご、明治3年7月21日︵1870年8月17日︶ - 昭和14年︵1939年︶10月21日︶は、新潟県出身の国際法学者。東京商科大学︵現一橋大学︶名誉教授。
略歴
旧高田藩士中村九朗の三男として生まれる。初め末岡精一に師事し国法学を研究したが、実兄である国際法学者前田盛江が夭逝すると、ドイツ・イギリス・フランス各国に留学して、国際法、外交史等の研究に転じた[1]。 拓殖大学・学習院の教授を歴任し、東京商科大学︵現一橋大学︶領事科主任教授等を経て、1930年に定年退官し、東京商科大学名誉教授の称号を受けた[2]。弟子はいなかったため、国際法講座の後任教授には、民法の岩田新門下でグロチウス研究をしていた大平善梧を据えた[3]。その後も死の前年まで引き続き東京商科大学の講師を務めるととともに、1939年に死去するまで早稲田大学法科の教授や拓殖大学学監も務めた[4]。この他海軍大学校、海軍経理学校、日本大学、慶應義塾大学、中央大学、明治大学、法政大学、上智大学、日本女子大学等でも教鞭を執った。 外交史、国際法に関する著書も多い。日露開戦の直前、他の六人の博士とともに政府の対ロシア外交を非難して、日露戦争の開戦を主張したことで知られる︵七博士建白事件︶。この事件で学習院辞職後、千葉県一宮町老女子に所有した別荘に閑居した。 酒好きが高じて信州旅行中持病の胃潰瘍で倒れ、代々木三谷の自宅で療養していたが、昭和14年︵1939年︶10月、70歳で亡くなった。墓所は雑司ヶ谷霊園。経歴
●高田中学校卒業 ●明治24年︵1891年︶第一高等中学校卒業 ●明治27年︵1894年︶ 東京帝国大学法科大学首席卒業、大学院入学 ●明治29年︵1896年︶ 東京高等商業学校︵現一橋大学︶法律科講師 ●明治30年︵1897年︶ 学習院教授 ●明治34年︵1901年︶ 法学博士 ●明治35年︵1902年︶ 東京高等商業学校︵現一橋大学︶兼任教授 ●明治38年︵1905年︶ 学習院教授辞任 ●明治39年︵1906年︶ 東京高等商業学校教授 ●大正9年︵1920年︶ 東京商科大学︵現一橋大学︶教授 ●昭和4年︵1929年︶ 拓殖大学学監 ●昭和5年︵1930年︶東京商科大学定年退官、東京商科大学名誉教授[5] ●昭和13年︵1938年︶東京商科大学講師退職[6] ●昭和14年︵1939年︶胃潰瘍のため死去、享年70主な著書
●﹁講和類例﹂ ●﹁国際法公論﹂ ●﹁新条約論﹂ ●﹁マルテンス国際法︵上・下︶﹂関連項目
●日本の法学者一覧 ●戸水寛人・富井政章・小野塚喜平次・高橋作衛・金井延・寺尾亨 - 中村以外の﹁七博士﹂。
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- ^ 大平善梧「名誉教授中村進午博士逝く」
- ^ [1]20世紀日本人名事典
- ^ 皆川洸「大平善梧先生 : 人と学説」一橋論叢
- ^ [2]
- ^ [3]20世紀日本人名事典
- ^ 大平善梧「名誉教授中村進午博士逝く」