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SanukMasam (会話 | 投稿記録) →経歴: 戦時死亡宣告の詳細について。細井啓司 「井上白文地」『現代俳句大事典』 61頁 参照。 |
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俳句は高校時代にはじめ、「京鹿子」「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」「[[馬酔木 (雑誌)|馬酔木]]」に投句。[[京大三高俳句会]]を復興し「京大俳句」を[[平畑静塔]]らと創刊。時事的な句や評論を執筆。[[1940年]]2月、[[新興俳句弾圧事件|京大俳句事件]]の第一次検挙に連座したが、不起訴。しかしこの事件により、内定していた関西大学教授のポストが反故になった<ref>栗林浩 『京大俳句会と東大俳句会』57頁。</ref> 。[[1945年]]応召、[[朝鮮]]で[[赤軍|ソ連軍]][[捕虜]]となり、[[1946年]][[5月25日]]、[[延吉市]]の収容所から他地域へ送られて以降消息を絶つ<ref>下記外部リンクの句碑写真(裏面)より(『井上白文地遺集』の転載)</ref>。 |
俳句は高校時代にはじめ、「京鹿子」「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」「[[馬酔木 (雑誌)|馬酔木]]」に投句。[[京大三高俳句会]]を復興し「京大俳句」を[[平畑静塔]]らと創刊。時事的な句や評論を執筆。[[1940年]]2月、[[新興俳句弾圧事件|京大俳句事件]]の第一次検挙に連座したが、不起訴。しかしこの事件により、内定していた関西大学教授のポストが反故になった<ref>栗林浩 『京大俳句会と東大俳句会』57頁。</ref> 。[[1945年]]応召、[[朝鮮]]で[[赤軍|ソ連軍]][[捕虜]]となり、[[1946年]][[5月25日]]、[[延吉市]]の収容所から他地域へ送られて以降消息を絶つ<ref>下記外部リンクの句碑写真(裏面)より(『井上白文地遺集』の転載)</ref>。 |
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[[1981年]]、[[永田書房]]より﹃井上白文地遺集﹄刊。[[1982年]]、[[戦時死亡宣告]]が確定した<ref name="大事典"/>。[[2005年]]、ゆかりの寺である[[姫路市]][[飾磨|飾磨区]]の法華宗妙諦寺にて代表句﹁我︵わが︶講義軍靴の音にたゝかれたり﹂句碑が建てられている。
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[[1981年]]、[[永田書房]]より﹃井上白文地遺集﹄刊。[[1982年]]、遺体が見つからないまま、[[戦時死亡宣告]]が確定した<ref name="大事典"/>。[[2005年]]、ゆかりの寺である[[姫路市]][[飾磨|飾磨区]]の法華宗妙諦寺にて代表句﹁我︵わが︶講義軍靴の音にたゝかれたり﹂句碑が建てられている。
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2022年9月1日 (木) 23:39時点における版
井上 白文地︵いのうえ はくぶんじ、1904年2月24日 - 1946年5月行方不明︶は、福井県出身の俳人。
経歴
出生名・岸本久七。敦賀生まれ。1906年、報恩寺住職の養子となり、井上隆證︵りょうしょう︶と改称[1]。法華寺学林、第三高等学校を経て、1928年京都帝国大学文学部哲学科[2]を卒業。その後関西大学、立命館大学などで講師として教鞭を取る。 俳句は高校時代にはじめ、﹁京鹿子﹂﹁ホトトギス﹂﹁馬酔木﹂に投句。京大三高俳句会を復興し﹁京大俳句﹂を平畑静塔らと創刊。時事的な句や評論を執筆。1940年2月、京大俳句事件の第一次検挙に連座したが、不起訴。しかしこの事件により、内定していた関西大学教授のポストが反故になった[3] 。1945年応召、朝鮮でソ連軍捕虜となり、1946年5月25日、延吉市の収容所から他地域へ送られて以降消息を絶つ[4]。 1981年、永田書房より﹃井上白文地遺集﹄刊。1982年、遺体が見つからないまま、戦時死亡宣告が確定した[1]。2005年、ゆかりの寺である姫路市飾磨区の法華宗妙諦寺にて代表句﹁我︵わが︶講義軍靴の音にたゝかれたり﹂句碑が建てられている。脚注
参考文献
- 『現代俳句大事典』三省堂、2005年
- 栗林浩 『京大俳句会と東大俳句会』角川書店、2011年
外部リンク
- 井上白文地句碑 関西現代俳句協会