コンテンツにスキップ

「会沢正志斎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎生涯: 誤字修正
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
半畳亭 (会話 | 投稿記録)
m 誤字訂正、その他。
 
(21人の利用者による、間の25版が非表示)
1行目: 1行目:

{{No footnotes|date=2018年3月}}

{{No footnotes|date=2018年3月}}

[[File:Aizawa.jpg|thumb|会沢正志斎]]

[[File:Aizawa Seishisai Portrait Ibaraki Prefectural Museum of History.png|thumb|会沢正志斎]]


''' ''' [[]]2[[525 ()|525]][[1782]][[75]] - [[]]3[[714 ()|714]][[1863]][[827]][[]][[]][[]][[]][[]]

''' ''' [[]]2[[525 ()|525]][[1782]][[75]] - [[]]3[[714 ()|714]][[1863]][[827]][[]][[]][[]][[]][[]]


== 生涯 ==

== 生涯 ==

天明2年(1782年)、水戸藩士・[[会沢恭敬]]の長男として、水戸城下の下谷で生まれる。母は根本重政の娘。幼名は市五郎、または安吉。会沢家は代々[[久慈郡]]諸沢村([[常陸大宮市]]諸沢)の農家で、初代藩主・[[徳川頼房]]のとき餌差(鷹匠の配下、鷹の餌である小鳥を捕まえる職)となり、祖父の代に郡方勤めとなり、父・恭敬の代に[[士分]]となった。うんちもれたHeart


21782[[]]<ref> 52009 1</ref>[[]][[]][[]][[]]



[[]]3[[1791]]10[[]]818[[]]11[[1799]][[]][[]][[|]][[]][[]][[1801]]

[[]]3[[1791]]10[[]]<ref name=":0">{{Cite||author=|title=1|date=1983-10|pages=4|publisher=|ref=harv}}</ref>818[[]]11[[1799]][[]][[]]<ref name=":0" />[[|]][[]][[]][[1801]]



3[[1803]][[]]4[[1821]][[]]9[[|]]6[[1823]]7[[1824]][[]][[]][[]][[]]

3[[1803]][[]]4[[1821]][[]]9[[|]]<ref name=":0" />6[[1823]]7[[1824]][[]][[]][[]][[]]


文政9年([[1826年]])、幽谷の死去を受けて[[彰考館]]総裁代役に就任した。文政12年([[1829年]])、藩主・斉脩の後継問題で敬三郎(斉昭)を擁立する運動に参加し、[[山野辺義観]]、[[藤田東湖]]らとともに江戸へ出て奔走した。無断で江戸に出た罪で逼塞を命じられたが、30日ほどで許されて[[郡奉行]]となる。翌年通事、調役となり、また[[彰考館]]総裁となった。以後、斉昭から取り立てられ、[[藩政改革]]を補佐した。[[天保]]3年([[1832年]])、禄高150石。天保9年([[1838年]])、学校造営掛に任じられ、藩校の規模・教育内容を研究して『学制略説』などを著す。天保11年([[1840年]])には小姓頭となり、藩校の[[弘道館]]の初代教授頭取に任じられた。同時に役料200石が給され、計350石となる。弘道館は翌年開校され、水戸学発展に貢献した。


9[[1826]][[]]<ref name=":0" />12[[1829]][[]][[]]30[[]]調[[]]<ref name=":0" />[[]][[]]3[[1832]]1509[[1838]]11[[1840]][[]]<ref name=":0" />200350


[[弘化]]2年([[1845年]])、斉昭は[[江戸幕府]]から藩政改革の問題点を指摘されて隠居・謹慎を命じられると、正志斎も蟄居を命じられた。[[嘉永]]2年([[1849年]])に斉昭が復帰すると同時に赦免され、のちに弘道館教授に復帰した。[[安政]]2年(1855年)、将軍・[[徳川家定]]に謁見する。

[[弘化]]2年([[1845年]])、斉昭は[[江戸幕府]]から藩政改革の問題点を指摘されて隠居・謹慎を命じられると、正志斎も蟄居を命じられた。[[嘉永]]2年([[1849年]])に斉昭が復帰すると同時に赦免され、のちに弘道館教授に復帰した。[[安政]]2年(1855年)、将軍・[[徳川家定]]に謁見する。

16行目: 16行目:

安政5年([[1858年]])、幕府の[[日米修好通商条約]]締結に関して、朝廷から水戸藩に[[戊午の密勅]]が下ると、会沢は密勅を水戸藩から諸藩へ回送することに反対して、勅諚の朝廷への返納を主張し、藩内の尊王攘夷鎮派の領袖として尊皇攘夷激派と対立する。斉昭が[[安政の大獄]]で永蟄居処分となると藩内はさらに混迷し、正志斎はその収拾に努めた。文久2年([[1862年]])には一橋慶喜([[徳川慶喜]])に対して、[[開国]]論を説いた『時務策』を提出する。このため、激派からは「老耄」と批判された。同年、馬廻頭上座を務める<ref>{{Cite |和書|others=[[山本博文]]監修|title=江戸時代人物控1000|date=2007|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-626607-6|page=7}}</ref>。

安政5年([[1858年]])、幕府の[[日米修好通商条約]]締結に関して、朝廷から水戸藩に[[戊午の密勅]]が下ると、会沢は密勅を水戸藩から諸藩へ回送することに反対して、勅諚の朝廷への返納を主張し、藩内の尊王攘夷鎮派の領袖として尊皇攘夷激派と対立する。斉昭が[[安政の大獄]]で永蟄居処分となると藩内はさらに混迷し、正志斎はその収拾に努めた。文久2年([[1862年]])には一橋慶喜([[徳川慶喜]])に対して、[[開国]]論を説いた『時務策』を提出する。このため、激派からは「老耄」と批判された。同年、馬廻頭上座を務める<ref>{{Cite |和書|others=[[山本博文]]監修|title=江戸時代人物控1000|date=2007|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-626607-6|page=7}}</ref>。




3186382[[]][[]]

3186382[[]][[]]<ref>{{Cite web||url=https://www.city.mito.lg.jp/001373/001374/0/shiteibunkazai/siteibunkazai/aizawaseisisainohaka.html|title=|accessdate=2021-04-04|publisher=}}</ref>


== 評価 ==

正志斎は『新論』において尊王攘夷論を唱えた人物として知られるが、後年『時務策』を著しており開国を全面的には否定しなかった。『新論』は幕府に遠慮して出版はされず、無名氏の執筆として写され、多くの人々に読まれた。[[長州藩]]の[[吉田松陰]]や[[久留米藩]]の[[真木保臣]]が水戸を訪れ、正志斎に面会している。特に吉田の『東北遊日記』には、「会沢を訪ふこと数次、率ね酒を設く。…会々談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記されている。

正志斎は『新論』において尊王攘夷論を唱えた人物として知られるが、同時代の多くの知識人は『新論』に含まれる神話的な国体論に関心を示さず、思想書というよりも海防論の書として評価した<ref name="Kirihara">桐原健真「会沢正志斎『新論』」『日本の思想 第三巻:内と外』 <岩波講座> 岩波書店 2014年 ISBN 978-4-00-011313-7 pp.262-273.</ref>。[[長州藩]]の[[吉田松陰]]も当初はその一人だったが、嘉永4年(1851年)の水戸来訪の際には正志斎に6度に渡り面会し、以後「日本」の自覚を主張するようになった<ref name="Kirihara"/>。




幕末期になり、尊皇攘夷論が盛んになると『新論』は多くの志士たちに読まれるようになるが、正志斎の思想をそのまま受容することは無く、「国体」や「祭政一致」といった言葉や部分だけを換骨奪胎する形で受け入れられた<ref name="Kirihara"/>。水戸学の中での正志斎の評価が高まらなかった理由として、戦前の水戸学研究では、光圀と斉昭・東湖を水戸学の2つのピークとする認識が一般的だったことと、最晩年に著した『時務策』の中で「今時外国と通好は已むことを得ざる勢なるべし」と述べたことが、変節・[[転向]]と受け取られたことが後々まで影響したことが挙げられる<ref name="Kirihara"/>。



== 著書 ==

== 著書 ==

*『千島異聞』(1801年・寛政13年)

*『千島異聞』(1801年・寛政13年)

*『夷問答』(1824年・文政7年)

*『夷問答』(1824年・文政7年)

*『[[新論]]』(1825年・文政8年)[http://kindai.ndl.go.jp/ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]より閲覧可能。

*『[[新論]]』(1825年・文政8年)[http://kindai.ndl.go.jp/ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]閲覧可能。

*『迪彝篇』(1833年・天保4年)

*『迪彝篇』(1833年・天保4年)[http://kindai.ndl.go.jp/ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]で閲覧可能。

*『退食間話』(1842年・天保13年)

*『退食間話』(1842年・天保13年)

*『下学邇言』(1847年・弘化4年)

*『下学邇言』(1847年・弘化4年)

*『及門遺範』(1850年・嘉永3年)[http://kindai.ndl.go.jp/ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]より閲覧可能。

*『及門遺範』(1850年・嘉永3年)[http://kindai.ndl.go.jp/ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]閲覧可能。

*『時務策』(1862年・文久2年)

*『時務策』(1862年・文久2年)



== 全集 ==

== 全集 ==

* [[名越時正]] 編『会沢正志斎文稿』([[国書刊行会]]、平成14年9月) ISBN 4-336-04457-0

*『会沢正志斎文稿』([[名越時正]] 編、[[国書刊行会]]、平成14年(2002年)9月) ISBN 4-336-04457-0



== 関連書籍 ==

=== 関連文献 ===

大阪大学会沢正志斎書簡研究会 編『会沢正志斎書簡集』(思文閣出版、2016年03) ISBN 978-4-7842-1828-8

*『会沢正志斎書簡集』 大阪大学会沢正志斎書簡研究会 編、[[思文閣出版]]、2016年3。{{ISBN2|978-4-7842-1828-8}}

*『新論・迪彜篇』塚本勝義訳注、[[岩波文庫]]、1941年、復刊1970年ほか。新版解説[[尾藤正英]]

*『[[日本思想大系]] 53 水戸学』<ref>会沢正志斎は「新論」「退食間話」「人臣去就説」「時務策」</ref>[[今井宇三郎]]・[[瀬谷義彦]]・[[尾藤正英]] 校注、[[岩波書店]]、1973年

*『新論』関口直佑全訳注、[[講談社学術文庫]]、2023年12月。{{ISBN2|978-4065341971}}


== 脚注 ==

{{Reflist}}



== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

45行目: 55行目:

== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

* [http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/seishisai.htm 会沢正志斎]

* [http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/seishisai.htm 会沢正志斎]

* [https://www.webcitation.org/67a4dsQOn?url=http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/mito5.htm 水戸 会沢正志斎]

* [https://webcitation.org/67a4dsQOn?url=http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/mito5.htm 水戸 会沢正志斎]

* [http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/jinmei/Aizawa.html 京都大学附属図書館 維新資料画像データベース]

* [http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/jinmei/Aizawa.html 京都大学附属図書館 維新資料画像データベース]




== 脚注 ==

{{Reflist}}



{{Normdaten}}

{{Normdaten}}

{{DEFAULTSORT:あいさわ せいしさい}}

{{DEFAULTSORT:あいさわ せいしさい}}

[[Category:18世紀日本のノンフィクション作家]]

[[Category:19世紀日本のノンフィクション作家]]

[[Category:18世紀日本学者]]

[[Category:19世紀日本の儒学者]]

[[category:江戸時代の儒学者]]

[[category:江戸時代の儒学者]]

[[Category:反キリスト主義]]

[[Category:経世論の人物]]

[[Category:経世論の人物]]

[[Category:19世紀の学者]]

[[Category:水戸学の人物]]

[[Category:水戸学の人物]]

[[category:幕末水戸藩の人物]]

[[category:幕末水戸藩の人物]]


2024年1月6日 (土) 01:13時点における最新版

会沢正志斎

  2525178275 - 37141863827

[]


21782[1]

3179110[2]818111799[2]1801

31803418219[2]6182371824

91826[2]12182930調[2]3183215091838111840[2]200350

218452184921855

5185821862[3]

3186382[4]

[]


[5]418516[5]

[5]2[5]

[]


180113

18247

18258

18334

退184213

18474

18503

18622

[]


稿 1420029 ISBN 4-336-04457-0

[]


  20163ISBN 978-4-7842-1828-8

19411970

53[6] 1973

202312ISBN 978-4065341971

[]



(一)^  52009 1

(二)^ abcdef11983104 

(三)^ 20077ISBN 978-4-09-626607-6 

(四)^ .  . 202144

(五)^ abcd  <>  2014 ISBN 978-4-00-011313-7 pp.262-273.

(六)^ 退

関連項目[編集]

関連作品[編集]

外部リンク[編集]