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[[寛政]]3年︵[[1791年]]︶、10歳にて[[藤田幽谷]]の私塾︵のちの青藍舎︶へ入門し、﹁沈深にして卓識あり﹂と評された<ref name=":0">{{Cite|和書|author=日本古典文学大辞典編集員会|title=日本古典文学大辞典第1巻|date=1983-10|pages=4|publisher=岩波書店|ref=harv}}</ref>。師となった幽谷は正志斎の8歳年上でいまだ18歳ではあるが、すでにその突出した学識で士分に取り立てられて名声があり、観念的な学問より実社会に役立つ[[実学]]を奨励した。後に正志斎は幽谷の教育内容を﹃及門遺範﹄にまとめている。寛政11年︵[[1799年]]︶、﹃[[大日本史]]﹄の修史局の[[彰考館]]に入り、書写生となる<ref name=":0" />。また、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[アダム・ラクスマン]]が根室に来航すると、幽谷はロシアの南下政策に関心を寄せ、正志斎もロシアの国情、国際関係を入手できる書物からまとめて、[[享和]]元年︵[[1801年]]︶に﹃千島異聞﹄を著す。
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[[寛政]]3年︵[[1791年]]︶、10歳にて[[藤田幽谷]]の私塾︵のちの青藍舎︶へ入門し、﹁沈深にして卓識あり﹂と評された<ref name=":0">{{Cite|和書|author=日本古典文学大辞典編集員会|title=日本古典文学大辞典第1巻|date=1983-10|pages=4|publisher=岩波書店|ref=harv}}</ref>。師となった幽谷は正志斎の8歳年上でいまだ18歳ではあるが、すでにその突出した学識で士分に取り立てられて名声があり、観念的な学問より実社会に役立つ[[実学]]を奨励した。後に正志斎は幽谷の教育内容を﹃及門遺範﹄にまとめている。寛政11年︵[[1799年]]︶、﹃[[大日本史]]﹄の修史局の[[彰考館]]に入り、書写生となる<ref name=":0" />。また、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[アダム・ラクスマン]]が根室に来航すると、幽谷はロシアの南下政策に関心を寄せ、正志斎もロシアの国情、国際関係を入手できる書物からまとめて、[[享和]]元年︵[[1801年]]︶に﹃千島異聞﹄を著す。
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享和3年︵[[1803年]]︶、格式留守列となり、江戸彰考館勤務となる。[[文政]]4年︵[[1821年]]︶には藩主・[[徳川治紀]]の諸公子の侍読︵教育係︶を命じられ、その中に後の9代藩主・[[徳川斉昭|斉昭]]もいた<ref name=":0" />。文政6年︵[[1823年]]︶、進物番上座となる。文政7年︵[[1824年]]︶、水戸藩領大津村に食料を求めて上陸した[[イギリス]]の[[捕鯨]]船員と会見した。その会見の様子を記した |
享和3年︵[[1803年]]︶、格式留守列となり、江戸彰考館勤務となる。[[文政]]4年︵[[1821年]]︶には藩主・[[徳川治紀]]の諸公子の侍読︵教育係︶を命じられ、その中に後の9代藩主・[[徳川斉昭|斉昭]]もいた<ref name=":0" />。文政6年︵[[1823年]]︶、進物番上座となる。文政7年︵[[1824年]]︶、水戸藩領大津村に食料を求めて上陸した[[イギリス]]の[[捕鯨]]船員と会見した。その会見の様子を記した諳夷問答﹄を著し、翌年に対策についての考察、いわゆる[[尊王攘夷]]論について体系的にまとめた﹃新論﹄を著して藩主・[[徳川斉脩]]に上呈したが、内容が過激であるという理由で公には出版されなかった。
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文政9年([[1826年]])、幽谷の死去を受けて[[彰考館]]総裁代役に就任した<ref name=":0" />。文政12年([[1829年]])、藩主・斉脩の後継問題で敬三郎(斉昭)を擁立する運動に参加し、[[山野辺義観]]、[[藤田東湖]]らとともに江戸へ出て奔走した。無断で江戸に出た罪で逼塞を命じられたが、30日ほどで許されて[[郡奉行]]となる。翌年通事、調役となり、また[[彰考館]]総裁となった<ref name=":0" />。以後、斉昭から取り立てられ、[[藩政改革]]を補佐した。[[天保]]3年([[1832年]])、禄高150石。天保9年([[1838年]])、学校造営掛に任じられ、藩校の規模・教育内容を研究して『学制略説』などを著す。天保11年([[1840年]])には小姓頭となり、藩校の[[弘道館]]の初代教授頭取に任じられた<ref name=":0" />。同時に役料200石が給され、計350石となる。弘道館は翌年開校され、水戸学発展に貢献した。 |
文政9年([[1826年]])、幽谷の死去を受けて[[彰考館]]総裁代役に就任した<ref name=":0" />。文政12年([[1829年]])、藩主・斉脩の後継問題で敬三郎(斉昭)を擁立する運動に参加し、[[山野辺義観]]、[[藤田東湖]]らとともに江戸へ出て奔走した。無断で江戸に出た罪で逼塞を命じられたが、30日ほどで許されて[[郡奉行]]となる。翌年通事、調役となり、また[[彰考館]]総裁となった<ref name=":0" />。以後、斉昭から取り立てられ、[[藩政改革]]を補佐した。[[天保]]3年([[1832年]])、禄高150石。天保9年([[1838年]])、学校造営掛に任じられ、藩校の規模・教育内容を研究して『学制略説』などを著す。天保11年([[1840年]])には小姓頭となり、藩校の[[弘道館]]の初代教授頭取に任じられた<ref name=":0" />。同時に役料200石が給され、計350石となる。弘道館は翌年開校され、水戸学発展に貢献した。 |
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== 著書 == |
== 著書 == |
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*『千島異聞』(1801年・寛政13年) |
*『千島異聞』(1801年・寛政13年) |
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*『 |
*『諳夷問答』(1824年・文政7年) |
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*『[[新論]]』(1825年・文政8年)[http://kindai.ndl.go.jp/ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー] |
*『[[新論]]』(1825年・文政8年)[http://kindai.ndl.go.jp/ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]で閲覧可能。 |
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*『迪彝篇』(1833年・天保4年) |
*『迪彝篇』(1833年・天保4年)[http://kindai.ndl.go.jp/ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]で閲覧可能。 |
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*『退食間話』(1842年・天保13年) |
*『退食間話』(1842年・天保13年) |
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*『下学邇言』(1847年・弘化4年) |
*『下学邇言』(1847年・弘化4年) |
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*『及門遺範』(1850年・嘉永3年)[http://kindai.ndl.go.jp/ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー] |
*『及門遺範』(1850年・嘉永3年)[http://kindai.ndl.go.jp/ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]で閲覧可能。 |
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*『時務策』(1862年・文久2年) |
*『時務策』(1862年・文久2年) |
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=== 関連文献 === |
=== 関連文献 === |
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*『会沢正志斎書簡集』 大阪大学会沢正志斎書簡研究会 編、[[思文閣出版]]、2016年3月。 |
*『会沢正志斎書簡集』 大阪大学会沢正志斎書簡研究会 編、[[思文閣出版]]、2016年3月。{{ISBN2|978-4-7842-1828-8}} |
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*『新論・迪彜篇』塚本勝義訳注、[[岩波文庫]]、1941年、復刊1970年ほか。新版解説尾藤正英 |
*『新論・迪彜篇』塚本勝義訳注、[[岩波文庫]]、1941年、復刊1970年ほか。新版解説[[尾藤正英]] |
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*『[[日本思想大系]] 53 水戸学』<ref>会沢正志斎は「新論」「退食間話」「人臣去就説」「時務策」</ref>[[今井宇三郎]]・[[瀬谷義彦]]・[[尾藤正英]] 校注、[[岩波書店]]、1973年 |
*『[[日本思想大系]] 53 水戸学』<ref>会沢正志斎は「新論」「退食間話」「人臣去就説」「時務策」</ref>[[今井宇三郎]]・[[瀬谷義彦]]・[[尾藤正英]] 校注、[[岩波書店]]、1973年 |
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*『新論』関口直佑全訳注、[[講談社学術文庫]]、2023年12月。{{ISBN2|978-4065341971}} |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2024年1月6日 (土) 01:13時点における最新版
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