「佐藤博 (ミュージシャン)」の版間の差分
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佐藤博は[[はっぴいえんど]]~[[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]]系統のキーボード・プレイヤーとして著名である{{要出典}}。 |
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*当初はギターの弾き語りをしていたが、東京ユニオンの藤尾正重(p)氏のアドバイスにより、二十歳より独習でピアノを始める。二年間の独習の後、1970年頃より、大阪にてジャズコンボ系のバンドのピアニストとしてプロ・ミュージシャンとしての活動を開始する。
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*1972年頃より京都にて、ウエストロード・ブルーズバンドや[[上田正樹]]といったブルース系のミュージシャンや、オリジナル・ザ・ディラン、[[大塚まさじ]]、[[加川良]]といったフォーク系のミュージシャンの演奏に参加する。 |
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*加川良のバッキングで[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]と知り合い上京する。以降、[[ハックル・バック]]結成~[[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]]への参加といった活動と平行して、1976年よりソロ・アルバムを発表する。 |
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*いわゆる同世代の[[シンガー・ソングライター]]と同様、[[エルヴィス・プレスリー]]や[[レイ・チャールズ]]、[[ビートルズ]]に影響され音楽を始めたものの、前述の通り、ブルースを下敷きにしている部分が他の同世代ミュージシャンより大きいのも特徴である。 |
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*ピアノ奏者としても超一流なのは勿論の事、日本を代表するニューオリンズ・ピアノ奏者であり、彼の鍵盤演奏は初期の[[山下達郎]]作品や[[大滝詠一]]の「ナイアガラ・ムーン」、[[細野晴臣]]の「トロピカル・ダンディー」、「泰安洋行」、「はらいそ」といったトロピカル三部作、[[吉田美奈子]]の初期作品でひときわその輝きを放っている。 |
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*帰国後の1980年代以降は、非常に多くのCM音楽やテレビ番組のテーマ曲を発表しており、それらCM音楽にも定評がある。 |
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*その為、それら提供曲も多数収録されたベスト・アルバム「記憶の中の未来(1988年12月)」には、TVグラフィティというサブ・タイトルが付けられているほどである。 |
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*音楽制作に関しての特徴として、氏は基本的に一人多重録音というスタイルを取っている。 |
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*国内でも、いち早くシンセサイザーやリズムマシン、シーケンサーやコンピューターといった最新の機器を表現の道具として駆使したミュージシャンとして知られている。 |
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*しかし、氏が他の音楽家と一線を画する点は、「コンピューター」を自分がイメージしたサウンドを具現化する為の「道具」として捉えている事である。 |
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*つまり、その作品には「機械任せ」や「他人任せ」といった、いわば「おまかせ」の要素が一切ないのが特長でもある。 |
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プロ・ミュージシャンとしてのキャリアの出発点は大阪・京都で、当初はギターの弾き語りをしていたが、東京ユニオンの藤尾正重(p)氏のアドバイスにより、二十歳より独習でピアノを始める{{要出典}}。二年間の独習の後、1970年頃より、大阪にてジャズコンボ系のバンドのピアニストとしてプロ・ミュージシャンとしての活動を開始する{{要出典}}。1972年頃より京都にて、ウエストロード・ブルーズバンドや[[上田正樹]]といったブルース系のミュージシャンや、オリジナル・ザ・ディラン、[[大塚まさじ]]、[[加川良]]といったフォーク系のミュージシャンの演奏に参加。加川良のバッキングで[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]と知り合い上京する。以降、[[ハックル・バック]]結成~[[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]]への参加といった活動と平行して、1976年よりソロ・アルバムを発表。いわゆる同世代の[[シンガー・ソングライター]]と同様、[[エルヴィス・プレスリー]]や[[レイ・チャールズ]]、[[ビートルズ]]に影響され音楽を始めたものの、前述の通り、ブルースを下敷きにしている部分が他の同世代ミュージシャンより大きい{{要出典}}。ピアノ奏者としても超一流{{要出典}}なのは勿論の事、日本を代表するニューオリンズ・ピアノ奏者であり{{要出典}}、彼の鍵盤演奏は初期の[[山下達郎]]作品や[[大滝詠一]]の﹁ナイアガラ・ムーン﹂、[[細野晴臣]]の﹁トロピカル・ダンディー﹂、﹁泰安洋行﹂、﹁はらいそ﹂といったトロピカル三部作、[[吉田美奈子]]の初期作品でひときわその輝きを放っている{{要出典}}。
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[[細野晴臣]]より[[イエロー・マジック・オーケストラ]] (YMO) への参加を呼びかけられる{{要出典}}も、1979年に渡米。アメリカ滞在中に[[アルファ・レコード]]と契約し、1982年に帰国。3rdソロアルバムアルバム﹃awakening﹄を発表。以降国内に拠点を移して音楽活動を行う。帰国後の1980年代以降は、非常に多くのCM音楽やテレビ番組のテーマ曲を発表しており、それらCM音楽にも定評がある{{要出典}}。その為{{要出典}}、それら提供曲も多数収録されたベスト・アルバム﹁記憶の中の未来︵1988年12月︶﹂には、TVグラフィティというサブ・タイトルが付けられているほどである。
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*また、デジタル録音における音響のスタンダードを確立する為、その初期からレコーディングに際して、自らコンソールを駆使しているのも大きな特徴であるが、中でも、プライベートスタジオ『Studio SARA』ではトラック・ダウンを行えることは特筆するべき点である。 |
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音楽制作に関しての特徴として、氏は基本的に一人多重録音というスタイルを取っている。国内でも、いち早くシンセサイザーやリズムマシン、シーケンサーやコンピューターといった最新の機器を表現の道具として駆使したミュージシャンとして知られている{{要出典}}。しかし、氏が他の音楽家と一線を画する点は、「コンピューター」を自分がイメージしたサウンドを具現化する為の「道具」として捉えている事である{{要出典}}。つまり、その作品には「機械任せ」や「他人任せ」といった、いわば「おまかせ」の要素が一切ないのが特徴{{要出典}}でもある。 |
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⚫ | 佐藤は基本的にレコーディングにおいて、ミュージシャンを起用することは「気分転換」と位置づけている<ref>「FLY TO YOU 2000」のライナーノート参照</ref>。 |
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⚫ | [[村上秀一|村上"ポンタ"秀一]]氏によると「YOU'RE MY BABY」(Awakening)のドラムが彼が打ちこみで作ったものであると知って、衝撃を受けており、「こんな人間くさい打ちこみ作れる奴いない」語っている。 |
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==年表== |
==年表== |
2008年5月4日 (日) 14:38時点における版
佐藤 博 | |
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出生名 | 佐藤 博 |
生誕 | 1947年6月3日(77歳) |
出身地 | 日本・鹿児島県知覧町 |
職業 |
シンガーソングライター 作曲家 編曲家 プロデューサー |
担当楽器 |
キーボード ギター ドラムス他 |
活動期間 | 1970年~ |
レーベル | サラ・ミュージック |
事務所 | ヒップランドミュージックコーポレーション |
公式サイト | [1] |