ナット・キング・コール
ナット・キング・コール Nat King Cole | |
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基本情報 | |
出生名 | Nathaniel Adams Coles |
生誕 | 1919年3月17日 |
出身地 | アメリカ合衆国 アラバマ州モンゴメリー |
死没 | 1965年2月15日(45歳没) |
ジャンル | ジャズ |
職業 | 歌手、ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ |
活動期間 | 1930年代 - 1965年 |
レーベル | キャピトル・レコード |
ナット・キング・コール︵Nat King Cole、1919年3月17日 - 1965年2月15日︶[1]は、アメリカのジャズピアニスト・歌手。
本名はナサニエル・アダムズ・コールズ︵Nathaniel Adams Coles︶。﹁キング﹂は愛称[2]。
経歴[編集]
コールは、アラバマ州モンゴメリーで生まれた。父はバプテスト教会の牧師で[3]、母・ペリーナは教会のオルガン奏者だった。[2]コールは12歳まで母からオルガンを習った。 1930年代からピアニストとして活動。スウィング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストとしての業績を残した。1939年にピアノ、ギター、ベースのシンプルな編成からなる﹁ナット・キング・コール・トリオ﹂を結成し、 ビッグバンドの時代におけるコールの編成は革新的と観られ、トリオバンド流行の火付け役となった。 コールはピアニストとして高く評価されていたが、艶と暖かみのあるスモーキーな声も絶賛され歌手としても大活躍し、数多くのヒット曲を世に送った。1944年に歌手として﹁ストレイトン・アップ・アンド・フライ・ライト(Straighten Up and Fly Right)﹂を大きくヒットさせた[1]。 1948年3月28日、歌手のマリア・エリントンと結婚[4]。5子を儲ける。1950年代以降はジャズからポピュラー界に軸足を移し、テレビにも多く出演し広く大衆的な人気を得た。 1950年以降の歌唱では、﹁モナ・リザ(Mona Lisa)﹂﹁スターダスト﹂﹁ルート66﹂﹁トゥー・ヤング(Too Young)﹂﹁ホエン・アイ・フォール・イン・ラブ﹂﹁ネイチャー・ボーイ(Nature Boy)﹂などが知られる。﹁スマイル﹂は、もともと喜劇王チャールズ・"チャーリー"・チャップリンの映画﹃モダン・タイムス﹄のテーマ曲︵インストゥルメンタル︶であるが、コールのレコードのために歌詞が加えられたものである[4]。53年にはジャズとR&Bのミュージシャンが参加したコンサート﹁Cavalcade of Jazz﹂が開催されたが、コールはロイ・ブラウン、ショーティ・ロジャーズ、アール・ボスティックやルイ・アームストロングらと共に出演した[5]。コールはポピュラー音楽界で人気者となったが、1956年には、正統派のジャズアルバム﹁アフター・ミッドナイト(After Midnight)﹂を発表し、ジャズのベイシックに戻った。58年にはアフリカ系アメリカ人として初めて、テレビのレギュラー・ホスト番組﹃ザ・ナット・キング・コール・ショー﹄をNBC系列で放送し始めた[6]。またコールのマネージャーがヒスパニック系だったため、コールは58年にはキューバのハバナへ飛び、﹁コール・エスパニョール﹂というスペイン語アルバムを録音している。 1961年にシングル﹁レット・ゼア・ビー・ラヴ(Let There Be Love)﹂がイギリスでヒットした。 コールは1965年2月15日、カリフォルニア州サンタモニカの病院で肺癌のため45歳で死去した。1964年の﹁L-O-V-E﹂がコールの生前最後のヒット曲となった︵後述の通り6カ国語で歌われており、日本語版も録音されている︶[7]。人物[編集]
●コールはヘビースモーカーで、死因は肺癌だった[3]。 ●コールは、フリーメイソンのメンバーであった[8]。コールがカバーした﹁スマイル﹂のもとになる映画﹁モダン・タイムス﹂にチェスター・コンクリン︵フリーメイソン︶[9]が出演した。 ●ロックの殿堂にアーリー・インフルエンス︵初期の影響︶部門で殿堂入りしている。2000年に行われた授賞式でのプレゼンターはレイ・チャールズが務めた。 コールは2回の来日経験があり、そのうち1963年2月には東京・赤坂の高級キャバレー﹁ニューラテンクォーター﹂でライブショーを行い、TBSテレビで録画放送された。親族[編集]
●歌手のナタリー・コールは娘。1991年に父親の声をオーバーダビングさせたデュエット曲﹁アンフォゲッタブル﹂をヒットさせた[2]。 ●弟のアイク・コール(Ike Cole)、フレディ・コール(Freddy Cole)もジャズ・ピアニストや作曲家として活動した[2]。アイクは日本でも歌手として活動、ジェリー・ウォレスの﹁男の世界﹂をカバーしたり、日本語で歌唱した﹁マイ・ボーイ/夜のカレンダー﹂をリリースしたりするなどした。フレディの子、ライオネル・コール(Lionel Cole)もキーボード奏者、音楽プロデューサーとして活動している。ディスコグラフィ[編集]
- 「スターダスト」(1956年)
- 「ザ・クリスマス・ソング」
- 「パパ・ラブズ・マンボ」
- 「モナ・リサ」
- 「ルート66」
- 「トゥー・ヤング」
- 「プリテンド」
- 「キサス・キサス・キサス」
- 「ネイチャー・ボーイ」
- 「ラムブリング・ローズ」
- 「暑い夏をぶっとばせ」
- 「ブロッサム・フェル」
- 「センド・フォー・ミー」
- L-O-V-E(1964年)
脚注[編集]
(一)^ abBIOGRAPHY - ナット・キング・コール - UNIVERSAL MUSIC JAPAN
(二)^ abcdeナット・キング・コール|楽曲表現と個性発揮の見事な両立︻ジャズ・ヴォーカル・コレクション09︼ - サライ.jp︵2016/8/26︶
(三)^ ab﹃日本のナット・キング・コール白川﹄神奈川新聞社、2007年、89-90頁。ISBN 978-4876454112。
(四)^ abナット・キング・コール〜20世紀を代表する偉大なシンガーは、もともと“歌わないはずの”ピアニストだった〜 - TAP the POP︵2018年2月15日︶
(五)^ Reed, Tom. (1992). The Black music history of Los Angeles, its roots : 50 years in Black music : a classical pictorial history of Los Angeles Black music of the 20s, 30s, 40s, 50s and 60s : photographic essays that define the people, the artistry and their contributions to the wonderful world of entertainment (1st, limited ed.). Los Angeles: Black Accent on L.A. Press. ISBN 096329086X. OCLC 28801394.
(六)^ ヘイゼル・スコットとナット・キング・コール2021年1月15日閲覧 smithsonian.com. the first black performer to host nationally syndicated television show
(七)^
Masaharu Yoshioka (2014年10月6日). “○★ナット・キング・コールの日本語版﹁ラヴ(L-O-V-E)﹂”. Wax Poetics Japan. GruntStyle Co.,Ltd.. 2018年4月19日閲覧。
(八)^ 。Famous Masons
(九)^ “A few famous freemasons”. Grand Lodge of British Columbia and Yukon A.F. & A.M. 2014年10月31日閲覧。
(十)^ “ナット・キング・コールが日本語で歌ってくれた﹁L-O-V-E﹂をカヴァーして歌い継いだ美空ひばり”. TAP the POP (2020年1月8日). 2020年3月27日閲覧。