善光寺 (東京都港区)
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善光寺(東京都港区) | |
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所在地 | 東京都港区北青山3−5−17 |
位置 | 北緯35度39分59.40秒 東経139度42分44.45秒 / 北緯35.6665000度 東経139.7123472度座標: 北緯35度39分59.40秒 東経139度42分44.45秒 / 北緯35.6665000度 東経139.7123472度 |
山号 | 南命山 |
宗旨 | 浄土宗 |
本尊 | 一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏) |
創建年 | 1601年(慶長6年) |
開基 | 善光寺第百九世大蓮社光忍員誉智慶上人 |
正式名 | 南命山善光寺 |
別称 | 青山善光寺 |
法人番号 | 6010405001396 |
善光寺︵ぜんこうじ︶は東京都港区にある寺院。東京都に港区、文京区、北区にそれぞれ善光寺が3つあり、この記事では港区のものを述べる。
歴史
善光寺は浄土宗に属する寺院で、創立は1601年︵慶長6年︶と伝わる[1][2]。山号は南命山といい詳名は﹁南命山無量寿院善光寺﹂、本尊は一尺五寸の阿弥陀如来である[1][2][3]。この本尊は767年︵神護景雲元年︶、8月十五夜に法如尼という人物が当麻寺の紫雲庵で念仏を唱えている最中に信州善光寺の如来が現れ、その姿を写したものという[3]。 創立の当初は尼寺であり、かつては江戸谷中にあった[1][2][3]。善光寺第109世大蓮社光忍円誉智慶が徳川家康に請願して江戸谷中に7500坪の土地の寄進を受けて、伽藍を建立した[1][2]。谷中の旧地は玉林寺︵台東区谷中一丁目7-15に現存︶付近で、今では﹁善光寺坂﹂と坂の名にその名残をとどめている[2]。第4世誓誉智伝の時期、1648年︵慶安元年︶9月17日に徳川家光から朱印地︵高5石︶を拝領した[1]。 谷中の伽藍は、1703年︵元禄16年︶11月29日に小石川水戸邸を火元とする大火︵元禄地震による火事︶によって焼失した[1][2][3]。1705年︵宝永2年︶、光蓮社心誉知善が高5石の朱印地を徳川吉宗から賜り、現在の場所に間口75間、奥行100間の堂宇を新築して同年12月に至って移転した[1][2]。そのため、善光寺は心誉知善を中興開基とする[2]。 善光寺はもともと無本寺であったが、徳川幕府の時代には1740年︵元文5年︶から寛永寺の支配下に置かれていた[2]。幕末期の1862年︵文久2年︶12月5日、再度の火災に遭って全焼したため、その後は長きにわたって仮本堂であった[1][2]。 1915年︵大正4年︶9月に伽藍の再建に着手し、1920年︵大正9年︶5月に落成した[2]。1945年︵昭和20年︶5月25日、戦災によって焼失し、1974年︵昭和49年︶8月に本堂・庫裏・書院を再建した[1]。 善光寺はもともと葬儀に関係せず、墓地も存在していなかった[2]。墓地が設けられたのは明治期以後のことで、中御門経之、松木宗有、牧野晩香、中山能子︵勘解由小路光宙室︶などが葬られている[2]。﹃赤坂・青山その2﹄所載の﹁善光寺﹂の記述によれば、檀家数447、戒名数2,885、墓地480基、過去帳及び墓碑の最古は、1874年︵明治7年︶である[1]。境内
建造物
山門 本堂 善光寺は元々谷中︵上野︶にあったが、火災で焼失したため替地を命じられ1776年︵宝永6年︶に現在地へ移転[4]。信州善光寺と同様の真っ暗な須弥壇の下を歩いて鍵に触れる戒壇巡りがある[5]。1974年︵昭和49年︶8月に再建[1]。 鐘楼 子育て地蔵 庚申塔 塔の右側面に﹁延宝二年﹂と刻まれている。 高野長英記念碑 高野長英は蛮社の獄で投獄され、脱獄後寺近くの青山百人町の隠れ家で医業を営んでいたが1850年︵嘉永3年︶幕吏に襲われ自害した。このため高野長英を顕著するため勝海舟の撰文になる記念碑が造立された。現在の記念碑は太平洋戦争時の空襲により大部分がこわれたため、元の碑の一部を保存して1974年]︵昭和39年︶に再建されたものである[5][6]。 芭蕉の句碑 松尾芭蕉の俳句﹁山路来て何やなにやらゆかしすみれ草﹂が句碑とし造立されている[6]。 陸軍経理学校生徒隊慰霊碑 人力車発明記念碑 1873年︵明治6年︶造立[6][5]。山門
本堂
鐘楼
子育て地蔵
庚申塔
高野長英記念碑
芭蕉句碑
陸軍経理学校慰霊碑
文化財
年中行事
- 7月最終週日曜・月曜 謝恩納涼盆踊り大会
交通アクセス
- 東京メトロ表参道駅から徒歩2分
脚注
(一)^ abcdefghijk東京都港区教育委員会﹃赤坂・青山その2﹄東京都港区教育委員会、1978年、52-54頁。
(二)^ abcdefghijklm東京市赤坂区役所﹃赤坂区史﹄東京市赤坂区役所、1941年、779-781頁。
(三)^ abcd稲垣史生. “[考証江戸の面影(一)]”. 2018年2月12日閲覧。
(四)^ 平凡社地方資料センター (2002). 東京都の地名. 株式会社平凡社. pp. 409
(五)^ abc東京歴史教育委員会 (2005). 東京都の歴史散歩中山手. 株式会社山川出版社. pp. 216
(六)^ abc東京都港区教育委員会 (1969). 港区の文化財第5集赤坂・青山その1. 株東京都港区教育委員会. pp. 82-84