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2020年5月2日 (土) 07:38時点における版
安藤 幸 | |
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1951年のユーディ・メニューイン訪日公演時 | |
基本情報 | |
出生名 | 幸田 幸(こうだ こう) |
生誕 | 1878年12月6日[1] |
出身地 | 日本東京都 |
死没 | 1963年4月8日(84歳没)[1] |
学歴 |
東京音楽学校本科器楽部卒業 東京音楽学校研究科修了 ベルリン国立音楽学校 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ヴァイオリニスト |
担当楽器 | ヴァイオリン |
安藤 幸︵あんどう こう、1878年︵明治11年︶12月6日 - 1963年︵昭和38年︶4月8日︶は、日本における洋楽界揺籃期のヴァイオリニスト。
経歴
東京府下谷区︵現・東京都台東区︶生まれ。10歳の頃からヴァイオリンを習い、1896年東京音楽学校︵現東京芸術大学︶本科器楽部を卒業。同校研究科に進学。ルドルフ・ディットリヒ、姉の幸田延︵1895年にウィーン留学から帰国︶[2]、アウグスト・ユンケル︵1899年に来日︶らに学んだ[1]。音楽学校時代に仲の良かった同級生として作詞家の東くめ︵代表作に﹁お正月﹂﹁鳩ぽっぽ﹂など︶がいる。 東京音楽学校研究科修了後の1899年からドイツに留学し、ベルリン国立音楽学校でヨーゼフ・ヨアヒムらに学ぶ[3]。1902年3月16日にライプツィヒのグラッシ博物館でフーゴー・リーマンとともに出演した日本音楽実演 (Vorführung japanischer Musik) では、箏の演奏による﹁東獅子﹂、﹁六段﹂、﹁松竹梅﹂やヴァイオリンの演奏による五音音階の中国音楽と短調︵七音階︶の新日本民謡を披露した[2]。1903年帰国し、その年から1932年まで母校の教授、1943年まで講師を務める。1950年から東京芸術大学講師。1958年文化功労者[1]。 旧姓名は幸田 幸︵こうだ こう︶であったが、1905年に英文学者の安藤勝一郎と結婚して以降は安藤姓となった[3]。血縁
海軍軍人、探検家の郡司成忠、小説家の幸田露伴、日本史学者の幸田成友は兄。ヴァイオリニスト・ピアニストの幸田延は姉[1]。 芥川賞を受賞辞退した小説家、ドイツ文学者の高木卓 ︵本名・安藤煕︶は長男[4]。富士通社長等を務め、日本のコンピュータビジネスのパイオニアと称される安藤馨は次男[5]。また長女の淳子は丘浅次郎の四男と結婚した[6]。児童文学作家の高木あきこは孫。脚注
- ^ a b c d e コトバンク. 安藤 幸.
- ^ a b 平澤 2019.
- ^ a b コトバンク. 安藤幸.
- ^ “高木卓”. コトバンク. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2020年1月13日閲覧。
- ^ 日本のコンピュータパイオニア:安藤 馨
- ^ 続編その3:進化論普及の経緯と後日譚