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「定家仮名遣」の版間の差分

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''''''[[]][[]][[]][[]][[]][[|]][[]]使

'''定家仮名遣'''(ていかかなづかい)とは、[[仮名遣い]]の規範の一種。[[平安時代]]末から[[鎌倉時代]]初期にかけての[[公家]][[藤原定家]]がはじめたもので、明治に至るまで一定支持を得た。



== 概要 ==

== 概要 ==


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[[]][[1210]]沿[[]][[ ()|]][[]][[]]''''''[[]]

{{quotation|京極中納言〈定家卿〉、家集拾遺愚草の清書を祖父河内前司〈干時大炊助〉親行に誂申されける時、親行申て云、''' '''等の文字の聲かよひたる誤あるによりて、其字の見わきがたき事在之…|名文字遣・序文}}


[[]]


== 『下官集』以 ==


姿[[10]][[11]][[]][[]]

今日までの[[国語学]]・[[言語学]]の研究では、[[10世紀]]後半から[[12世紀]]にかけて、[[日本語]]に以下の[[音韻]]変化が発生したと推測されている。

*[[ア行]]「お」/o /の音が、[[ワ行]]「を」/wo/に変化


*語頭以外の[[ハ行]] /Φ/の音が、[[ワ行]]/w/の音に有声変化<!--

*[[ア行]]「お」{{ipa|o}}の音が、[[ワ行]]「を」{{ipa|wo}}の音に変化し合流

*ゐ/wi/ → い/i /

*語頭以外の[[ハ行]]{{ipa|ɸ}}の音が、ワ行{{ipa|w}}の音に有声変化([[ハ行転呼]]の項参照)

*ゑ/we/ → え/je/-->

*ワ行「ゑ」{{ipa|we}}の音が、ア行「え」{{ipa|e}}の音に変化合流しつつあった(ただしこの{{ipa|we}}と{{ipa|e}}の違いについては、定家自身はなんとか区別できていたという)

これにより鎌倉時代には、「を・お」「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」などに発音上の区別がなくなっており、どのことばにどの仮名を当てるのかということについて動揺が生じていた。その用例を規定したものが定家の定めた仮名遣いや行阿のした『名文字遣』であった。



[[13]]{{ipa|wi}}{{ipa|i}}[[ ()|]]


[[]]{{IPA|ko-ɸi}}{{IPA|ko-wi}}{{IPA|wi}}[[ ()|]][[]][[]]使


使[[]][[]]


== 『下官集』の仮名遣い ==

== 『下官集』の仮名遣い ==


60

[[]]



{{quotation|<small></small><small></small><small></small><small></small>}}

また当時同音となっていた「を」と「お」の仮名は、高音を「を」に、低音を「お」に当て、[[アクセント]]の高低によってこれを使い分けていたことも発見されている。低音・高音は『[[いろは歌]]』の「いろはにほへどちりぬる'''を'''」の「を」のアクセントと、「うゐの'''お'''くやま」の「お」のアクセントが、それぞれの基本となったと考えられているが、この方法による「を」と「お」の使い分けは、[[平安時代]]後半の11世紀末には成立していたと考えられる『[[色葉字類抄]]』にも見られる。定家はこの使い分けによって、平安時代の草子本をわかりやすく書本することに成功している。



この文の大意を要約すれば、以下のようである。

== 『假名文字遣』以 ==


使[[|]]使使沿



:

定家仮名遣はその後[[14世紀]]頃に起こった日本語のアクセントの変化により、「を」と「お」の区別が完全に混乱することになる。高低で区別していたのが、変化によって実際のアクセントが仮名遣いとは食い違うようになってしまったからである。これにより音韻とは無関係の慣例で以って定められた仮名遣いとなった。国文学者の[[橋本進吉]]は次のように評している。


{{quotation|(一)(前略)…假名遣は、單なる音を假名で書く場合のきまりでなく、語を假名で書く場合のきまりである。<br />

このなかで定家は、仮名遣いを定めることについては誰の考えにも拠らず、自分が全く新しく始めることだとしている。これは仮名遣いの例をあげたその最後にも、

この事は古來の假名遣書を見ても明白である。例へば定家假名遣といはれてゐる行阿の假名文字遣は「を」「お」以下の諸項を設けて、各項の中にその假名を用ゐるべき多くの語を列擧してをり、所謂歴史的假名遣の根元たる契沖の和字正濫抄も亦「い」「ゐ」「ひ」以下の諸項を擧げて、それぞれの假名を用ゐるべき諸語を列擧してゐる。楫取魚彦の古言梯にいたつては、多くの語を五十音順に擧げて、一々それに用ゐるべき假名を示して、假名遣辭書の體をなしてゐるが、辭書はいふまでもなく語を集めたもので、音をあつめたものではない(後略)|表音的假名遣は假名遣にあらず([[橋本進吉]]/1942年8月)抜萃}}


弘法大師と藤原定家によって権威づけをされた定家仮名遣は、[[歌人]]や知識人を中心に広く普及し仮名遣いの規範となった。それは江戸時代初期の国学者[[契沖]]によって[[契沖仮名遣]]の実証的研究がなされ、また契沖仮名遣を明治政府が学校教育で採用する(いわゆる[[歴史的假名遣]]の採用)まで使い続けられたのである。


{{quotation|}}


調

『下官集』の内容は[[和歌]]や仮名の綴り方、写本を作り用いる際の決まり等について記したものであり、それらは幼童に文字の綴り方を教えるなどといった類いのものではない。定家は[[朝廷 (日本)|朝廷]]に仕える公家であるとともに、和歌を業とする家すなわち[[歌人|歌詠み]]の家としても名を上げていた。それは単に和歌を詠むだけではなく、当時すでに古典とされた『[[古今和歌集]]』や『[[伊勢物語]]』といった文学作品を書き写し、またその本文の解釈を「説」と称して子孫に伝えることも重要事としていたのである。『下官集』の仮名遣いとは、それら写本を作るうえで本文を校訂し解釈を定めるためのものであった。つまり自分以外の人間が自分の写した本を見て、読みづらかったり理解しづらいことがないように本文の表記に決まりを設けておこうというのが、定家が仮名遣いを定めた目的だったのである。定家のいう「文字の狼藉」とは、歌詠みにとって重要なものであるはずの[[三代集]]をはじめとする歌書類の本文について、その仮名遣いが何の規範もない、いい加減なものであっては誤写誤読を招くことになるという意味の批判であった。








また当時いずれも{{IPA|wo}}の音となっていた「を」と「お」の仮名については、[[アクセント]]の高低によって高音を「を」に、低音を「お」に当てて使い分けていたことも、[[大野晋]]によって発見されている。これは、もし{{IPA|wo}}の音を含んだ言葉を仮名で書くのに「を」と「お」のいずれを書けばいいのか迷ったとき、例えば「置く」なら高音の「'''を'''く」、「奥」なら低音の「'''お'''く」というように、それを実際に発音してみればいずれに当てはまるのかがわかる。逆に「をく」、「おく」と書いておけば、それが「置く」、「奥」であるのがわかるというものであった。この高音と低音は[[いろは歌]]の「いろはにほへどちりぬる'''を'''」の「を」のアクセントと、「うゐの'''お'''くやま」の「お」のアクセントが、それぞれの基本となったと考えられているが、『下官集』では「を」には「'''緒'''之音」、「お」には「'''尾'''之音」という但し書きがついており、実際にはこの「緒」と「尾」の二つの言葉を口にすれば判断できるようにしている。このアクセントによる「を」と「お」の使い分けは、平安時代後半の11世紀末には成立していたと考えられる『[[色葉字類抄]]』にもすでに見られる。ただし定家はさらにこの「を」と「お」のほかに[[変体仮名]]の「{{変体仮名フォント|𛄚}}」(越/・[[ファイル:Hentai_Wo1.jpg|16px|フレームなし]])を用い、アクセントに関わりなく「を」と「お」のいずれにも使える仮名文字とした。例をあげると、


:あきのよを いたづらにのみ おきあかす つゆはわがみの うへにぞありける<small>(『[[後撰和歌集]]』・秋中 よみ人しらず)</small>



[[]]使使{{IPA|wo}}{{IPA|wo}}使


[[]]調

== 『下官集』以後 ==


[[]][[]]8[[1271]]1015[[]]27[[西]]

『国語学大系』に収める『下官集』には、定家以外の者がのちに書き加えた他書からの引用、また仮名遣いの例について増補された部分があり、さらに同じ内容を繰り返すなど雑多な内容となっている。その奥書には[[弘安]]7年([[1284年]])7月と文永3年([[1266年]])4月、[[元徳]]元年([[1329年]])10月の年紀があり、これら奥書を加えた人物として「信昌」、「珍範」という署名が見られる。それらがどのような人物であったかは不明であるが、『下官集』とその中にある定家の定めた仮名遣いが、当時盛んに用いられていたことがうかがえる。また為家の没後、定家自筆の『下官集』は[[二条派|二条家]]が所持していたが、為家の息子[[冷泉為相]]は内容が増補された系統の本を、自らが[[鎌倉]]に下向した折などに書写して人に与えていたという。定家は古典の書写校訂というごく限られた目的で仮名遣いを定めたが、それが当時の教養層に広まり、新たに創作された作品にもその仮名遣いが使われるなど、改めて仮名文字を書き分けるための規範として使われるようになっていた。そしてそれは『下官集』に記されている以外の仮名遣いの用例を人々が要求することになり、のちに行阿が『仮名文字遣』を著す背景となったのである。



[[14]]

{{quotation|京極中納言〈定家卿〉、家集拾遺愚草の清書を祖父河内前司〈干時大炊助〉親行に誂申されける時、親行申て云、をひ等の文字の聲かよひたる誤あるによりて、其字の見わきがたき事在之、然間、此次をもて後学のために定をかるべき由、黄門に申処に、われもしか日来より思よりし事也、さらば主爨が所存の分書出して、可進由作られける間、大概如此注進の処に、申所悉其理叶へりとて、則合点せられ畢…|名文字遣・序文}}



[[]][[|]]使使沿使使

しかし行阿が『仮名文字遣』を著したころ、日本語には大きなアクセントの変化が起こりつつあった。その変化のひとつとして、それまでのアクセントで低音の{{IPA|wo}}(お)だったものが、高音の{{IPA|wo}}(を)となる例が多く現れ、また現代語と同じように、二つ以上の言葉が[[複合語]]になるとアクセントが変化するようになっていたのである(それまでは複合語になっても、それぞれの言葉のアクセントは維持されていた)。これにより実際のアクセントがそれまで書いていた仮名遣いとは食い違うようになり、「を」と「お」をアクセントで書き分ける方法は完全に混乱する。このアクセントの変化について当時の人々は行阿も含めて自覚することができず、定家の定めた仮名遣いは「音にもあらず、儀<small>(言葉の意味)</small>にもあらず、いづれの篇<small>(典籍)</small>に付きてさだめたるにか、おぼつかなし」(『[[仙源抄]]』)という批判を受けることにもなったが、以後『仮名文字遣』はアクセントとは無関係の、慣例によって定められた仮名遣いとして使われることになる。



[[]]使[[]][[]]8[[1695]][[]][[]]

その後、契沖の『和字正濫抄』は国学者の間に広く支持されたが、定家仮名遣は歌壇を中心に支持され続けた。表記の根拠がどうであろうと、それまで長らく尊重され使われてきた定家仮名遣は規範としてすでに認められており、これを使い続けるのに特段の不都合はなかったからである。そしてこの状況は『和字正濫抄』で説かれた[[契沖仮名遣]]を、明治政府が学校教育で採用する(いわゆる歴史的仮名遣の採用)まで続いた。現在では、定家仮名遣は学問的には歴史的な仮名遣の不完全なものとして見做されている。


== 定家の文字の遣い方 ==

以下は本来仮名遣いに関わることではないが、定家の場合その定めた仮名遣いと密接に関わっていることなのであえて取り上げる。


定家は古典の書写校訂のために仮名遣いを定めたが、それは単に仮名遣いだけを定めて良しとしたわけではない。上で触れたように定家は「越」の変体仮名をアクセントに左右されない文字として使用していたが、ほかの変体仮名についても本を書き写す上での使い分けがなされていた。本を書き写していて1行を書き終えると、当然次の行に移ることになるが、定家はそのとき前の行と同じ仮名が並んだ場合には、違う字体の仮名を用いている。たとえば行頭に「あはれ」という言葉があり、その次の行もやはり「あはれ」という言葉で始めなければならない場合、以下のように変体仮名の「阿」を使って「阿はれ」と書いている。


: '''あ'''はれ………

: '''阿'''はれ………



使使


[[]][[]][[]]使

ほかにも『下官集』では、仮名を書き綴る際には意味のわかりづらい文字の続け方をしてはならないとか、和歌を2行に分けて書くときは上の句と下の句にそれぞれきちんと分けて書けというような記述が見られるが(『下官集』の項参照)、定家の定めた仮名遣いは、以上のような用字や書式のありかたの中に組み込まれて使われていたといえる。つまり写本の本文を書き記す上で、定家にとって文字をどのように綴りまた遣えば間違いがないかということを追求した結果、仮名遣いにも規範を設けたほうがよいと判断したということであり、その仮名遣いは本来こうした仮名の字体や漢字の遣い方ならびに書式と不可分のものであった。しかしのちの定家仮名遣ではこれらのような技術は伝わらず、ただ仮名遣いだけが仮名を書き分ける規範として伝わることになったのである。



== 参考文献 ==

== 参考文献 ==

* 福井久蔵編 『国語学大系第九巻 仮名遣一』 厚生閣、1940年

* 遠藤和夫『定家仮名遣の研究』(笠間書院、2002年) ISBN 4305103435

* 小松英雄 『いろはうた』〈『中公新書』558〉 中央公論社、1979年

* 白石良夫『かなづかい入門-歴史的仮名遣VS現代仮名遣』(平凡社、2008年) ISBN 4582854268

* 小松英雄 『日本語書記史原論』 笠間書院、1998年

* 浅田徹 「下官集の諸本」 『国文学研究資料館紀要』第26号 人間文化研究機構国文学研究資料館、2000年

* 浅田徹 「下官集の定家」 『国文学研究資料館紀要』第27号 人間文化研究機構国文学研究資料館、2001年

* 冷泉家時雨亭文庫編 『後撰和歌集 天福二年本』(『冷泉家時雨亭文庫叢書』第六期第六十一回配本) 朝日新聞社、2004年<!--

*『定家仮名遣の研究』-遠藤和夫(笠間書院、2002年) ISBN 4305103435

*『かなづかい入門-歴史的仮名遣VS現代仮名遣』-白石良夫(平凡社、2008年) ISBN 4582854268-->



== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

* [[歴史的仮名遣]]

* [[下官集]]

* [[現代仮名遣]]

* [[日本語]]

* [[仮名 (文字)]]

* [[仮名 (文字)]]

* [[ハ行転呼]]

* [[ハ行転呼]]

* [[歴史的仮名遣]]



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[[Category:仮名遣い]]

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[[Category:藤原定家]]

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参考文献[編集]

  • 福井久蔵編 『国語学大系第九巻 仮名遣一』 厚生閣、1940年
  • 小松英雄 『いろはうた』〈『中公新書』558〉 中央公論社、1979年
  • 小松英雄 『日本語書記史原論』 笠間書院、1998年
  • 浅田徹 「下官集の諸本」 『国文学研究資料館紀要』第26号 人間文化研究機構国文学研究資料館、2000年
  • 浅田徹 「下官集の定家」 『国文学研究資料館紀要』第27号 人間文化研究機構国文学研究資料館、2001年
  • 冷泉家時雨亭文庫編 『後撰和歌集 天福二年本』(『冷泉家時雨亭文庫叢書』第六期第六十一回配本) 朝日新聞社、2004年

関連項目[編集]