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**『[http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10001200998101010130035/?n=14&q=%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8&o=101&np=20&or=d 日曜美術館 私と小川芋銭]』([[1981年]][[1月1日]]放送、出演住井すゑ他) |
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**『[http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090410040030140/ 新日曜美術館 河童になりたかった男 日本画家・小川芋銭]』([[2004年]][[10月3日]]放送、出演[[はな (タレント)|はな]]、[[山根基世]]、[[池内紀]]、[[楳図かずお]]) |
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== 脚注 == |
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2020年11月9日 (月) 07:39時点における版
小川 芋銭︵おがわ うせん、本名‥小川茂吉、幼名‥不動太郎、男性、1868年3月11日︵慶応4年2月18日︶ - 1938年︵昭和13年︶12月17日︶は、日本の画家。19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本の日本画家である。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e0/Ogawa_Usen_stone_monument_of_the_water_imp.jpg/240px-Ogawa_Usen_stone_monument_of_the_water_imp.jpg)
河童の碑
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e0/Ogawa_Usen_stone_monument_of_the_water_imp.jpg/240px-Ogawa_Usen_stone_monument_of_the_water_imp.jpg)
来歴・人物
小川家は武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村︵現在の茨城県牛久市城中町︶に移り農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に一時雇われの画工として入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。 生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔︵現在の牛久市城中町︶で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の﹁芋銭﹂は、﹁自分の絵が芋を買うくらいの銭︵金︶になれば﹂という思いによるという。 身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから﹁河童の芋銭﹂として知られている。 芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、﹁牛里﹂の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に﹁あの人は画家だ﹂と教えられ驚いたという逸話を残している。 芋銭の墓は1943年︵昭和18年︶、自宅近くの曹洞宗の寺院、稲荷山得月院︵牛久市城中町258︶に建てられた[1]。 贋作が多く作られた作家でもある。そのため、公的機関が﹁小川芋銭の作品﹂を公費で購入する際、仮に贋作であるとすると無意味かつ税金の無駄であるため、購入の正当性や鑑定依頼先を巡ってしばしば議論になる[2]。年表
●1868年 - 江戸赤坂溜池の牛久藩邸で生まれる[3]。幼名、不動太郎[3]。 ●1871年 - 廃藩置県により新治県城中村に移住する。 ●1879年 - 牛久小学校下等小学校第三級を卒業し上京、小間物屋に奉公する。 ●1880年 - 桜田小学校尋常科第三級後期を卒業。本多錦吉郎の画塾、彰技堂に入り洋画を学ぶ[3]。 ●1888年 - 尾崎行雄の推挙を得て、﹃朝野新聞﹄に客員として入社︵入社年は通説︶する。磐梯山噴火の惨状をスケッチし新聞に掲載︵通説、裏付け資料なし︶。 ●1893年 - 父親の命により牛久に戻り農業に従事する[3]。 ●1896年 - 渡辺鼓堂の推奨により﹃茨城日報﹄に漫画が採用される︵通説、裏付け資料なし︶。 ●1899年 - 取手の句会﹃水月会﹄に入会。 ●1904年 - 幸徳秋水らが主催する﹃週刊平民新聞﹄に漫画を描き始める。水戸の文芸団体﹃木星会﹄の結成に参加。 ●1908年 - 初の画文集﹃草汁漫画﹄を刊行。 ●1910年 - 俳誌﹁ホトトギス﹂の挿絵を描く。表紙絵は1911年から。 ●1911年 - 東京・大阪の三越で漫画展を開く。 ●1915年 - 川端龍子らと﹃珊瑚会﹄設立。 ●1917年 - 珊瑚会展に出品した﹁肉案﹂が横山大観に認められ日本美術院同人に推挙される。 ●1922年 - 茨城新聞社社長飯村丈三郎古希記念画冊を描く。 ●1923年 - 茨城美術展の顧問になる。 ●1935年 - 帝国美術院参与となる。 ●1938年 - 牛久の自宅で死去[3]。主な作品
●肉案︵1917年珊瑚会展︶ ●樹下石人談︵1919年院展︶ ●水虎と其眷族︵1921年クリーブランド美術館主催日本美術院展︶ 愛知県美術館蔵 ●若葉に蒸さるヽ木精︵1921年クリーブランド美術館主催日本美術院展︶ 愛知県美術館蔵 ●水魅戯︵1923年院展︶ 茨城県近代美術館蔵 ●狐隊行︵1930年︶ 茨城県近代美術館蔵 ●海島秋來︵1932年院展︶ 茨城県近代美術館蔵 県指定文化財 ●聴秋︵1936年院展、外務省買上︶ ●羅漢龍虎 桑山美術館蔵画集等
●草汁漫画 日高有倫堂︵1908年︶ ●三愚集 俳画堂︵1920年︶‥小林一茶の句を夏目漱石が書き芋銭が画を付けたもの。 ●芋銭子開七画冊 大塚巧芸社︵1928年︶ ●俳画の描き方 崇文堂︵1934年︶ ●芋銭子開八画冊 大塚巧芸社︵1937年︶ ●河童百図 俳画堂︵1938年︶関連施設
小川芋銭記念館「雲魚亭」
小川芋銭研究センター(2011年8月撮影) 現在は閉鎖され、存在しない。
雲魚亭入口付近の「改善一歩」道標(2011年8月撮影)
雲魚亭
芋銭が自宅敷地に建てたアトリエ。完成してまもなく芋銭が脳溢血で倒れたため、ほとんど病室として使われた。現在は牛久市の管理の下、小川芋銭記念館として公開され、複製画や芋銭の愛用品が展示されている。牛久沼のほとりにあり、近くには﹁河童の碑﹂もある。
●所在地‥茨城県牛久市城中町2770-1︵城中集落内︶
●交通‥牛久駅から関東鉄道の路線バス三日月橋生涯学習センター行きに乗車、終点下車、徒歩約15分 - 20分︵小川芋銭散策路経由の場合︶。
●公開日‥土日祝日︵平日は屋外のみ︶
●入場料‥無料