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'''庭田 経有'''︵にわた つねあり︶は、[[室町時代]]前期の[[公家]]。[[権大納言]][[庭田重資]]の子。姉[[庭田資子|資子]]が[[崇光天皇]]の[[典侍]]として[[伏見宮栄仁親王]]を生んで以来、宮家との関わりが深く、その[[家司]]を務めた。[[後花園天皇]]の[[外祖父]]に当たる。
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'''庭田 経有'''︵にわた つねあり︶は、[[室町時代]]前期の[[公家]]。[[権大納言]][[庭田重資]]の子。姉[[庭田資子|資子]]が[[崇光天皇]]の[[典侍]]として[[伏見宮栄仁親王]]を生んで以来、宮家との関わりが深く、その[[家司]]を務めた。[[後花園天皇]]の[[外祖父]]に当たる。
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詳しい経歴は不明であるが、[[叙爵]]を受けた後、[[正平 (日本)|正平]]19年/[[貞治]]3年︵[[1364年]]︶[[1月 (旧暦)|1月]][[正五位下]]に叙され<ref>﹃[[後愚昧記]]﹄貞治3年1月6日条[[裏書]]</ref>、間もなく[[従四位下]]・[[右少将]]に至る。[[伏見宮]] |
詳しい経歴は不明であるが、[[叙爵]]を受けた後、[[正平 (日本)|正平]]19年/[[貞治]]3年︵[[1364年]]︶[[1月 (旧暦)|1月]][[正五位下]]に叙され<ref>﹃[[後愚昧記]]﹄貞治3年1月6日条[[裏書]]</ref>、間もなく[[従四位下]]・[[右少将]]に至る。[[伏見宮]]家司を務め、その御領である[[近江国|近江]][[山前荘|山前北荘]]を拝領した。[[応永]]5年︵[[1398年]]︶5月栄仁親王の[[落飾]]に先立ち[[出家]]。[[法名]]を'''明堯'''という<ref>﹃[[看聞日記]]﹄応永25年5月15日条</ref>。同19年︵[[1412年]]︶[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]に[[卒去|卒]]し、伏見に葬られた。[[享年]]は60代か。
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[[後花園天皇]]の[[外祖父]]に当たることから、33[[年忌]]の[[文安]]元年︵[[1444年]]︶[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]に[[左大臣]]・[[従一位]]を追贈されたが、当時は出家した人物への[[贈官]]は希有な例とされた。﹃[[新続古今和歌集]]﹄に1首入集した[[歌人]]である他、[[琵琶]]も嗜んでいる。また、[[日記]]の自筆断簡︵応永5年5月18日~26日記︶が[[宮内庁書陵部]]所蔵の[[伏見宮御記録]]の中に現存する。
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== 脚注 == |
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2014年12月31日 (水) 09:43時点における版
庭田経有 | |
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時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 応永19年5月15日(1412年6月24日) |
改名 | 明堯(法名) |
別名 | 克斎(号) |
戒名 | 宝勝院 |
墓所 | 京都府京都市伏見区 |
官位 | 従四位下右近衛少将、贈左大臣従一位 |
主君 | 後光厳天皇→後円融天皇→後小松天皇 |
氏族 | 宇多源氏雅信流、庭田家 |
父母 | 父:庭田重資、母:不詳 |
兄弟 | 資子、田向資蔭、経有、女子 |
子 | 重有、幸子、五辻朝仲 |
庭田 経有︵にわた つねあり︶は、室町時代前期の公家。権大納言庭田重資の子。姉資子が崇光天皇の典侍として伏見宮栄仁親王を生んで以来、宮家との関わりが深く、その家司を務めた。後花園天皇の外祖父に当たる。
詳しい経歴は不明であるが、叙爵を受けた後、正平19年/貞治3年︵1364年︶1月正五位下に叙され[1]、間もなく従四位下・右少将に至る。伏見宮家司を務め、その御領である近江山前北荘を拝領した。応永5年︵1398年︶5月栄仁親王の落飾に先立ち出家。法名を明堯という[2]。同19年︵1412年︶5月15日に卒し、伏見に葬られた。享年は60代か。
後花園天皇の外祖父に当たることから、33年忌の文安元年︵1444年︶5月6日に左大臣・従一位を追贈されたが、当時は出家した人物への贈官は希有な例とされた。﹃新続古今和歌集﹄に1首入集した歌人である他、琵琶も嗜んでいる。また、日記の自筆断簡︵応永5年5月18日~26日記︶が宮内庁書陵部所蔵の伏見宮御記録の中に現存する。
脚注
参考文献
外部リンク
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