コンテンツにスキップ

「弘一」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
56行目: 56行目:

1908年(光緒三十四年)、春柳社退社。

1908年(光緒三十四年)、春柳社退社。



1911年、李叔同に日本留学中には日本女性・葉子([[映画]]では雪子)と恋に落ちて結婚し彼女を伴って帰国している。同年、李叔同は直隶高等工業学堂で図画教師を務めている。

1911年、李叔同に日本留学中には日本女性・葉子([[映画]]では雪子)と恋に落ちて結婚し彼女を伴って帰国している。在学中,同級生[[柏木正賢]]と仲良く,帰国して後書簡でお互いに画作の研究を行う。同年、李叔同は直隶高等工業学堂で図画教師を務めている。



1912年、城東女学教員、李叔同は[[文学]]と音楽の授業をして。南社に入った。

1912年、城東女学教員、李叔同は[[文学]]と音楽の授業をして。南社に入った。


2017年11月18日 (土) 05:53時点における版

弘一
1880年10月23日—1942年10月13日

弘一

幼名 李成蹊
李息霜、李岸、李良
法名 演音
晚晴老人
法号 弘一
尊称 弘一法師
生地 清の旗 天津
没地 中華民国の旗 中華民国 福建省泉州
宗派 律宗
了悟和尚
印光大師
弟子 豊子愷
夏丏尊
テンプレートを表示

1880102319421013[1][2]

略歴

李叔同の故居。

1880

18845

1885

1887

189516

18971817311

1899

1901西

1903

1905

1906西

19072椿6

1908退

1911

1912

1914西

1915

1918399

1919

19206

19213

192445

1925

1926

19277

1929

1930

1931

1933

1934

1935

1936

1938

19394

194010

1941

1942

作品

音楽

  • 『祖国歌』
  • 『我の国』
  • 『哀祖国』
  • 『大中華』
  • 『幽居』
  • 『春遊』
  • 『早秋』
  • 『西湖』
  • 『送別』
  • 『落花』
  • 『悲秋』
  • 『晚鐘』
  • 『月』

書道

弘一の書道の早期生まれ変わること魏碑、筆勢変化に富んでいる、逸宕ひらめき。後期は自成型一体、朴野清淡。

著名な作品

送別(日本語での題は『旅愁』。)
原文 書き下し文 通釈
長亭外、古道邊、  長亭の外(はづれ)、古道の邊(あたり) 町外(はず)れの、古びた道(には)。
芳草碧連天。 芳草碧(みどり)天に連なる。 草花の緑が、地の果てまで続いている。
晩風拂柳笛聲殘、 晩風は柳を拂(はら)ひ笛聲殘(すた)りて, 夕方に吹く風がヤナギの条(えだ)を払うかのように揺らして、笛の音はだんだんと消えて行き。
夕陽山外山。  夕陽は山外の山。 夕日が奥山に(沈もうとしている)。
天之涯、地之角、  天の涯(はて)、地の角(すみ)に, 天の涯(はて)、地の果て(にて)。
知交半零落。  知交半(なか)ば零落す。 友人も、もう半ばは死んで亡くなっていよう。
一觚濁酒盡餘歡、  一觚(こ)の 濁酒餘歡を盡(つく)せど, 一杯の濁醪(どぶろく)で、最後の名残の楽しみを尽くそう。
今宵別夢寒。  今宵別夢寒からん。 今夜は、別れを告げた後の眠りなので、寒々としていよう。

 

脚注