コンテンツにスキップ

「弘一」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
5行目: 5行目:

|名=李息霜、李岸、李良

|名=李息霜、李岸、李良

|法名=演音

|法名=演音

|号=晴老人

|号=晴老人

|法号=弘一

|法号=弘一

|院号=

|院号=

23行目: 23行目:

|廟=

|廟=

}}

}}

'''弘一'''(こういつ<!--日本語での音読未確認のため暫定的に。-->、1880年10月23日—1942年10月13日)は、[[中華民国]]の[[詩人]]、[[禅僧]]、[[音楽]]教育者、[[芸術]]教育者。本名は李叔同。又名は李息霜、李岸、李良、譜名は文涛、幼名は成蹊、学名は広侯、字は息霜、別号は漱筒。法名は演音、号は弘一と晴老人<ref>{{cite news|author= |url=http://ah.ifeng.com/a/20160329/4411705_0.shtml |title=世俗的转身——李叔同 |newspaper=鳳凰網 |date=2016-03-29 |language= zh|location=}}</ref><ref>{{cite news|author= |url=http://www.takefoto.cn/viewnews-696708.html |title=泉州参观弘一法师遗世瑰宝 为何临终绝笔为悲欣交集 |newspaper= |date=2016-03-03 |language=zh }}</ref>。[[仏教徒]]には「重興南山[[律宗]]第十一代祖師」と崇められたという。

'''弘一'''(こういつ<!--日本語での音読未確認のため暫定的に。-->、1880年10月23日—1942年10月13日)は、[[中華民国]]の[[詩人]]、[[禅僧]]、[[音楽]]教育者、[[芸術]]教育者。本名は李叔同。又名は李息霜、李岸、李良、譜名は文涛、幼名は成蹊、学名は広侯、字は息霜、別号は漱筒。法名は演音、号は弘一と晴老人<ref>{{cite news|author= |url=http://ah.ifeng.com/a/20160329/4411705_0.shtml |title=世俗的转身——李叔同 |newspaper=鳳凰網 |date=2016-03-29 |language= zh|location=}}</ref><ref>{{cite news|author= |url=http://www.takefoto.cn/viewnews-696708.html |title=泉州参观弘一法师遗世瑰宝 为何临终绝笔为悲欣交集 |newspaper= |date=2016-03-03 |language=zh }}</ref>。[[仏教徒]]には「重興南山[[律宗]]第十一代祖師」と崇められたという。



==略歴==

==略歴==


[[File:Lishutong'home01 tientsin liuxinmin 2002.jpg|thumb|250px|right|]]

[[File:Lishutong'home01 tientsin liuxinmin 2002.jpg|thumb|250px|right|]]


1880年、[[天津]]に生まれる。祖父は李、父の李世珍は[[吏部]]主事。李叔同の親は敬虔な仏教徒だった。

1880年、[[天津]]に生まれる。祖父は李、父の李世珍は[[吏部]]主事。李叔同の親は敬虔な仏教徒だった。



1884年([[光緒]]年)、5歳の時、李叔同の父親は病気で亡くなった。

1884年([[光緒]]10年)、5歳の時、李叔同の父親は病気で亡くなった。



1885年、李叔同は[[啓蒙教育]]を受け始めた。

1885年、李叔同は[[啓蒙教育]]を受け始めた。



1887年、常雲に師事。李叔同は[[四書五経]]、[[金石]]、[[書道]]を勉強し始めてから。

1887年、常雲に師事。李叔同は[[四書五経]]、[[金石]]、[[書道]]を勉強し始めてから。



1895年、16歳の時、輔仁書院に入学。

1895年、16歳の時、輔仁書院に入学。



1897年(光緒二十三年)、18歳の時、[[日本]]に出国する前に李叔同は母の命令で17歳のときに茶商の娘・兪氏と結婚し子供も3人(1人は夭折)いて。李叔同はピアノを1台買って、[[音楽]]と[[作曲]]を始めた。李叔同は[[戊戌の変法]]を支持する。後、城南文社に入った。

1897年(光緒23年)、18歳の時、[[日本]]に出国する前に李叔同は母の命令で17歳のときに茶商の娘・兪氏と結婚し子供も3人(1人は夭折)いて。李叔同はピアノを1台買って、[[音楽]]と[[作曲]]を始めた。李叔同は[[戊戌の変法]]を支持する。後、城南文社に入った。



1899年(光緒二十五年)、城南草堂に移り、[[袁希濂]]、[[許幻園]]、[[蔡小香]]、[[張小楼]]と並んで「天涯五友」と称される。画家[[任伯年]]と上海書画公会を創設。

1899年(光緒25年)、城南草堂に移り、[[袁希濂]]、[[許幻園]]、[[蔡小香]]、[[張小楼]]と並んで「天涯五友」と称される。画家[[任伯年]]と上海書画公会を創設。



1901年、南洋公学(現在の[[西安交通大学]]と[[上海交通大学]]の前身)経済特科班に入学、[[蔡元培]]に師事。

1901年、南洋公学(現在の[[西安交通大学]]と[[上海交通大学]]の前身)経済特科班に入学、[[蔡元培]]に師事。

46行目: 46行目:

1903年、と許幻園、[[黄炎培]]等人は[[上海]]で「滬学会」を設立する。

1903年、と許幻園、[[黄炎培]]等人は[[上海]]で「滬学会」を設立する。



1905年(光緒三十一年)、李叔同の母親は病気で亡くなった。

1905年、李叔同の母親は病気で亡くなった。



1906年、日本の[[東京美術学校 (旧制)|上野美術学校]]に留学して[[西洋画]]を学び、革命活動に関わった。(前期)[[文芸協会]]に参加した。秋、芸術団体「[[春柳社]]」を創立した。[[随吟社]]に入った。

1906年、日本の[[東京美術学校 (旧制)|上野美術学校]]に留学して[[西洋画]]を学び、革命活動に関わった。(前期)[[文芸協会]]に参加した。秋、芸術団体「[[春柳社]]」を創立した。[[随吟社]]に入った。




[[File:Hongyi tomb.JPG|thumb|250px|right|]]

[[File:Hongyi tomb.JPG|thumb|250px|right|]]
56行目: 56行目:

1908年(光緒三十四年)、春柳社退社。

1908年(光緒三十四年)、春柳社退社。



1911年、李叔同に日本留学中には日本女性・葉子([[映画]]では雪子)と恋に落ちて結婚し彼女を伴って帰国している。在学中同級生[[柏木正賢]]と仲良く帰国して後書簡でお互いに画作の研究を行う。同年、李叔同は直高等工業学堂で図画教師を務めている。

1911年、李叔同に日本留学中には日本女性・葉子([[映画]]では雪子)と恋に落ちて結婚し彼女を伴って帰国している。在学中同級生[[柏木正賢]]と仲良く帰国して後書簡でお互いに画作の研究を行う。同年、李叔同は直高等工業学堂で図画教師を務めている。



1912年、城東女学教員、李叔同は[[文学]]と音楽の授業をして。南社に入った。

1912年、城東女学教員、李叔同は[[文学]]と音楽の授業をして。南社に入った。

64行目: 64行目:

1915年、南京高等師範学校図画と音楽教員。寧社を設立する。

1915年、南京高等師範学校図画と音楽教員。寧社を設立する。



1918年、39歳で[[浙江省]][[杭州]]の[[虎跑寺]]にて出家得度。了悟和尚に師事。9月、杭州の[[霊寺]]で[[比丘戒]]を受ける。

1918年、39歳で[[浙江省]][[杭州]]の[[虎跑寺]]にて出家得度。了悟和尚に師事。9月、杭州の[[霊寺]]で[[比丘戒]]を受ける。



1919年、井亭庵に住した。[[玉泉]][[清漣寺]]に移り、その後は杭州虎跑に[[定慧寺]]を建てて隠居したが、その後も霊寺を学ぶ。

1919年、井亭庵に住した。[[玉泉]][[清漣寺]]に移り、その後は杭州虎跑に[[定慧寺]]を建てて隠居したが、その後も霊寺を学ぶ。



1920年の春季、玉泉寺に住した。6月、[[衢州]][[蓮花寺]]に移り。

1920年の春季、玉泉寺に住した。6月、[[衢州]][[蓮花寺]]に移り。

94行目: 94行目:

1936年、弘一は泉州草庵で療養する。後、南普陀寺に住した。

1936年、弘一は泉州草庵で療養する。後、南普陀寺に住した。



1938年、承天寺、梅石書院、開元寺、清堂、[[漳州]][[南山寺]]に仏法を宣揚する。後、温陵養老院に移り。

1938年、承天寺、梅石書院、開元寺、清堂、[[漳州]][[南山寺]]に仏法を宣揚する。後、温陵養老院に移り。



1939年4月、蓬毗峰[[普済寺]]に住した。

1939年4月、蓬毗峰[[普済寺]]に住した。



1940年10月、南安[[霊應寺]]に仏法を宣揚する。

1940年10月、南安[[霊應寺]]に仏法を宣揚する。

102行目: 102行目:

1941年、[[晋江]][[福林寺]]、泉州[[百原寺]]、開元寺に仏法を宣揚する。

1941年、[[晋江]][[福林寺]]、泉州[[百原寺]]、開元寺に仏法を宣揚する。



1942年、泉州不二祠温陵養老院晴室にて示寂。

1942年、泉州不二祠温陵養老院晴室にて示寂。



==作品==

==作品==

117行目: 117行目:

*『落花』

*『落花』

*『悲秋』

*『悲秋』

*『鐘』

*『鐘』

*『月』

*『月』




2017年12月21日 (木) 06:48時点における版

弘一
1880年10月23日—1942年10月13日

弘一

幼名 李成蹊
李息霜、李岸、李良
法名 演音
晩晴老人
法号 弘一
尊称 弘一法師
生地 清の旗 天津
没地 中華民国の旗 中華民国 福建省泉州
宗派 律宗
了悟和尚
印光大師
弟子 豊子愷
夏丏尊
テンプレートを表示

1880102319421013[1][2]

略歴

李叔同の故居。

1880

1884105

1885

1887

189516

1897231817311

189925

1901西

1903

1905

1906西

19072椿6

1908退

1911

1912

1914西

1915

1918399

1919

19206

19213

192445

1925

1926

19277

1929

1930

1931

1933

1934

1935

1936

1938

19394

194010

1941

1942

作品

音楽

  • 『祖国歌』
  • 『我の国』
  • 『哀祖国』
  • 『大中華』
  • 『幽居』
  • 『春遊』
  • 『早秋』
  • 『西湖』
  • 『送別』
  • 『落花』
  • 『悲秋』
  • 『晩鐘』
  • 『月』

書道

弘一の書道の早期生まれ変わること魏碑、筆勢変化に富んでいる、逸宕ひらめき。後期は自成型一体、朴野清淡。

著名な作品

送別(日本語での題は『旅愁』。)
原文 書き下し文 通釈
長亭外、古道邊、  長亭の外(はづれ)、古道の邊(あたり) 町外(はず)れの、古びた道(には)。
芳草碧連天。 芳草碧(みどり)天に連なる。 草花の緑が、地の果てまで続いている。
晩風拂柳笛聲殘、 晩風は柳を拂(はら)ひ笛聲殘(すた)りて, 夕方に吹く風がヤナギの条(えだ)を払うかのように揺らして、笛の音はだんだんと消えて行き。
夕陽山外山。  夕陽は山外の山。 夕日が奥山に(沈もうとしている)。
天之涯、地之角、  天の涯(はて)、地の角(すみ)に, 天の涯(はて)、地の果て(にて)。
知交半零落。  知交半(なか)ば零落す。 友人も、もう半ばは死んで亡くなっていよう。
一觚濁酒盡餘歡、  一觚(こ)の 濁酒餘歡を盡(つく)せど, 一杯の濁醪(どぶろく)で、最後の名残の楽しみを尽くそう。
今宵別夢寒。  今宵別夢寒からん。 今夜は、別れを告げた後の眠りなので、寒々としていよう。

 

脚注