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[[天文 (元号)|天文]]2年︵[[1533年]]︶に[[毛利元就]]は[[大笹山城]]主・敷名民部大輔を討った。元就は攻め取った大笹山城を元範に与え、元範は名字を﹁相合﹂から﹁敷名﹂へ変えた。天文22年︵[[1553年]]︶には元就に滅ぼされた[[江田氏]]の跡を継いで[[旗返城]]主となっている。没年は不詳であるが、元範は[[天正]]9年︵[[1581年]]︶の﹃村山家旦那帳﹄にも備後江田の領主毛利兵部太夫殿として現れ、少なくともこの頃までは生存していたと考えられる。
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2014年1月2日 (木) 08:25時点における版
敷名元範 | |
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 毛利元範、毛利兵部太夫 |
主君 | 毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 大江姓毛利氏庶流相合氏→敷名氏 |
父母 | 父:相合元綱 |
子 | 元政、馬屋原元詮 |
生涯
大永4年4月8日︵1524年5月11日︶、父の元綱は謀反を起こして戦死したが、元範は幼少であったため、連座を免れた。
天文2年︵1533年︶に毛利元就は大笹山城主・敷名民部大輔を討った。元就は攻め取った大笹山城を元範に与え、元範は名字を﹁相合﹂から﹁敷名﹂へ変えた。天文22年︵1553年︶には元就に滅ぼされた江田氏の跡を継いで旗返城主となっている。没年は不詳であるが、元範は天正9年︵1581年︶の﹃村山家旦那帳﹄にも備後江田の領主毛利兵部太夫殿として現れ、少なくともこの頃までは生存していたと考えられる。
備後国人で九鬼城主馬屋原信春︵九鬼馬屋原氏︶が死去し、その嫡子宮寿丸も夭折したため、元範の子元詮が養子に入って家督を継いだ。子孫は毛利氏の防長移封に従って萩に移住、長州藩大組として続いた。毛利輝元側近の元貞の頃より名字を前原とし、後に馬屋原に復した。
長州藩士で後に貴族院議員となった馬屋原彰、馬屋原二郎は、その末裔である。
家系
毛利弘元 ┣━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┓ 興元 元就 相合元綱 見付元氏 ┃ ┣━━━┳━━━━━┳━━━━━┓ ┃ 幸松丸 隆元 吉川元春 小早川隆景 穂井田元清 敷名元範 ┃ ┃ │ ┃ ┣━━━━┓ 輝元 広家 秀秋 秀元 元政 馬屋原元詮(前原休閑) ┃ ┃ ┃ ┃ 秀就 広正 光広 元貞 ┃ ┃ ┃ ┣━━┓ 綱広 広嘉 綱元 之貞 就宗
参考資料
- 萩藩大組馬屋原家譜録(山口県文書館)