「文久3年乾退助暗殺未遂事件」の版間の差分
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土佐勤王党員は「上士勤王隊」が土佐勤王党に対抗する「第二の勤王党」となり、我々が疎外されるのではないかと感じ、乾退助は土佐勤王党から命を狙われることとなる<ref name="bunkyuansatsu">宇田友猪『板垣退助君傳記(第1巻)』[[原書房]]、2009年、98頁</ref>。しかし、乾退助は身辺を常に警戒し京都での行動に全く隙を見せなかった。この乾退助と土佐勤王党との緊張関係は、退助が役を罷免されて失脚し、[[八月十八日の政変]]の後、[[中岡慎太郎]]が退助を訪ねて邂逅するまで続いた<ref name="ishinkeireki"> [[板垣退助]]『維新前夜経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』127頁</ref>。役職中、退助は[[吉田東洋]]一派を一切藩の重職につかせないよう容堂に言上するが、土佐に帰藩後、容堂は土佐勤王党派を一掃し、[[吉田東洋]]派を重職につけ、乾退助を罷免<ref>宇田友猪『板垣退助君傳記(第1巻)』[[原書房]]、2009年、106-107頁</ref>。退助が失脚したことにより[[中岡慎太郎]]は、乾退助が勤王派に偽装した佐幕開国派ではないことを悟り、乾退助を訪ねてその肚を確めた<ref>宇田友猪『板垣退助君傳記(第1巻)』[[原書房]]、2009年、118頁</ref>。この時、[[中岡慎太郎]]は乾退助に対して、暗殺を企てたことを自供したが、その自供したことを乾退助は却って誉め「国事の為にあるいは殺そうし、あるいは同盟を組もうとしてやってきた。そういう男でこそ心を開いて話ができ、信頼することができる」と語り、[[中岡慎太郎]]は脱藩して下からの討幕を、乾退助は重職に復帰することで上からの討幕を目指すことを約した<ref>宇田友猪『板垣退助君傳記(第1巻)』[[原書房]]、2009年、119頁</ref>。その後、[[薩土討幕の密約]]をへて[[土佐勤王党]]と「上士勤王隊」は合併し、藩兵として乾退助により士格別撰隊が組織された。この時結成された「士格別撰隊」「軽格別撰隊」は、[[鳥羽伏見の戦い]]の後、[[土佐藩]][[迅衝隊]]として[[戊辰戦争]]を戦い、明治以降はその精鋭が御親兵として明治天皇直属の軍隊として献上された。これが近衛師団となり近代日本陸軍となったため、板垣退助は明治38年、「陸軍創設功労者」として感状を下賜されている<ref>[[湊川神社]]『あゝ楠公さん』第16号、2014年1月1日、10-16頁</ref>。 |
土佐勤王党員は﹁上士勤王隊﹂が土佐勤王党に対抗する﹁第二の勤王党﹂となり、我々が疎外されるのではないかと感じ、乾退助は土佐勤王党から命を狙われることとなる<ref name="bunkyuansatsu">宇田友猪﹃板垣退助君傳記︵第1巻︶﹄[[原書房]]、2009年、98頁</ref>。しかし、乾退助は身辺を常に警戒し京都での行動に全く隙を見せなかった。この乾退助と土佐勤王党との緊張関係は、退助が役を罷免されて失脚し、[[八月十八日の政変]]の後、[[中岡慎太郎]]が退助を訪ねて邂逅するまで続いた<ref name="ishinkeireki"> [[板垣退助]]﹃維新前夜経歴談﹄(所収﹃維新史料編纂会講演速記録(1)﹄127頁</ref>。役職中、退助は[[吉田東洋]]一派を一切藩の重職につかせないよう容堂に言上するが、土佐に帰藩後、容堂は土佐勤王党派を一掃し、[[吉田東洋]]派を重職につけ、乾退助を罷免<ref>宇田友猪﹃板垣退助君傳記︵第1巻︶﹄[[原書房]]、2009年、106-107頁</ref>。退助が失脚したことにより[[中岡慎太郎]]は、乾退助が勤王派に偽装した佐幕開国派ではないことを悟り、乾退助を訪ねてその肚を確めた<ref>宇田友猪﹃板垣退助君傳記︵第1巻︶﹄[[原書房]]、2009年、118頁</ref>。この時、[[中岡慎太郎]]は乾退助に対して、退助暗殺を企てたことを自供したが、その自供したことを乾退助は却って誉め﹁国事の為にあるいは殺そうし、あるいは同盟を組もうとしてやってきた。そういう男でこそ心を開いて話ができ、信頼することができる﹂と語り、[[中岡慎太郎]]は脱藩して下からの討幕を、乾退助は重職に復帰することで上からの討幕を目指すことを約した<ref>宇田友猪﹃板垣退助君傳記︵第1巻︶﹄[[原書房]]、2009年、119頁</ref>。その後、[[薩土討幕の密約]]をへて[[土佐勤王党]]と﹁上士勤王隊﹂は合併し、藩兵として乾退助により士格別撰隊が組織された。この時結成された﹁士格別撰隊﹂﹁軽格別撰隊﹂は、[[鳥羽伏見の戦い]]の後、[[土佐藩]][[迅衝隊]]として[[戊辰戦争]]を戦い、明治以降はその精鋭が御親兵として明治天皇直属の軍隊として献上された。これが近衛師団となり近代日本陸軍となったため、板垣退助は明治38年、﹁陸軍創設功労者﹂として感状を下賜されている<ref>[[湊川神社]]﹃あゝ楠公さん﹄第16号、2014年1月1日、10-16頁</ref>。
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== その後の板垣退助暗殺未遂事件 == |
== その後の板垣退助暗殺未遂事件 == |
2024年6月20日 (木) 04:07時点における版
概略
1862年11月下旬︵文久2年10月︶、乾退助の親族・平井善之丞の配慮などがあり、武市瑞山率いる土佐勤王党︵中岡慎太郎らを含む五十人組︶は、山内容堂上洛の護衛の命を受け土佐を出発した[2]。ところがその途次、1862年12月22日︵同年11月2日︶、土佐藩下横目︵監察史︶・広田章次が伏見で暗殺され[3]、1863年1月4日︵文久2年11月15日︶小田原で土佐藩士・坂本瀬平との刃傷事件︵檜垣清治、田内衛吉による︶を起こした。このとき、山内容堂はまだ江戸にいて京都へ向けて出発する前であったが、護衛役であるはずの土佐勤王党が数々の事件を起こしていることに懸念を示し、側近の乾退助を召して土佐勤王党に代わる土佐藩上士による﹁勤王隊﹂をすぐにでも結成できるか問うた。退助は即座に勤王の志のある上士五十名の名を書いて藩庁に提出。これをもとに土佐勤王党とは別組織の乾退助を隊長とする﹁上士勤王隊︵上士勤王派五十人隊︶﹂が結成され容堂を警護して江戸を出発した。1863年2月28日︵文久3年1月11日︶、品川より出帆。海路を経て大坂に着岸し京へ向った[4]。 容堂の上洛を待っていた土佐勤王党は、別部隊となる﹁上士勤王隊﹂が乾退助によって突如結成されたことに動揺。土佐藩主山内容堂が大坂から京に上る途次、1863年3月11日︵文久3年1月22日︶、容堂が大坂で池内大学を召して時事談義に及んだ。勤王党員らは、池内大学が安政の大獄で微罪に処されるにとどまったことから、土佐勤王党が疎外されたことに加え、池内が佐幕開国派であることをを疑い、容堂と接近することで土佐藩が佐幕派化することに危機感を抱いた[5]。また乾退助を隊長とする﹁上士勤王隊﹂は名ばかりの勤王隊で、実際には佐幕開国を誘導するための乾退助による謀略ではないかと感じ、退助の暗殺を企てた[6]。 同日晩、池内大学が駕籠で帰宅する途中、土佐勤王党の四人が池内を待ち伏せし難波橋の上で斬殺[4]。その首は両耳を削がれ梟首された[7]。1863年3月13日︵同月24日︶、﹃斬奸状﹄と共に、片耳は正親町三条実愛邸へ、もう片耳は中山忠能邸に投げ込まれた[5]。 乾退助は土佐勤王党結成以来、その趣意を理解して交友関係にあったが[8]、これら一連の事件に激怒。1863年3月30日︵文久3年2月12日︶、乾退助は武市瑞山に対して耳を貴人の邸宅に投げ込むなどの野蛮な行為は﹁勤皇﹂と云う名を汚すものだと背理をせめ是非を諭した。武市は勤王党が犯人だと決めつけられたことに反発し不快感を示している[9]。暗殺未遂事件とその後の影響
土佐勤王党員は﹁上士勤王隊﹂が土佐勤王党に対抗する﹁第二の勤王党﹂となり、我々が疎外されるのではないかと感じ、乾退助は土佐勤王党から命を狙われることとなる[6]。しかし、乾退助は身辺を常に警戒し京都での行動に全く隙を見せなかった。この乾退助と土佐勤王党との緊張関係は、退助が役を罷免されて失脚し、八月十八日の政変の後、中岡慎太郎が退助を訪ねて邂逅するまで続いた[4]。役職中、退助は吉田東洋一派を一切藩の重職につかせないよう容堂に言上するが、土佐に帰藩後、容堂は土佐勤王党派を一掃し、吉田東洋派を重職につけ、乾退助を罷免[10]。退助が失脚したことにより中岡慎太郎は、乾退助が勤王派に偽装した佐幕開国派ではないことを悟り、乾退助を訪ねてその肚を確めた[11]。この時、中岡慎太郎は乾退助に対して、退助暗殺を企てたことを自供したが、その自供したことを乾退助は却って誉め﹁国事の為にあるいは殺そうし、あるいは同盟を組もうとしてやってきた。そういう男でこそ心を開いて話ができ、信頼することができる﹂と語り、中岡慎太郎は脱藩して下からの討幕を、乾退助は重職に復帰することで上からの討幕を目指すことを約した[12]。その後、薩土討幕の密約をへて土佐勤王党と﹁上士勤王隊﹂は合併し、藩兵として乾退助により士格別撰隊が組織された。この時結成された﹁士格別撰隊﹂﹁軽格別撰隊﹂は、鳥羽伏見の戦いの後、土佐藩迅衝隊として戊辰戦争を戦い、明治以降はその精鋭が御親兵として明治天皇直属の軍隊として献上された。これが近衛師団となり近代日本陸軍となったため、板垣退助は明治38年、﹁陸軍創設功労者﹂として感状を下賜されている[13]。その後の板垣退助暗殺未遂事件
この事件の19年後、1882年︵明治15年︶4月6日、岐阜の神道中教院門前で、相原尚褧が板垣退助の暗殺を謀った板垣退助岐阜遭難が起きている[14]。脚注
参考文献
- 宇田友猪『板垣退助君傳記(第1巻)』原書房、2009年、98頁
- 中元崇智『板垣退助』中央公論新社〈中公新書〉、2020年
- 一般社団法人板垣退助先生顕彰会(編)『何度も繰り返し起きた板垣退助暗殺未遂事件 -板垣はいかにこれらの窮地を切り抜けたか-』自由民権150年記念、2024年、1-6頁
- 板垣退助論述『維新前夜経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』127頁