「文久3年乾退助暗殺未遂事件」の版間の差分
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[[1862年]]11月下旬([[文久]]2年10月)、[[乾退助]]の親族・[[平井善之丞]]の配慮などがあり、[[武市瑞山]]率いる[[土佐勤王党]]([[中岡慎太郎]]らを含む五十人組)は、[[山内容堂]]上洛の護衛の命を受け土佐を出発した<ref>この時、[[山内容堂]]は江戸におり海路、大坂を経て京都へ向おうとしていた。[[土佐勤王党]]は土佐を出発し大坂、京都で容堂を護衛するつもりであった。</ref>。ところがその途次、1862年12月22日(同年11月2日)、土佐藩下横目(監察史)・広田章次が[[伏見]]で暗殺され<ref>土佐勤王党・千屋菊次郎の日記『再遊筆記』では、前日に[[中岡慎太郎]]が伏見へ向い、事件当日、[[河野万寿弥]]、村田忠三郎が隊を離れて伏見へ向い、事件のあった日の晩に3人揃って京に戻っているため、中岡慎太郎の犯行であったことが疑われている。</ref>、1863年1月4日(文久2年11月15日)小田原で土佐藩士・坂本瀬平との刃傷事件(檜垣清治、田内衛吉による)を起こした。このとき、[[山内容堂]]はまだ江戸にいて京都へ向けて出発する前であったが、護衛役であるはずの[[土佐勤王党]]が数々の事件を起こしていることに懸念を示し、側近の[[乾退助]]を召して土佐勤王党に代わる[[土佐藩]]上士による「勤王隊」をすぐにでも結成できるか問うた。退助は即座に勤王の志のある上士五十名の名を書いて藩庁に提出。これをもとに[[土佐勤王党]]とは |
[[1862年]]11月下旬([[文久]]2年10月)、[[乾退助]]の親族・[[平井善之丞]]の配慮などがあり、[[武市瑞山]]率いる[[土佐勤王党]]([[中岡慎太郎]]らを含む五十人組)は、[[山内容堂]]上洛の護衛の命を受け土佐を出発した<ref>この時、[[山内容堂]]は江戸におり海路、大坂を経て京都へ向おうとしていた。[[土佐勤王党]]は土佐を出発し大坂、京都で容堂を護衛するつもりであった。</ref>。ところがその途次、1862年12月22日(同年11月2日)、土佐藩下横目(監察史)・広田章次が[[伏見]]で暗殺され<ref>土佐勤王党・千屋菊次郎の日記『再遊筆記』では、前日に[[中岡慎太郎]]が伏見へ向い、事件当日、[[河野万寿弥]]、村田忠三郎が隊を離れて伏見へ向い、事件のあった日の晩に3人揃って京に戻っているため、中岡慎太郎の犯行であったことが疑われている。</ref>、1863年1月4日(文久2年11月15日)小田原で土佐藩士・坂本瀬平との刃傷事件(檜垣清治、田内衛吉による)を起こした。このとき、[[山内容堂]]はまだ江戸にいて京都へ向けて出発する前であったが、護衛役であるはずの[[土佐勤王党]]が数々の事件を起こしていることに懸念を示し、側近の[[乾退助]]を召して土佐勤王党に代わる[[土佐藩]]上士による「勤王隊」をすぐにでも結成できるか問うた。退助は即座に勤王の志のある上士五十名の名を書いて藩庁に提出。これをもとに[[土佐勤王党]]とは異なる[[乾退助]]を隊長とする「上士勤王隊(上士勤王派五十人隊)」が結成され容堂を警護して[[江戸]]を出発した。1863年2月28日(文久3年1月11日)、[[品川]]より出帆。海路を経て[[大坂]]に着岸し[[京]]へ向った<ref name="ishinkeireki" />。 |
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容堂の上洛を待っていた土佐勤王党は、別部隊となる「上士勤王隊」が[[乾退助]]によって突如結成されたことに動揺。[[土佐藩|土佐藩主]][[山内容堂]]が大坂から京に上る途次、1863年3月11日(文久3年1月22日)、容堂が大坂で[[池内大学]]を召して時事談義に及んだ。勤王党員らは、池内大学が[[安政の大獄]]で微罪に処されるにとどまったことから、[[土佐勤王党]]が疎外されたことに加え、池内が佐幕開国派であることをを疑い、容堂と接近することで土佐藩が佐幕派化することに危機感を抱いた<ref name="ansatsumisui">『何度も繰り返し起きた板垣退助暗殺未遂事件 -板垣はいかにこれらの窮地を切り抜けたか-』[[一般社団法人板垣退助先生顕彰会]]</ref>。また乾退助を隊長とする「上士勤王隊」は名ばかりの勤王隊で、実際には佐幕開国を誘導するための乾退助による謀略ではないかと感じ、退助の暗殺を企てた<ref name="bunkyuansatsu" />。 |
容堂の上洛を待っていた土佐勤王党は、別部隊となる「上士勤王隊」が[[乾退助]]によって突如結成されたことに動揺。[[土佐藩|土佐藩主]][[山内容堂]]が大坂から京に上る途次、1863年3月11日(文久3年1月22日)、容堂が大坂で[[池内大学]]を召して時事談義に及んだ。勤王党員らは、池内大学が[[安政の大獄]]で微罪に処されるにとどまったことから、[[土佐勤王党]]が疎外されたことに加え、池内が佐幕開国派であることをを疑い、容堂と接近することで土佐藩が佐幕派化することに危機感を抱いた<ref name="ansatsumisui">『何度も繰り返し起きた板垣退助暗殺未遂事件 -板垣はいかにこれらの窮地を切り抜けたか-』[[一般社団法人板垣退助先生顕彰会]]</ref>。また乾退助を隊長とする「上士勤王隊」は名ばかりの勤王隊で、実際には佐幕開国を誘導するための乾退助による謀略ではないかと感じ、退助の暗殺を企てた<ref name="bunkyuansatsu" />。 |
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概略
暗殺未遂事件とその後の影響
その後の板垣退助暗殺未遂事件
この事件の19年後、1882年︵明治15年︶4月6日、岐阜の神道中教院門前で、相原尚褧が板垣退助の暗殺を謀った板垣退助岐阜遭難が起きている[14]。脚注
参考文献
- 宇田友猪『板垣退助君傳記(第1巻)』原書房、2009年、98頁
- 中元崇智『板垣退助』中央公論新社〈中公新書〉、2020年
- 一般社団法人板垣退助先生顕彰会(編)『何度も繰り返し起きた板垣退助暗殺未遂事件 -板垣はいかにこれらの窮地を切り抜けたか-』自由民権150年記念、2024年、1-6頁
- 板垣退助論述『維新前夜経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』127頁)