「斎藤弘吉」の版間の差分
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== 略歴 == |
== 略歴 == |
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*{{jdate|1899}}、[[山形県]][[西田川郡]]鶴岡一日市町(現・[[鶴岡市]])に、呉服屋の斎藤弘太の長男として生れる。 |
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*{{jdate|1918}}、荘内中学校(現・[[山形県立鶴岡南高等学校]])卒業 |
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*東京美術学校(現・[[東京芸術大学]])卒業 |
*東京美術学校(現・[[東京芸術大学]])卒業 |
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*病気療養中に出会った日本犬に影響を受け、当時絶滅が危惧されていた日本犬の保存活動をする事を決める。 |
*病気療養中に出会った日本犬に影響を受け、当時絶滅が危惧されていた日本犬の保存活動をする事を決める。 |
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*{{jdate|1928}}5月、日本犬保存会を創立し、日本犬の調査を開始する。 |
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**7月、調査中に偶然ハチの存在を知る。 |
**7月、調査中に偶然ハチの存在を知る。 |
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**8月、日本犬保存会、第一回犬籍簿にハチの来歴を掲載する。 |
**8月、日本犬保存会、第一回犬籍簿にハチの来歴を掲載する。 |
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**秋頃、[[群馬県]][[多野郡]][[上野村]]楢原字黒川集落の猟師、飯出庄太郎からチン︵7歳オス︶を譲り受け、この集落近くにある十石峠から名を取り﹁十石号﹂と名付ける。以後、この地域に生息する地犬が﹁[[十石犬]]﹂と呼ばれるようになる。
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**秋頃、[[群馬県]][[多野郡]][[上野村]]楢原字黒川集落の猟師、飯出庄太郎からチン︵7歳オス︶を譲り受け、この集落近くにある十石峠から名を取り﹁十石号﹂と名付ける。以後、この地域に生息する地犬が﹁[[十石犬]]﹂と呼ばれるようになる。
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*{{jdate|1932}}9月、ハチ(数え年10歳)の写真と履歴を日本犬保存会の会誌「日本犬」第一巻二号に発表する。 |
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**10月4日、渋谷駅で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチのことを東京朝日新聞に寄稿した。これが「いとしや老犬物語」として新聞に載り、有名になったハチは人々から「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになる。 |
**10月4日、渋谷駅で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチのことを東京朝日新聞に寄稿した。これが「いとしや老犬物語」として新聞に載り、有名になったハチは人々から「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになる。 |
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*{{jdate|1933}}6月、この頃、弘吉と友人であった同じ東京美術学校出身の[[彫刻家]]・[[安藤照]]より、「ハチ公をモデルにして彫刻をつくり、秋の帝展に出したい」と依頼がある。 |
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*{{jdate|1934}}1月9日、ハチ公銅像建設会が発足し発起人となって募金活動を始める。 |
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**[[3月10日]]、午後5時から[[日本青年館]]で開かれた「ハチ公の銅像建設基金募集の夕」に出席する。 |
**[[3月10日]]、午後5時から[[日本青年館]]で開かれた「ハチ公の銅像建設基金募集の夕」に出席する。 |
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**[[4月21日]]、渋谷駅前にハチ公の銅像が建てられ、除幕式に出席する。 |
**[[4月21日]]、渋谷駅前にハチ公の銅像が建てられ、除幕式に出席する。 |
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**5月、弘吉執筆のハチ事跡概要を、安藤照製作のハチ臥像と共に、[[天皇]]([[昭和天皇]])・[[皇后]]([[香淳皇后]])・[[皇太后]]([[貞明皇后]])に献上する。 |
**5月、弘吉執筆のハチ事跡概要を、安藤照製作のハチ臥像と共に、[[天皇]]([[昭和天皇]])・[[皇后]]([[香淳皇后]])・[[皇太后]]([[貞明皇后]])に献上する。 |
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*{{jdate|1935}}3月8日、ハチ公死亡 |
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*{{jdate|1937}}、日本犬保存会が[[文部省]]から社団法人の認可を受ける。 |
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*{{jdate|1942}}、息子で辻厚成(後に陶芸家)が誕生する。 |
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*{{jdate|1945}}[[5月25日]]、アメリカ軍による[[東京大空襲]]により弘吉の研究室が焼失、ハチ公の[[骨格標本]]などがすべて無くなってしまう。ハチ公像の原型は、安藤照が疎開途中の[[東京駅]]で焼失してしまい、安藤も自宅で焼死する。
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*{{jdate|1947}}、この頃、安藤照の息子で彫刻家の[[安藤士]]より、「ハチ公銅像再建のため、原型をつくりたいので指導してほしい」と依頼がある。この時造られた試作品の[[石膏]]像が、弘吉の出身地である山形県鶴岡市の藤島庁舎(旧[[藤島町]]役場)に展示してある。 |
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*{{jdate|1948}}、社団法人日本動物愛護協会の理事長に就任する。 |
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*[[1949年]]、[[日本哺乳類学会|日本哺乳動物学会]](現日本哺乳類学会)に入会する。 |
*[[1949年]]、[[日本哺乳類学会|日本哺乳動物学会]](現日本哺乳類学会)に入会する。 |
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*[[1952年]]、日本哺乳動物学会委員に就任する。 |
*[[1952年]]、日本哺乳動物学会委員に就任する。 |
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*[[1959年]]、[[東京タワー]]のそばに、弘吉(斎藤弘山)が構成を担当し、安藤士が制作した「南極カラフト犬記念群像」が竣工される。 |
*[[1959年]]、[[東京タワー]]のそばに、弘吉(斎藤弘山)が構成を担当し、安藤士が制作した「南極カラフト犬記念群像」が竣工される。 |
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*[[1963年]]、「全集日本動物誌12」 講談社に「愛犬ものがたり」収録。著書「犬科動物骨格計測法」を出版する。 |
*[[1963年]]、「全集日本動物誌12」 講談社に「愛犬ものがたり」収録。著書「犬科動物骨格計測法」を出版する。 |
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*{{jdate|1964}}、著書「日本の犬と狼」を出版する。 |
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**9月19日、死去。享年65。東京春秋苑公園墓地に墓がある。
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**9月19日、死去。享年65。東京春秋苑公園墓地に墓がある。
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2012年2月14日 (火) 15:37時点における版
さいとう ひろきち 斎藤 弘吉 | |
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生誕 |
1899年(124 - 125歳) 日本 山形県 |
出身校 | 東京美術学校 |
職業 | 研究者、芸術家 |