「書堂」の版間の差分
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== 概要 == |
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[[File:한석봉_천자문.jpg|thumb|260px|書堂で教科書として一般的に使われた『千字文』。[[ハングル]]の訓読が付いている]] |
[[File:한석봉_천자문.jpg|thumb|260px|書堂で教科書として一般的に使われた『千字文』。[[ハングル]]の訓読が付いている]] |
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書堂は李氏朝鮮時代から日本統治時代にかけて、朝鮮の各村に設置されていた。[[書院]]が主に両班(朝鮮時代の貴族)を中心とする上流階級の教育を担ったのに対して、書堂は主に[[郷吏]]([[自作農]]や[[地主]]などから構成される村の役人で、身分は低いが経済力と政治力があった)を中心とする庶民階級の初等教育を担った<ref>[https:// |
書堂は李氏朝鮮時代から日本統治時代にかけて、朝鮮の各村に設置されていた。[[書院]]が主に両班(朝鮮時代の貴族)を中心とする上流階級の教育を担ったのに対して、書堂は主に[[郷吏]]([[自作農]]や[[地主]]などから構成される村の役人で、身分は低いが経済力と政治力があった)を中心とする庶民階級の初等教育を担った<ref>文洪植, 「[https://doi.org/10.20554/nihondaigakukyouikugakkai.24.0_73 韓・日近世庶民教育機関の比較研究 : 書堂と寺子屋・郷学を中心に]」『教育學雑誌』 1990年 24巻 p.73-88, {{doi|10.20554/nihondaigakukyouikugakkai.24.0_73}}</ref>。 |
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書堂の教育内容は[[経学]]・漢籍が中心であったという点で、日本の江戸時代の[[郷学]]に近いが、庶民向けの民間の初等教育機関であったという点で、日本の[[寺子屋]]に比較される。一方書院は、上流階級向けの教育機関であったという点で、日本で主に武士階級が漢籍等を習った[[郷学]]・[[藩校]]に比較される。ただし、一口に「書堂」や「書院」と言ってもいろいろな形態がある。朝鮮時代後期には書院が衰退し、最終的に1871年に全て廃止されたため、あらゆる階層の人間が書堂で初等教育を学ぶようになっている。 |
書堂の教育内容は[[経学]]・漢籍が中心であったという点で、日本の江戸時代の[[郷学]]に近いが、庶民向けの民間の初等教育機関であったという点で、日本の[[寺子屋]]に比較される。一方書院は、上流階級向けの教育機関であったという点で、日本で主に武士階級が漢籍等を習った[[郷学]]・[[藩校]]に比較される。ただし、一口に「書堂」や「書院」と言ってもいろいろな形態がある。朝鮮時代後期には書院が衰退し、最終的に1871年に全て廃止されたため、あらゆる階層の人間が書堂で初等教育を学ぶようになっている。 |
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書堂とは元々[[両班]]の自宅の[[書斎]]のことで、自宅に[[家庭教師]]を住まわせて一族の子弟を教育させたものである。朝鮮時代は通貨経済が十分に発達していなかったので、訓長の生活の面倒を父兄がみたり穀物等の現物支払いする場合が多かった。 |
書堂とは元々[[両班]]の自宅の[[書斎]]のことで、自宅に[[家庭教師]]を住まわせて一族の子弟を教育させたものである。朝鮮時代は通貨経済が十分に発達していなかったので、訓長の生活の面倒を父兄がみたり穀物等の現物支払いする場合が多かった。 |
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書堂の生徒は7歳から16歳の子供たちが中心であったが、書堂によっては20歳 |
書堂の生徒は7歳から16歳の子供たちが中心であったが、書堂によっては20歳から25歳以上の成人が学んでいる場合も多く、生徒の学習レベルに応じてマンツーマン式で異なる内容の授業を行ったので、必ずしも初等教育とは言い切れない。 |
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== 教育内容 == |
== 教育内容 == |
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==関連項目== |
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*[[千字文]] |
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*[[書院]] - 書堂と並ぶ朝鮮時代の民営の教育機関である。 |
* [[書院]] - 書堂と並ぶ朝鮮時代の民営の教育機関である。 |
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*[[寺子屋]] |
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2020年6月18日 (木) 07:50時点における版
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書堂 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 서당 |
漢字: | 書堂 |
発音: | ソダン |
日本語読み: | しょどう |
ローマ字: | Seodang |
概要
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/55/%ED%95%9C%EC%84%9D%EB%B4%89_%EC%B2%9C%EC%9E%90%EB%AC%B8.jpg/260px-%ED%95%9C%EC%84%9D%EB%B4%89_%EC%B2%9C%EC%9E%90%EB%AC%B8.jpg)
教育内容
教育内容は、主に購読・製述・習字の3種類である。 ﹁講読﹂は、﹃童蒙先習﹄﹃通鑑﹄﹃小学﹄﹃四書﹄﹃三経﹄﹃史記﹄﹃唐宋文﹄﹃唐律﹄などの購読を行うのが一般的であり、書堂によっては﹃春秋﹄﹃礼記﹄﹃近思録﹄などの購読が行われることがあった。 ﹁製述﹂は、詩文を教えることで、五言絶句・七言絶句・四律・古体詩・十八句詩・作文などの作法を教えた。 ﹁習字﹂は、まず楷書を習い、次に行書・草書を習った。歴史
起源は高麗時代に遡ることができるが、全国に設置されるようになったのは高麗時代末期から朝鮮王朝時代初期にかけてである。 朝鮮王朝初期には奨励策が取られ、孝宗10年︵1659年︶に成均館の祭酒(大学長)の宋浚吉によって、書堂を各村に均等に置き、成績優秀者には官職を与えるなどの命令が出されたが、李氏朝鮮時代は強固な官尊民卑思想があり、庶民教育が軽視されたので、書堂は王朝後期にかけて衰退していった。 開国後の1883年から日韓併合直前の1908年にかけて約5000校の書堂が設立された。当初、初等教育機関︵普通学校︶の数が十分でなかったため増加をみたが、初等教育機関の普及とともに減少していった。日韓併合の時点で約20000校の書堂が存在したが、日本統治時代になっても存続し、日本式の初等教育と対立した。1918年以降は朝鮮総督府が義務教育制度を強化し、寺子屋のように自然消滅して近代学校制度への転換が進むことを期待したが、日本統治時代末期になっても約3000校が存在した。 独立後は、漢文教養講座、技術学校、学習塾としての道を歩んだ書堂の他は全て消滅し、近代学校制度に一本化された。その他
- 書堂の犬3年で風月を詠む … 「門前の小僧習わぬ経を読む」と言う意味のことわざ。
脚注
- ^ 文洪植, 「韓・日近世庶民教育機関の比較研究 : 書堂と寺子屋・郷学を中心に」『教育學雑誌』 1990年 24巻 p.73-88, doi:10.20554/nihondaigakukyouikugakkai.24.0_73