「東京宝塚劇場 (企業)」の版間の差分
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2020年2月23日 (日) 07:23時点における版
株式會社東京寶塚劇場︵-とうきょうたからづかげきじょう、1932年8月12日 - 1943年12月 改称︶は、かつて東京に存在した日本の演劇・映画会社である。第二次世界大戦前に阪急資本が設立し、日比谷の映画・演劇街を形成する母体となり、東宝の前身となったことで知られる。
略歴・概要
1932年︵昭和7年︶8月、演劇と映画の興行を事業の主目的にして、阪急の創始者・小林一三が設立、社長となった。当時の東京市麹町区日比谷︵現在の東京都千代田区日比谷︶を巨大な劇場街とすべく、まず、東京宝塚劇場と日比谷映画劇場の建設にとりかかり、1933年10月1日に事務所を日比谷三信ビル1階に開設し、1934年︵昭和9年︶の1月1日に前者が完成してオープン、同年1月24日に本社を日比谷映画劇場内に移転し、2月1日に後者が完成してオープンした[1]。 1935年︵昭和10年︶3月14日に日本劇場4階に移転。同年6月には有楽座が完成・オープン、12月1日には日本劇場を所有する﹁日本映画劇場株式会社﹂を合併する。さらには1937年︵昭和12年︶1月8日には東横映画劇場を合併して、その興行的地場を固めた。同年6月9日には塩瀬ビルを買収、東宝ビルと改称、本社を移転。12月1日には由緒ある﹁帝国劇場﹂を経営する﹁帝国劇場株式会社﹂を合併[1]、日比谷の土地の制覇はほぼ完成した。 いっぽう、﹁東宝映画株式会社﹂は同社の系列企業であり、同年6月9日に塩瀬ビルを買収、東宝ビルと改称、本社を移転、9月10日の4社合併と1941年︵昭和16年︶﹁東京発声映画﹂の吸収合併を経て、世田谷区砧地区に3つの撮影所をもつに至り、メジャー映画会社の一角を担う会社に急成長した。これを1943年︵昭和18年︶12月、吸収合併することで、同社は、映画の製作・配給・興行、演劇の興行といった幅広い事業を一貫して総合的に行なう大企業となり、社名を﹁東宝株式会社﹂に改称し、現在に至る[1]。役員
- 小林一三
- 代表取締役社長、相談役(1937年5月8日より)
- 吉岡重三郎
- 専務取締役(1934年8月25日より)、代表取締役社長(1937年5月8日より)
- 渋沢秀雄
- 代表取締役会長(1938年2月28日より)
- 秦豊吉
- 取締役(1935年9月12日より)、専務取締役(1937年5月8日より)
- 岸本兼太郎
- 取締役
- 松岡潤吉
- 取締役
- 鈴木三郎助
- 取締役(1934年8月25日より)
- 吉田卯之助
- 取締役(1935年9月12日より)
- 三島通陽
- 取締役(1935年9月12日より)
- 大川平三郎
- 取締役(1936年1月13日より)
- 今村信吉
- 取締役(1932年8月から1934年8月24日)、監査役(1934年8月25日より)
- 大川義雄
- 取締役(1937年2月27日より)
- 那波光正
- 取締役(1937年8月30日)
- 風間健治
- 取締役(1937年8月30日)
- 山本久三郎
- 取締役(1938年2月28日より)
- 根津嘉一郎
- 相談役(1938年3月18日より)
- 大倉喜七郎
- 相談役(1938年3月18日より)
- 八馬兼介
- 監査役
- 石山賢吉
- 監査役
- 根津嘉一郎
- 相談役(1938年3月18日より)
- 大倉喜七郎
- 相談役(1938年3月18日より)
関連事項
註
- ^ a b c 東宝公式サイト内の「東宝株式会社 IR情報 会社略歴」の記述を参照。
外部リンク
- 東宝株式会社 - 後身・東宝の公式サイト