「林鶴一」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Ttle-recll (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
Straysheep (会話 | 投稿記録) m →外部リンク |
||
(4人の利用者による、間の6版が非表示) | |||
31行目:
|footnotes = <!-- 備考 -->
}}
'''林 鶴一'''︵はやし つるいち、[[1873年]]︵明治6年︶[[6月13日]] - [[1935年]]︵昭和10年︶[[10月4日]]︶は、[[日本の数学者の一覧#19世紀生まれの日本の数学者|日本の数学者]]、[[数学史]]家。[[京都大学#沿革|京都帝国大学]]理工科大学の助教授、[[東北大学#沿革|東北帝国大学]][[理学部|理科大学]]の[[教授]]を務めた<ref name="佐々木">[[#Reference-Yahoo-Encyclopedia-林鶴一|佐々木重夫]]</ref>。 == 略歴 ==
[[徳島県]]生まれ。旧制徳島中学校︵現[[徳島県立城南高等学校]]︶、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]を経て、[[1897年]]︵明治30年︶に[[東京大学#沿革|東京帝国大学]]理科大学数学科を卒業<ref name="佐々木" />。東京帝国大学では[[高木貞治]]・[[吉江琢児]]と同期<ref name="世界大百科事典">[[#Reference-Kotobank-林鶴一|世界大百科事典 第2版]]</ref>であり、[[藤沢利喜太郎]]による﹁[[藤澤セミナリー]]﹂に参加<ref>﹁[[藤澤セミナリー]]﹂とは[[藤沢利喜太郎]]が大学3年生に課題をあたえて1年後に研究した報告をおこなう形式の教育法である。{{Harvtxt|高瀬|2010|pp=92-102}}</ref>して、﹁[[ネイピア数|''e'']]及び[[円周率|''π'']]の超越に就て﹂という課題の報告を提出した<ref>[[1897年]]︵明治30年︶[[10月13日]]付けの日付の﹃藤澤教授セミナリー演習録﹄第2冊には、林鶴一﹁[[ネイピア数|''e'']]及び[[円周率|''π'']]の超越に就て﹂・[[吉江琢児]]﹁[[等角写像|似真写影]]﹂・[[高木貞治]]﹁[[アーベル方程式]]につきて﹂が収録されている。{{Harvtxt|高瀬|2010|pp=93, 97f}}</ref>。 東京帝国大学卒業後に[[京都帝国大学]]理工科大学の助教授を務めたが、その職を辞し、[[松山中学校]]の教師や[[東京高等師範学校]]の講師に就いていた<ref name="佐々木" />。その後、[[1911年]]︵明治44年︶4月に[[東北帝国大学]]理科大学に教授として迎えられる。同年8月、私費を投じて日本最初の数学専門誌﹃[[東北数学雑誌]]﹄を創刊し、東北帝大の教員の研究成果だけではなく、広く世界︵日英独仏伊の5ヶ国︶に論文の募集を行い、その後の日本の数学の発展に大きく貢献した。 69行目:
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はやし つるいち}}
[[Category:19世紀日本の数学者]]
[[Category:20世紀日本の数学教育者]]
[[Category:日本の中等教育の教員]]
[[Category:戦前日本の学者]]
▲[[Category:19世紀の数学者|730613]]
▲[[Category:20世紀の数学者|-730613]]
[[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]]
[[Category:京都大学の教員]]
[[Category:東京
[[Category:東北大学の教員]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:旧制第三高等学校出身の人物]]
[[Category:徳島県立城南高等学校出身の人物]]
[[Category:徳島県出身の人物]]
[[Category:従七位受位者]]
[[Category:和算|研はやし つるいち]]
[[Category:1873年生]]
[[Category:1935年没]]
[[Category:数学に関する記事]]
|
2024年1月20日 (土) 07:34時点における最新版
林 鶴一 (はやし つるいち) | |
---|---|
生誕 |
1873年6月13日 徳島県徳島市 |
死没 | 1935年10月4日(62歳没) |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 数学、数学教育、和算 |
研究機関 | 京都帝国大学、東北帝国大学理科大学 |
出身校 | 東京帝国大学理科大学数学科卒業 |
主な業績 | 『東北数学雑誌』の創刊、日本中等教育数学会の創立、和算研究 |
影響を 受けた人物 | 河合十太郎、菊池大麓、藤沢利喜太郎、川北朝鄰 |
プロジェクト:人物伝 |
林 鶴一︵はやし つるいち、1873年︵明治6年︶6月13日 - 1935年︵昭和10年︶10月4日︶は、日本の数学者、数学史家。京都帝国大学理工科大学の助教授、東北帝国大学理科大学の教授を務めた[1]。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b3/Seki_Takakazu.jpg/220px-Seki_Takakazu.jpg)
関孝和の切手。背景は行列式の図。
数学に関する幅広い知識を持っており、教科書・啓蒙書の著作も多数存在する。晩年には和算の研究家としても活躍し、1917年︵大正6年︶には長澤龜之助とともに川北朝鄰から関流八伝免許状を授与された。和算の研究では、関孝和の﹁解伏題之法﹂に世界最初の行列式の理論が含まれていることを発見した[1][5]。さらに、日本中等教育数学会︵現日本数学教育学会︶を設立し、中学校教師の資質の向上に力を尽くした。
ウィキソースには、林鶴一の著作リストがあります。
略歴[編集]
徳島県生まれ。旧制徳島中学校︵現徳島県立城南高等学校︶、第三高等学校を経て、1897年︵明治30年︶に東京帝国大学理科大学数学科を卒業[1]。東京帝国大学では高木貞治・吉江琢児と同期[2]であり、藤沢利喜太郎による﹁藤澤セミナリー﹂に参加[3]して、﹁e及びπの超越に就て﹂という課題の報告を提出した[4]。 東京帝国大学卒業後に京都帝国大学理工科大学の助教授を務めたが、その職を辞し、松山中学校の教師や東京高等師範学校の講師に就いていた[1]。その後、1911年︵明治44年︶4月に東北帝国大学理科大学に教授として迎えられる。同年8月、私費を投じて日本最初の数学専門誌﹃東北数学雑誌﹄を創刊し、東北帝大の教員の研究成果だけではなく、広く世界︵日英独仏伊の5ヶ国︶に論文の募集を行い、その後の日本の数学の発展に大きく貢献した。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b3/Seki_Takakazu.jpg/220px-Seki_Takakazu.jpg)
栄典[編集]
●1898年︵明治31年︶9月30日 - 従七位[6]著作[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/15px-Wikisource-logo.svg.png)