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'''森 春濤'''︵もり しゅんとう、[[文政]]2年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]︵[[1819年]][[4月25日]]︶ - [[明治]]22年︵[[1889年]]︶[[11月21日]]︶は、[[江戸時代|江戸]][[幕末]]期より[[明治]]初期にかけての[[漢詩人]]。名は魯直、字は希黄、通称は浩甫、号は春濤。漢詩人・[[森槐南]]の父。
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'''森 春濤'''︵もり しゅんとう、[[文政]]2年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]︵[[1819年]][[4月25日]]︶ - [[明治]]22年︵[[1889年]]︶[[11月21日]]︶は、[[江戸時代|江戸]][[幕末]]期より[[明治]]初期にかけての[[漢詩人]]。名は魯直<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=森春濤 |url=https://www.city.kasugai.lg.jp/shisetsu/bunka/tofu/syuzouhin/morisyun.html |website=春日井市公式ホームページ |access-date=2022-08-20 |language=ja}}</ref>、字は希黄<ref name=":0" />、通称は浩甫、号は春濤、方天、古愚。幼名は泰一郎、元雄、春道。漢詩人・[[森槐南]]の父。
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==生涯== |
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[[尾張国|尾張]]一の宮(現[[愛知県]][[一宮市]])の医者・森一鳥の子として生まれる。代々医者の家柄であったので、父は春濤も医師とするべく、眼科医として有名だった親戚の中川氏に預ける。ところが春濤は医学を顧みず、[[浄瑠璃]]本を耽読し、根負けした養家に『幼学詩韻』という書物を与えられることによって作詩の才能が開かれた。 |
[[尾張国|尾張]]一の宮(現[[愛知県]][[一宮市]])の医者・森一鳥の子として生まれる。代々医者の家柄であったので、父は春濤も医師とするべく、眼科医として有名だった親戚の中川氏に預ける。ところが春濤は医学を顧みず、[[浄瑠璃]]本を耽読し、根負けした養家に『幼学詩韻』という書物を与えられることによって作詩の才能が開かれた。 |
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17歳の時に尾張国丹羽村の鷲津益斎に入門し、後の[[大沼枕山]]と出会い互いに切磋琢磨し、双璧と称せられる。[[1835年]]に故郷に帰り詩作に励む。[[1850年]]に京都に行き、[[梁川星巌]]の門下となる。[[1842年]]に江戸に遊歴し、大沼枕山と旧交を温め、[[小野湖山]]・[[遠山雲如]]・[[鈴木松塘]]・釈梅痴の諸家と相知る。 |
17歳の時に尾張国[[丹羽郡|丹羽村]]の[[鷲津益斎]]に入門し、後の[[大沼枕山]]と出会い互いに切磋琢磨し、双璧と称せられる。[[1835年]]に故郷に帰り詩作に励む。[[1850年]]に京都に行き、[[梁川星巌]]の門下となる<ref name=":0" />。[[1842年]]に江戸に遊歴し、大沼枕山と旧交を温め、[[小野湖山]]・[[遠山雲如]]・[[鈴木松塘]]・[[釈梅痴]]の諸家と相知る。
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[[1862年]]から[[名古屋市|名古屋]]・[[福井市|福井]]・[[越後国|越後]]などを転々とし、[[1874年]]に東京へ移住、その翌年に下谷摩利支天横町︵現[[東京都]][[台東区]][[上野]]4丁目︶に居を構える。[[仲御徒町]]に下谷吟社を開いていた大沼枕山にならって、春濤は茉莉吟社を結成し、その年の7月から﹃新文詩﹄という月刊誌を発行 |
[[1862年]]から[[名古屋市|名古屋]]・[[福井市|福井]]・[[越後国|越後]]などを転々とし、[[1874年]]に東京へ移住、その翌年に下谷摩利支天横町︵現[[東京都]][[台東区]][[上野]]4丁目︶に居を構える。[[仲御徒町]]に下谷吟社を開いていた大沼枕山にならって、春濤は茉莉吟社を結成し<ref name=":0" />、その年の7月から﹃新文詩﹄という月刊誌を発行<ref name=":0" />。同誌は諸名家の詩文を掲載して、[[1883年]]まで継続した。
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[[1874年]]9月、[[鍋島閑叟]]・[[山内容堂]]・[[松平春嶽]]の諸侯をはじめとして、明治漢詩壇を代表する166人の詩を網羅した詩集『東京才人絶句』を編纂し、大いに世に迎えられた。[[1877年]]から[[清|清朝]]の詩([[張船山]]・[[陳碧城]]・[[郭頻伽]])を集めて発行し、紹介に努める。 |
[[1874年]]9月、[[鍋島直正|鍋島閑叟]]・[[山内容堂]]・[[松平春嶽]]の諸侯をはじめとして、明治漢詩壇を代表する166人の詩を網羅した詩集『東京才人絶句』を編纂し、大いに世に迎えられた。[[1877年]]から[[清|清朝]]の詩([[張船山]]・[[陳碧城]]・[[郭頻伽]])を集めて発行し、紹介に努める。 |
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門下として[[丹羽花南]]・[[奥田香雨]]・永坂石埭・神波即山・徳山樗堂・杉山三郊・橋本蓉塘・[[岩渓裳川]]・永井三橋などが数えられる。 |
門下として[[丹羽花南]]・[[奥田香雨]]・[[永坂石埭]]・[[神波即山]]・[[徳山樗堂]]・[[杉山三郊]]・[[橋本蓉塘]]・[[岩渓裳川]]・[[永井三橋]]などが数えられる。 |
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[[胃癌]]と[[マラリア]]により死去<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)321頁</ref>。享年71。谷中の[[経王寺 (荒川区)|経王寺]]([[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]])に葬られた。 |
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==詩集== |
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*『雲漢霓裳集』・『江山有待集』・『千里帰来集』・『遊仙集』 |
*『雲漢霓裳集』・『江山有待集』・『千里帰来集』・『遊仙集』 |
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*『春濤詩鈔』(1912年、文会堂書店) |
*『春濤詩鈔』(1912年、文会堂書店) |
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*『明治漢詩文集』(1983年、[[筑摩書房]]・明治文学全集62巻) |
*『明治漢詩文集』(1983年、[[筑摩書房]]・明治文学全集62巻) |
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*[[入谷仙介]]『近代文学としての明治漢詩』(1989年、研文出版) |
*[[入谷仙介]]『近代文学としての明治漢詩』(1989年、研文出版) |
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*[[永井荷風]]『下谷叢話』(2000年、[[岩波文庫]]) |
*[[永井荷風]]『下谷叢話』(2000年、[[岩波文庫]]) |
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2023年11月25日 (土) 18:57時点における最新版
生涯[編集]
尾張一の宮︵現愛知県一宮市︶の医者・森一鳥の子として生まれる。代々医者の家柄であったので、父は春濤も医師とするべく、眼科医として有名だった親戚の中川氏に預ける。ところが春濤は医学を顧みず、浄瑠璃本を耽読し、根負けした養家に﹃幼学詩韻﹄という書物を与えられることによって作詩の才能が開かれた。 17歳の時に尾張国丹羽村の鷲津益斎に入門し、後の大沼枕山と出会い互いに切磋琢磨し、双璧と称せられる。1835年に故郷に帰り詩作に励む。1850年に京都に行き、梁川星巌の門下となる[1]。1842年に江戸に遊歴し、大沼枕山と旧交を温め、小野湖山・遠山雲如・鈴木松塘・釈梅痴の諸家と相知る。 1862年から名古屋・福井・越後などを転々とし、1874年に東京へ移住、その翌年に下谷摩利支天横町︵現東京都台東区上野4丁目︶に居を構える。仲御徒町に下谷吟社を開いていた大沼枕山にならって、春濤は茉莉吟社を結成し[1]、その年の7月から﹃新文詩﹄という月刊誌を発行[1]。同誌は諸名家の詩文を掲載して、1883年まで継続した。 1874年9月、鍋島閑叟・山内容堂・松平春嶽の諸侯をはじめとして、明治漢詩壇を代表する166人の詩を網羅した詩集﹃東京才人絶句﹄を編纂し、大いに世に迎えられた。1877年から清朝の詩︵張船山・陳碧城・郭頻伽︶を集めて発行し、紹介に努める。 門下として丹羽花南・奥田香雨・永坂石埭・神波即山・徳山樗堂・杉山三郊・橋本蓉塘・岩渓裳川・永井三橋などが数えられる。 胃癌とマラリアにより死去[2]。享年71。谷中の経王寺︵東京都荒川区西日暮里︶に葬られた。詩集[編集]
- 『蘆花漁笛集』・『海門釣庵集』・『人日草堂集』・『松雨莊人集』・『閏在正月集』・『千嵓萬壑集』・『九十九橋集』・『港雲楼雨集』・『桃花流水集』・『敗柳残荷集』
- 『雲漢霓裳集』・『江山有待集』・『千里帰来集』・『遊仙集』
- 『春濤詩鈔』(1912年、文会堂書店)