楠目玄
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a8/Kuzume_Gen.jpg/220px-Kuzume_Gen.jpg)
楠目 玄︵くずめ[1] / くすめ[2] げん、1862年7月13日︵文久2年6月17日[1][3][4][注釈 1]︶- 1938年︵昭和13年︶1月7日[1][注釈 2]︶は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、自由民権運動家。衆議院議員、高知県香美郡大楠植村長。初名・馬太郎[1]。
来歴
土佐国香美郡楠目村︵高知県[2]香美郡大楠植村[1][5][6]大字楠目[4]、土佐山田町[1]を経て現香美市土佐山田町楠目︶で、楠目久米作、兼の長男として生まれる[1]。小学校、旧制中学校を卒業[4]。農業を営む[2]。 1882年︵明治15年︶から自由民権運動に加わり[1]、1887年︵明治20年︶政談演説会弁士として活動した[1]。同年、香美郡63カ村総代として三大事件建白運動で上京し、保安条例違反として退去命令を受けたが拒否したため投獄された[1][5]。1889年︵明治22年︶大赦令により出獄し[1]、帰郷して大楠植村長に就任し﹁玄﹂に改名した[1]。1891年︵明治24年︶高知県会議員に就任[1][4]。その他、香美郡会議員、同議長も務めた[2]。同年12月、衆議院が解散すると民党と吏党の対立が激化。熾烈な選挙戦の中、放火や脅迫、新聞の発行停止、演説会の中止などの選挙干渉事件が起きた。 1892年︵明治25年︶2月12日、板垣退助が関西遊説中、神戸三ノ宮で拳銃を持った兇漢に命を狙われた明治25年板垣退助暗殺未遂事件が起きると、楠目も反対派に斬られ重傷を負った[7]。 1894年︵明治27年︶日清戦争では新聞記者として従軍した[2][4]。帰国後、東京法学院︵英吉利法律学校後身、現中央大学︶で法律を学び、1899年︵明治32年︶に卒業した[2][4][5]。 1902年︵明治35年︶8月の第7回衆議院議員総選挙で高知県郡部から無所属で出馬して初当選し[1][4][8]立憲政友会から除名された[1][5]。1904年︵明治37年︶1月の第9回総選挙︵高知県郡部︶では板垣退助の新興自由党から出馬して再選された[1][8]。1906年︵明治39年︶政友会に戻り[1]衆議院議員に通算2期在任した[2]。 1907年︵明治40年︶、板垣退助の興した﹁社会改良会﹂の顧問に就任した[1]。脚注
注釈
出典
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 『新選代議士列伝』金港堂、1902年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。