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正田家の遠祖は[[新田義重]]の[[武士|家臣]]生田隼人であると称している。後世、世良田にいた正田家の人が館林に移って[[商人]]になった。館林における始祖は“六三郎”であり、[[江戸時代]]には代々﹁米文﹂の[[暖簾]]のもとに[[米]][[問屋]]を家業とし、上州[[館林]]および近郊きっての富商であった。﹁米文﹂の名声は[[江戸]]だけでなく[[大阪]]方面まで聞こえていたという。[[弘化]]の頃︵[[1844年]] - [[1847年]]︶には[[名主]]の職にあり、[[名字帯刀]]を許されていた。[[文政]]元年︵[[1818年]]︶7月に生まれた文右衛門(3代目)は正田家“中興の祖”といわれている。文右衛門は[[明治]]6年︵[[1873年]]︶[[米屋|米穀商]]を辞め[[醤油]][[醸造]]業を始めた。貞一郎は館林製粉を創立して製粉業を始め醤油醸造業は本家筋が引き継いだ<ref>﹃正田貞一郎小伝﹄ 9-21頁</ref>。
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2009年11月26日 (木) 04:11時点における版
正田 貞一郎︵しょうだ ていいちろう、明治3年2月28日︵1870年︶3月29日 - 昭和36年︵1961年︶11月9日︶は、日本の実業家。日清製粉創業者。元東武鉄道会長。元貴族院議員。群馬県館林市名誉市民。正五位勲三等。
美智子皇后、日清製粉グループ本社会長・正田修の祖父。
略年譜
●1870年 2月28日 - 横浜に父・正田作次郎、母・幸の長男として生まれる[1]。父・作次郎は結婚後間もなく横浜へ出て外国米の輸入等の商売をしていた ●1871年 5月22日 - 父・作次郎、風邪がもとで急逝する 享年26母とともに郷里の群馬県館林に戻り祖父・正田文右衛門(3代目)の下で育つ ●1873年 - 正田文右衛門(3代目)、醤油醸造業始める ●1875年 4月 - 館林西尋常小学校に入学 ●1879年 3月 - 館林西尋常小学校を卒業 ●1884年 - 高等商業学校入学準備のため上京 ●1887年 7月 - 高等商業学校予科入学 ●1891年 7月 - 高等商業学校︵現・一橋大学︶本科三年を卒業、醤油醸造業に従事 ●1897年 - 館林実業談話会を創立 12月8日 - 正田文右衛門(5代目)の長女・きぬと結婚 ●1900年 10月 - 館林製粉株式会社を創立、社長は置かず、専務取締役となる ●1901年 5月3日 - 試運転、創立記念日とする 12月 - 館林製粉会社、臨時総会を開いて役員を改選し根津嘉一郎 (初代)、浅田正文、茂木啓三郎等中央財界に名前の通った人を役員とする 取締役社長に根津嘉一郎 (初代)が就任する ●1907年 - 東京市小石川区小日向台町︵現・文京区︶に居を構える 11月 - 旧日清製粉株式会社を合併 ●1913年 1月28日 - 初の外遊 ●1924年 6月 - 日清製粉取締役社長に就任 ●1929年 6月 - アメリカ、カナダの製粉業を視察 オリエンタル酵母工業株式会社を創立 ●1931年 8月 - 日本栄養食料株式会社創立 ●1936年 2月 - 日清製糸株式会社を創立 8月 - 朝鮮製粉株式会社を創立 以後満州、北支に進出 12月 - 日清製粉株式会社取締役会長に就任︵~1947年6月︶ ●1937年 5月 - 朝鮮、満州を視察 ●1940年 4月 - 中外興業株式会社創立 ●1941年 7月 - 財団法人農産化学研究会創立 ●1942年 11月 - 東武鉄道株式会社取締役会長に就任 ●1943年 5月 - 社団法人如水会理事長に就任 ●1946年 7月 - 貴族院議員に勅撰される ●1948年 2月 - 日清製粉会社が過度経済力集中排除法に基づく対象指定を受ける ●1949年 6月 - 日清製粉相談役に就任 社が集中排除法指定対象取り消しとなる 12月 - カトリック関口教会で洗礼を受ける ●1955年 4月 - 太平食品株式会社創立 ●1956年 11月 - 藍綬褒章受章 ●1959年 4月12日 - 皇太子︵明仁親王︶結婚の内宴 ●1961年 11月9日 - 逝去、“享年92︵満91歳没︶”[利用者の方へ] 葬儀は東京四谷聖イグナチオ教会で日清製粉会社社葬として執行される 正五位勲三等に叙せられ、旭日中綬章を授けられる家族・親族
●祖父 文右衛門 (3代)︵商人︶ ●父 作次郎 ●母 幸 ●妻 きぬ︵群馬県、正田文右衛門(5代)長女︶ ●長男 明一郎 ●長女 はる ●二男 建次郎︵学者・大阪大学長、武蔵大学長︶ ●二女 勅子︵学者・東京大学名誉教授水島三一郎夫人︶ ●三男 英三郎︵実業家・日清製粉名誉会長︶ ●三女 祐子︵和歌山県、実業家脇村禮次郎夫人︶ ●四男 順四郎 ●四女 千鶴子 ●五男 篤五郎︵学者・東京大学教授︶ ●五女 和子 ●孫 彬、紘、美智子皇后、修等系譜
正田家の遠祖は新田義重の家臣生田隼人であると称している。後世、世良田にいた正田家の人が館林に移って商人になった。館林における始祖は“六三郎”であり、江戸時代には代々﹁米文﹂の暖簾のもとに米問屋を家業とし、上州館林および近郊きっての富商であった。﹁米文﹂の名声は江戸だけでなく大阪方面まで聞こえていたという。弘化の頃︵1844年 - 1847年︶には名主の職にあり、名字帯刀を許されていた。文政元年︵1818年︶7月に生まれた文右衛門(3代目)は正田家“中興の祖”といわれている。文右衛門は明治6年︵1873年︶米穀商を辞め醤油醸造業を始めた。貞一郎は館林製粉を創立して製粉業を始め醤油醸造業は本家筋が引き継いだ[2]。六三郎…(略)…文右衛門━┳文右衛門 ┃ ┃ ┗━作次郎━━貞一郎━━┳明一郎 ┣はる ┣建次郎 ┣勅子 ┣英三郎━┳巌 ┣祐子 ┣美智子 ┣順四郎 ┣恵美子 ┣千鶴子 ┗修 ┣篤五郎 ┗和子
関連項目
関連人物
外部リンク
参考文献
- 正田貞一郎小伝刊行委員会 『正田貞一郎小伝』 非売品 1965年
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 220-223頁
- 『大正人名辞典Ⅱ下巻(底本大衆人事録 昭和三年版)』 日本図書センター 1989年 シ24頁
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房 2001年 274-278頁
- 神一行 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 角川文庫 2002年 381-393頁