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'''毛利 匡広'''︵もうり まさひろ、[[延宝]]3年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]︵[[1675年]][[12月27日]]︶- [[享保]]14年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]]︵[[1729年]][[10月11日]]︶︶は、[[長門国|長門]][[長府藩]]の第6代藩主。元は長門[[清末藩]]の第2代藩主で、この時の名乗りは'''毛利 元平'''︵もうり もとひら︶。
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'''毛利 匡広'''︵もうり まさひろ、[[延宝]]3年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]︵[[1675年]][[12月27日]]︶- [[享保]]14年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]]︵[[1729年]][[10月11日]]︶︶は、[[長門国|長門]][[長府藩]]の第6代藩主。元は長門[[清末藩]]の第2代藩主で、この時の名乗りは'''毛利 元平'''︵もうり もとひら︶。
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清末藩初代藩主・[[毛利元知]]の次男。母は小笠原氏︵真光院︶。正室は[[毛利綱広]]の娘・放光院。側室に多喜氏、飯田氏、下村氏。子に[[毛利師就]]︵五男︶、[[毛利政苗]]︵七男︶、[[毛利広定|毛利広胖︵広定︶]]︵八男︶、[[毛利重就]]︵十男︶、[[増山正贇]]︵十一男︶、娘︵[[有馬一準]]正室︶、娘︵平野長喜養女︶。官位は従五位下、[[甲斐国|甲斐]]守。幼名は権三郎。
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清末藩初代藩主・[[毛利元知]]の次男。母は[[小笠原氏]]︵真光院︶。正室は[[毛利綱広]]の娘・放光院。側室に多喜氏、飯田氏、[[下村氏]]。子に[[毛利師就]]︵五男︶、[[毛利政苗]]︵七男︶、[[毛利広定|毛利広胖︵広定︶]]︵八男︶、[[毛利重就]]︵十男︶、[[増山正贇]]︵十一男︶、娘︵[[有馬一準]]正室︶、娘︵平野長喜養女︶。官位は従五位下、[[甲斐国|甲斐]]守。幼名は権三郎。
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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本家筋にあたる長府藩主家を継いだ元平は名を'''匡広'''と改名した。﹁匡﹂の字は祖先の[[大江匡衡]]や[[大江匡房]]の[[偏諱]]に由来し、この字を使用したのは、[[毛利秀元|秀元]]流長府藩主家では吉元の二人の弟、[[本多忠次|毛利匡英︵本多忠次︶]]・[[毛利匡以|匡以]]︵まさもち︶に続いて三人目、歴代藩主の中では初となる︵以降、十男の[[毛利重就|匡敬︵重就︶]]やその子である[[毛利匡満|匡満]]、[[毛利匡芳|匡芳]]も用いている︶。
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本家筋にあたる長府藩主家を継いだ元平は名を'''匡広'''と改名した。﹁匡﹂の字は祖先の[[大江匡衡]]や[[大江匡房]]の[[偏諱]]に由来し、この字を使用したのは、[[毛利秀元|秀元]]流長府藩主家では吉元の二人の弟、[[本多忠次|毛利匡英︵本多忠次︶]]・[[毛利匡以|匡以]]︵まさもち︶に続いて三人目、歴代藩主の中では初となる︵以降、十男の[[毛利重就|匡敬︵重就︶]]やその子である[[毛利匡満|匡満]]、[[毛利匡芳|匡芳]]も用いている︶。
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元平︵匡広︶が長府藩主家を継いだことにより、清末藩は一時的に断絶する︵のち七男・[[毛利政苗|政苗]]が再興︶。また、長府藩の家格は無城に落とされるが、後年旧来の5万石に復し家格も城主格とされた。
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元平︵匡広︶が長府藩主家を継いだことにより、清末藩は一時的に断絶する︵のち七男・[[毛利政苗|政苗]]が再興︶。また、長府藩の家格は無城に落とされるが、後年に旧来の5万石に復して家格も城主格とされた。
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享保5年︵[[1720年]]︶5月に5万石となる。藩政では藩財政再建のために倹約令を出したが、[[享保の大飢饉]]で大被害を受けたため、さらに倹約を厳しくせざるを得なくなった。さらに農業を奨励した。絵画に通じ、自画像を残している。享保14年︵1729年︶9月19日、[[長府]]で死去し、跡を五男・[[毛利師就|親就︵師就︶]]が継いだ。
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享保5年︵[[1720年]]︶5月に5万石となる。藩政では藩財政再建のために倹約令を出したが、[[享保の大飢饉]]で大被害を受けたため、さらに倹約を厳しくせざるを得なくなった。さらに農業を奨励した。絵画に通じ、自画像を残している。享保14年︵1729年︶9月19日、[[長府]]で死去し、跡を五男・[[毛利師就|親就︵師就︶]]が継いだ。
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2014年1月2日 (木) 09:06時点における版
毛利 匡広︵もうり まさひろ、延宝3年11月11日︵1675年12月27日︶- 享保14年9月19日︵1729年10月11日︶︶は、長門長府藩の第6代藩主。元は長門清末藩の第2代藩主で、この時の名乗りは毛利 元平︵もうり もとひら︶。
清末藩初代藩主・毛利元知の次男。母は小笠原氏︵真光院︶。正室は毛利綱広の娘・放光院。側室に多喜氏、飯田氏、下村氏。子に毛利師就︵五男︶、毛利政苗︵七男︶、毛利広胖︵広定︶︵八男︶、毛利重就︵十男︶、増山正贇︵十一男︶、娘︵有馬一準正室︶、娘︵平野長喜養女︶。官位は従五位下、甲斐守。幼名は権三郎。