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享保の大飢饉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
享保の大飢饉
仏心寺(佐賀市大財)の享保の飢饉供養塔「本州庶民餓死累葬之墓」
日本の旗 日本
地域 伊勢国近江国以西の西日本各地(特に西海道の被害が深刻)[1]
期間 1732年享保17年)、徳川吉宗治世、江戸時代
飢餓死者数 1万2,000人(飢民は幕領内67万人、諸藩は197万人。死畜は14,000頭)[1]
総死者数 1万2,000人
主要因 蝗害(ウンカの害)[1]
救援物資 天領の租米を供出、関東諸国・信濃国出羽国陸奥国より米を購入して支援[1]。(大名に対しては金銀貸与・在府諸役免除・参勤の緩和。)
住民への影響 農村部で百姓一揆(1732年だけで18件)。米価高騰により都市部で打ちこわし
結果 米価引き上げ政策を転換して引き下げ政策を実施[1]救荒作物としてサツマイモが注目される[1]


[]


17311617321756[1]17655173225[2]

56[2]2[3][1][3]

西西[1]沿[3]

西4646236276312000[1][ 1]67197250[1][1]17311732[2]10[5]

100[6]

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173318[1]2, 3000[1]8[1][1]17405111[7]

救済と慰霊[編集]

つんなんごう、つんなんごう、荒戸の浜までつんなんごう
- 施粥を求めて海浜部に向かった農民が歌った民謡[2]
荒戸に近い[注釈 2]荒津の海浜部

[1]173274西[2][5][8][2]

[9]

[]


沿[1]60[4]

[4][10]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 飢饉に見舞われた西国諸藩があえて幕府に少なく報告したとする説があり、そのため実際にはもっと多い可能性がある。19世紀初頭成立の『徳川実紀』や『徳川十五代史』では餓死者96万9900人としているが、この数字は過大である[4]
  2. ^ 民謡に歌われた荒戸は、近代以降の埋め立てで内陸になっている。

出典[編集]



(一)^ abcdefghijklmnopqr1979p.552

(二)^ abcdef-  1983 P.99-100

(三)^ abc1974pp.276-277

(四)^ abc1974pp.235-238

(五)^ ab . 202287

(六)^ 1974pp.282-283

(七)^ -  1983 P.101-102

(八)^ . 202287

(九)^ 2018186193

(十)^ |(2007112)2020223

[]


3 -197911 

17︿19746ISBN 4-12-200111-0 

[]


 - 

.  . 2022116