「水郡善之祐」の版間の差分
編集の要約なし |
m 外部リンクの修正 (www.sankei.com) (Botによる編集) |
||
(14人の利用者による、間の30版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
'''水郡 善之祐'''(にごり ぜんのすけ、[[文政]]9年([[ |
'''水郡 善之祐'''︵にごり ぜんのすけ、[[文政]]9年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]︵[[1827年]][[1月9日]]︶ - [[元治]]元年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]︵[[1864年]][[8月21日]]︶︶は、[[幕末]]の[[勤皇|勤皇家]]。[[河内国|河内]]の大庄屋・神主であり、[[天誅組]]河内勢の首魁として知られる。諱は長雄、姓は紀氏であり[[紀有常]]の後裔を称する。贈[[正五位]]。
|
||
==経歴== |
|||
諱は長雄。姓は紀氏という。[[来孫]]の名前は田中瑞基。
|
|||
===前史=== |
|||
⚫ | |||
黒船来航以後、志士の動きに共鳴して京都に上るも、[[文久]]3年([[1863年]])「[[足利三代木像梟首事件]]」に関与し帰郷する。京都で[[天誅組]]が旗揚げした際には、邸宅がある甲田村のほか富田林村や長野村などから17名を集め、南河内の勤皇志士たちに財政面で大きな貢献をした<ref name="河内幻視行">[https://www.sankei.com/article/20130311-JHYIET5Z75JTJLTT6DR35QL4NY/2/ 【河内幻視行】甲田 「天誅組」あえなく賊軍に - 産経WEST - 産経ニュース]2019年2月15日 閲覧</ref>。 |
|||
⚫ | 喜田岩五郎の長男に生まれ、水郡神社の祠官となり氏を水郡と改める。豪農で[[伊勢国]][[神戸藩]]の代官(大庄屋)を勤めたため士籍に列する。 |
||
勤皇の志が強く、志士達を金銭的に援助していた。水郡家(喜田家)は代々[[勤皇]]の家で彼の祖父も幕政批判の咎で捕えられている。 |
|||
===天誅組の変=== |
|||
黒船来航以後、志士の動きに共鳴して京都に上るも、[[文久]]3年([[1863年]])「[[足利三代木像梟首事件]]」 に関与し帰郷する。 |
|||
文久3年(1863年)8月17日の[[天誅組の変]]に際しては、自らも息子の英太郎(当時13歳)とともに挙兵に参加した<ref name="水郡邸">[https://www.city.tondabayashi.lg.jp/site/bunkazai/2544.html 大阪府指定史跡『水郡邸』 - 富田林市役所ウェブサイト]2019年2月15日 閲覧</ref>。挙兵直前には水郡邸にて[[中山忠光]]と会見し軍議を練り、善之祐は[[小荷駄奉行]]としてヴェール銃や槍などで完全武装した70人ともに行動した<ref name="水郡邸" />。しかし、挙兵からまもなく[[八月十八日の政変]]をきっかけに天誅組が幕府から逆賊として追討される立場になると、善之祐ら河内勢は追討軍の陣屋を奇襲して物資を調達するなど善戦していたものの、次第に主将の中山らと隊の方針や軍略について対立するようになり、天誅組が[[天辻峠|天ノ辻]]へと本陣を移して以降は、二度に渡って本隊から置き去りにされるなどぞんざいな扱いを受けるなどして、とうとう天誅組に見切りをつけ、天ノ辻に敷いていた本陣を撤退するに当たり、中山や他の勤王志士達([[吉村虎太郎]]、[[那須信吾]]ら土佐勢や[[伴林光平]]率いる大和勢など)とは別方面に逃亡する形で離脱。[[高野山]]を経て紀州方面へと逃亡を図った。だが、畿内各藩の追討軍の包囲網に行く手を塞がれ、さらに追討軍に内通した地元の村人に寝込みを襲われる形で爆殺されそうになり、英太郎をはじめ同志数人が負傷するなどして、進退窮まった事を悟った善之祐達は、[[龍神村]]にある紀州藩屯所に自首した後、京都へ護送され[[六角獄舎]]にて処刑された<ref name="河内幻視行" />。これは、[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]([[8月21日]])の[[禁門の変]]の際に生じた[[どんどん焼け]]で獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに[[斬首]]されたものである。 |
|||
辞世の歌は「皇國のためにぞつくすまごころは知るひとぞ知る神や知るらん」。途中で挙兵に加わった大和勢の首魁にして[[国学者]]である伴林光平は、後に善之祐の人格を「性沈黙豪胆年来慨世の志深く」と評した<ref name="河内幻視行" />。 |
|||
[[文久]]3年([[1863年8月17日]])[[天誅組]]の挙兵に際しては、財政面で大きな貢献をしたのみならず、自らも息子英太郎(当時11歳)とともに参加、[[小荷駄奉行]]となっている。 |
|||
[[天誅組]]崩壊の後捕えられ、京都[[六角獄]]にて処刑された。死後[[勤皇]]の忠臣として、明治31年(1898年)に贈[[正五位]]を賜った。 |
|||
[[和歌山県]][[田辺市]]龍神村には善之祐らが自首後に監禁された倉が「天誅倉」として残っており、善之祐の辞世を刻んだ柱がある<ref>[http://www.ryujin-kanko.jp/contents/miyou/midokoro.html 龍神村の観光情報 - 龍神温泉付近の見どころ]</ref>。 |
|||
辞世句 皇國のためにぞつくすまごころは知るひとぞ知る神や知るらん |
|||
===死後=== |
|||
息子の英太郎は15歳未満だった事から無罪放免となり、後に[[戊辰戦争]]に従軍し、最終的に明治まで生き延びた数少ない天誅組隊士となった。明治維新後はアメリカへの留学を経て、名を「長義」と改め、大阪、和歌山、姫路などの地方裁判所の検事を歴任した。また、善之祐は明治維新後に[[勤皇]]の忠臣として、明治31年(1898年)に贈[[正五位]]を賜った<ref>田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.10</ref>。 |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
*『水郡家諸記録/(附)重要文化財錦織神社』水郡庸皓 |
*『水郡家諸記録/(附)重要文化財錦織神社』水郡庸皓 |
||
*『中山家の悲劇/天誅組外伝 |
*『中山家の悲劇/天誅組外伝』天誅組河内勢顕彰会、1967年 |
||
*『天誅組河内勢の研究 |
*『天誅組河内勢の研究』水郡庸皓、1966年 |
||
*『維新秘話中山忠伊公/天誅組外伝 |
*『維新秘話中山忠伊公/天誅組外伝』水郡庸皓、1983年 |
||
*『天誅組の菊の旗幟と半鐘並にさせんどうの不動尊 |
*『天誅組の菊の旗幟と半鐘並にさせんどうの不動尊』水郡庸皓、1987年 |
||
== 関連事項 == |
|||
=== 関連作品 === |
|||
* 『夜明け前 : 主役になれなかった群像 : 天誅組と長州・水戸天狗党』 ,村山岩夫 ,近代文芸社 ,2003年 |
|||
* 『南山踏雲録』 ,保田與重郎 ,新学社 ,2000年 |
|||
* 『岩村藩御領分村々高付覚 : 天誅組・天狗党之乱 : 宗門公事書留 : 他』 ,岩村町教育委員会史料編纂室編著 ,岩村町歴史資料館 ,1995年 |
|||
* 『大岡昇平全集 8』 ,大岡昇平著 ,筑摩書房 ,1995年 |
|||
* 『菊池寛全集 第18巻』 ,菊池寛 ,高松市菊池寛記念館 ,1993年 |
|||
* 『天誅組紀行』 ,吉見良三 ,人文書院 ,1993年 |
|||
* 『天誅組』 ,大岡昇平 ,講談社 ,1992年 |
|||
* 『影山正治全集 第7巻』 ,影山正治 ,影山正治全集刊行会 ,1989年 |
|||
* 『吉村虎太郎 : 天誅組烈士』 ,平尾道雄 ,土佐史談会 ,1988年 |
|||
* 『人間学のすすめ』 ,安岡正篤 ,福村出版 ,1987年 |
|||
* 『中山忠光暗殺始末』 ,西嶋量三郎 ,新人物往来社 ,1983年 |
|||
* 『従軍日録 : 天誅組 文久三年』 ,川合梅所著、志賀裕春編 ,志賀裕春 ,1982年 |
|||
* 『大岡昇平集 7』 ,大岡昇平 ,岩波書店 ,1982年 |
|||
* 『大和郡山市市史研究講座 : 郷土史研究』 ,大和郡山市中央公民館編 ,大和郡山市中央公民館 ,1982年 |
|||
* 『天誅組 上』 ,大岡昇平 ,講談社 ,1979年 |
|||
* 『天誅組 下』 ,大岡昇平 ,講談社 ,1979年 |
|||
* 『天誅組 : 重坂峠』 ,西口紋太郎 ,原書房 ,1978年 |
|||
* 『幕末の動乱』 ,藤本義一他 ,小学館 ,1977年 |
|||
* 『天誅組』 ,大岡昇平 ,講談社 ,1974年 |
|||
* 『北摂に於ける天忠組 : 隠れたる明治維新の史実』 ,阪上文夫 ,中央印刷株式会社出版部 ,1974年 |
|||
* 『森田節斉』 ,新城軍平 ,五条市 ,1973年 |
|||
* 『天誅組始末 : 実記』 ,樋口三郎 ,新人物往来社 ,1973年 |
|||
* 『天誅組始末記』 ,小中陽太郎 ,大和書房 ,1970年 |
|||
* 『天誅組物語』 ,新城軍平 ,新城軍平 ,1969年 |
|||
* 『森田節齋全集』 ,田村吉永編 ,五條市 ,1967年 |
|||
* 『天誅組始末記』 ,新城軍平 ,新城軍平 ,1967年 |
|||
* 『中山忠光卿長州弥富村隠棲の事跡』 ,佐藤良文[編 ,佐藤良文 ,1962年 |
|||
* 『天誅組と東吉野』 ,田村吉永、梶谷信平編 ,船津慶二 ,1962年 |
|||
* 『天誅組義挙録』 ,梶谷信平原著、檮原村教育委員会編 ,檮原村教育委員会 ,1962年 |
|||
* 『勤皇儒者森田節斉』 ,渡瀬修吉 ,和歌山交通新聞社 ,1948年 |
|||
* 『天忠組の道』 ,影山正治 ,大東塾出版部 ,1944年 |
|||
* 『松本奎堂』 ,森銑三 ,電通出版部 ,1943年 |
|||
* 『大和義挙天誅組總裁松本奎堂先生年譜 : 天誅組八十年祭記念』 ,大野一造 ,維新志士顯彰會 ,1942年 |
|||
* 『吉村虎太郎 : 天誅組烈士』 ,平尾道雄 ,大道書房 ,1941年 |
|||
* 『天忠組中山忠光 : 明治維新の先駆者』 ,正親町季董 ,第一書房 ,1941年 |
|||
* 『天誅組罷通る』 ,菊池寛 ,講談社 ,1941年 |
|||
* 『天ノ川辻』 ,戸伏太兵 ,牧野書店 ,1940年 |
|||
* 『南山踏雲録評釋 : 天忠組の戦誌』 ,島田兵三 ,あけび發行所 ,1939年 |
|||
* 『天忠組河内勢』 ,大阪府社會教育課郷土先賢顯彰會編輯 ,大阪府社會教育課郷土先賢顕彰會 ,1937年 |
|||
* 『天誅組紀州落顛末』 ,井上豊太郎 ,起雲閣 ,1936年 |
|||
* 『天忠組中山忠光 : 明治維新の先駆者』 ,正親町季董 ,明治維新発祥地記念碑建設会 ,1935年 |
|||
* 『天誅組』 ,三上於莵吉 ,改造社 ,1934年 |
|||
* 『天忠組の研究』 ,田村吉永 ,桝井基行 ,1932年 |
|||
* 『いはゆる天誅組の大和義擧の研究』 ,久保田辰彦 ,大阪毎日新聞社 ,1931年 |
|||
* 『天忠組の主將中山忠光』 ,正親町季董 ,やまと刊行會 ,1931年 |
|||
* 『森田節斎と郡山 増補再版』 ,武岡豊太編輯 ,武岡豊太 ,1930年 |
|||
* 『森田節斎と姫路』 ,武岡豊太編輯 ,武岡豊太 ,1930年 |
|||
* 『天誅組擧兵始末考』 ,原平三 ,,193- 年 |
|||
* 『天誅組天誅録』 ,東野善一郎 ,萬里閣書房 ,1929年 |
|||
* 『森田節斎先生の生涯』 ,武岡豊太講演 ,武岡豊太 ,1926年 |
|||
* 『中山忠光卿』 ,川崎又次郎編纂 ,中山神社造営事務所 ,1925年 |
|||
* 『天忠組總裁松本奎堂先生晩年の事蹟 : 明治維新第一の犠牲者』 ,武岡豊太述 ,[出版者不明] ,1925年 |
|||
* 『幕末勤王天誅組烈士戦誌』 ,梶谷信平 ,清水一心堂 ,1920年 |
|||
* 『明治維新發祥記假綴』 ,明治維新發祥地記念銅像建立會著 ,樽井藤吉 ,1919年 |
|||
* 『森田節斎と郡山』 ,武岡豊太 [楽山] 編 ,武岡豊太 ,1917年 |
|||
* 『天誅組義士伴林光平一代記 : 附水郡父子一隊の活動』 ,武田彌冨久 ,育文館 ,1917年 |
|||
* 『天誅組の研究』 ,田村吉永 ,中川書店 ,1911年 |
|||
* 『大和日記』 ,半田門吉記、土方直行編 ,田中治兵衛 ,1897年 |
|||
== 脚注 == |
|||
<!--=== 注釈 === |
|||
{{Reflist|group="注釈"}} |
|||
--> |
|||
=== 出典 === |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
{{Reflist}} |
|||
⚫ | |||
{{DEFAULTSORT:にこり せんのすけ}} |
{{DEFAULTSORT:にこり せんのすけ}} |
||
{{people-stub}} |
|||
⚫ | |||
[[Category:幕末の人物]] |
[[Category:幕末の人物]] |
||
[[Category: |
[[Category:河内国の人物]] |
||
[[Category: |
[[Category:刑死した日本の人物]] |
||
[[Category: |
[[Category:正五位受位者]] |
||
[[Category: |
[[Category:1827年生]] |
||
[[Category:1826年生]] |
|||
[[Category:1864年没]] |
[[Category:1864年没]] |
2022年10月9日 (日) 17:46時点における最新版
経歴
[編集]前史
[編集]天誅組の変
[編集]死後
[編集]息子の英太郎は15歳未満だった事から無罪放免となり、後に戊辰戦争に従軍し、最終的に明治まで生き延びた数少ない天誅組隊士となった。明治維新後はアメリカへの留学を経て、名を「長義」と改め、大阪、和歌山、姫路などの地方裁判所の検事を歴任した。また、善之祐は明治維新後に勤皇の忠臣として、明治31年(1898年)に贈正五位を賜った[4]。
参考文献
[編集]- 『水郡家諸記録/(附)重要文化財錦織神社』水郡庸皓
- 『中山家の悲劇/天誅組外伝』天誅組河内勢顕彰会、1967年
- 『天誅組河内勢の研究』水郡庸皓、1966年
- 『維新秘話中山忠伊公/天誅組外伝』水郡庸皓、1983年
- 『天誅組の菊の旗幟と半鐘並にさせんどうの不動尊』水郡庸皓、1987年
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 【河内幻視行】甲田 「天誅組」あえなく賊軍に - 産経WEST - 産経ニュース2019年2月15日 閲覧
- ^ a b 大阪府指定史跡『水郡邸』 - 富田林市役所ウェブサイト2019年2月15日 閲覧
- ^ 龍神村の観光情報 - 龍神温泉付近の見どころ
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.10