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'''水郡 善之祐'''︵にごり ぜんのすけ、[[文政]]9年︵[[1826年]]︶ - [[元治]]元年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]︵[[1864年]][[8月21日]]︶︶は[[幕末]]の[[河内国|河内]]の大地主で[[勤皇]]の志士。天誅組河内勢の首魁。贈正五位。
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[[天誅組]]の挙兵に際しては、財政面で大きな貢献をしたのみならず、自らも息子英太郎とともに参加、小荷駄奉行となっている。天誅組崩壊の後捕えられ、京都[[六角獄]]にて処刑された。死後勤皇の忠臣として、明治31年(1898)に贈正五位を賜った。 |
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2008年10月4日 (土) 05:07時点における版
水郡 善之祐︵にごり ぜんのすけ、文政9年︵1826年︶ - 元治元年7月20日︵1864年8月21日︶︶は幕末の河内の大地主で勤皇の志士。天誅組河内勢の首魁。贈正五位。
諱は長雄。姓は紀氏という。喜田岩五郎の長男に生まれ、水郡神社の祠官となり氏を水郡と改める。豪農で伊勢国神戸藩の代官を勤めたため士籍に列する。勤皇の志が強く、志士達を金銭的に援助していた。水郡家︵喜田家︶は代々勤皇の家で彼の祖父も幕政批判の咎で捕えられている。
天誅組の挙兵に際しては、財政面で大きな貢献をしたのみならず、自らも息子英太郎とともに参加、小荷駄奉行となっている。天誅組崩壊の後捕えられ、京都六角獄にて処刑された。死後勤皇の忠臣として、明治31年(1898)に贈正五位を賜った。