「渡辺政香」の版間の差分
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==略歴== |
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渡辺政香は1776年に[[三河国]][[幡豆郡]]寺津村︵現在の[[愛知県]][[西尾市]]︶の寺津[[八幡神|八幡宮]]で代々神職を務める家に生まれた。父は渡辺助三郎、母、りや。[[1790年]]︵[[寛政]]2年︶に浜島錦城︵文貞・文亭︶に入門し和漢の史籍を学ぶ。この時に﹃'''参河誌'''﹄の編集を決意する。この後、[[伊勢]]の漢詩人の山口凹巷に師事した。[[1799年]]︵寛政11年︶に渡辺家14代目として家督を相続し、[[1807年]]︵[[文化]]4年︶に[[京都]]の神祇伯白川家に入門した。[[1823年]]︵[[文政]]6年︶には[[伊勢]]の国学者、[[足代弘訓]]に和歌を学んでいる。同じ三河の羽田野敬雄︵羽田八幡宮文庫︵現・愛知県[[豊橋市]]︶の創設者︶とも交遊した。[[1836年]]︵[[天保]]7年︶ に﹃'''参河誌'''﹄を完成する。また、同年9月に三河国[[加茂郡 (三河国)|加茂郡]]で起こった[[一揆]]を'''鴨の騒立'''に、同月の寺津村の一揆では、その調停すると共に﹃寺津村旧記﹄に記録した。1840年︵天保11年︶に64歳で亡くなった。後年、寺津八幡社に顕彰碑が建てられている。
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渡辺政香は1776年に[[三河国]][[幡豆郡]]寺津村︵現在の[[愛知県]][[西尾市]]︶の寺津[[八幡神|八幡宮]]で代々神職を務める家に生まれた。父は渡辺助三郎、母、りや。[[1790年]]︵[[寛政]]2年︶に浜島錦城︵文貞・文亭︶に入門し和漢の史籍を学ぶ。この時に﹃'''参河誌'''﹄の編集を決意する。この後、[[伊勢]]の漢詩人の山口凹巷に師事した。[[1799年]]︵寛政11年︶に渡辺家14代目として家督を相続し、[[1807年]]︵[[文化]]4年︶に[[京都]]の神祇伯白川家に入門した。[[1823年]]︵[[文政]]6年︶には[[伊勢]]の国学者、[[足代弘訓]]に和歌を学んでいる。同じ三河の羽田野敬雄︵''羽田八幡宮文庫︵現・愛知県[[豊橋市]]︶の創設者''︶とも交遊した。[[1836年]]︵[[天保]]7年︶ に﹃'''参河誌'''﹄を完成する。また、同年9月に三河国[[加茂郡 (三河国)|加茂郡]]で起こった[[一揆]]を﹃'''鴨の騒立'''﹄に、同月の寺津村の一揆では、その調停すると共に﹃寺津村旧記﹄に記録した。1840年︵天保11年︶に64歳で亡くなった。後年、寺津八幡社に顕彰碑が建てられている。
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渡辺政香は国学のほか漢詩や和歌などを学び、多くの学者や文人墨客と交流があった。そのため多くの[[号]]︵ごう︶を用いていた。保宝葉園・磯泊散人・臥蝶園・仙雲亭寿山・同心軒などである。このうちの磯泊散人と臥蝶園については、政香の生まれた土地よりその由来が推察できる。﹁磯泊︵しはと︶﹂とは[[和名類聚抄]]にある幡豆郡八郷うちの一つで﹁しはつ﹂とも読み、転じて幡豆の語源ともいわれる地名であり、それに号に添えて用いる語の﹁散人﹂︵''本来は﹁俗世間の雑事から離れて気ままに暮らす人﹂などの意味''︶を合わせたものと思われる。また﹁臥蝶﹂は寺津八幡社と縁の深い大河内氏の家紋︵''かつて大河内氏が城主であった寺津城︵1561年頃に廃城︶は臥蝶城と呼ばれていた''︶で、それに蝶の飛びかう場所と掛けて﹁園︵''果樹・花・野菜などを植えた区画された所''︶﹂を合わせたものであろう。
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==主な著作== |
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==関連== |
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===寺津八幡社=== |
===寺津八幡社=== |
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渡辺政香が神職を務めた寺津八幡社は西尾市寺津町西市場にある神社で、[[建久]]年間︵[[1190年]]〜[[1199年]]︶に[[大河内氏]]の初代、顕綱︵あきつな︶によって創建されたとされる。[[1632年]]︵[[寛永]]9年︶の社殿改築時に東照宮を合祀した。祭神は[[応神天皇|誉田別尊]]、[[徳川家康]]で旧[[社格]]は県社。大河内氏︵大河内松平家︶との関わりは深く、境内に﹁大河内氏発祥地﹂や末裔である[[大河内正敏]]︵[[物理学者]]︶による﹁八幡宮﹂の碑が建つ。
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大河内︵おおこうち︶氏は[[源頼政]]の孫の顯綱が三河国[[額田郡]]大河内郷︵現・[[岡崎市]]内と思われる︶に移り住み、土地の名を称したのが始まりであるとされる。従って本来この地は発祥地ではないが、初代によって神社が創建されたという由来や、10代信政の時に寺津城を築くなど、長い間寺津を領地とした関係で﹁大河内氏発祥地﹂の碑が建てられたものと思われる。
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===寺津八幡書庫=== |
===寺津八幡書庫=== |
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﹃参河誌﹄を編纂するにあたり、三河のみならず、[[江戸]]や京、[[大坂]]などから書写したり蒐集した膨大な史料や、自らの著作を納めるために1823年︵文政6年︶に造った。
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﹃参河誌﹄を編纂するにあたり、三河のみならず、[[江戸]]や京、[[大坂]]などから書写したり蒐集した膨大な史料や、自らの著作を納めるために1823年︵文政6年︶に造った。
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収蔵されていた本は、現在「寺津八幡書庫旧蔵本」として西尾市岩瀬文庫に納められている。 |
収蔵されていた本は、現在「寺津八幡書庫旧蔵本」として西尾市岩瀬文庫に納められている。 |
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渡辺政香は |
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[[Category:江戸時代の人物|わたなへ まさか]] |
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2006年1月15日 (日) 00:04時点における版
渡辺政香︵わたなべ まさか、安永5年7月16日︵1776年︶ - 天保11年9月28日︵1840年︶︶は、江戸時代の国学者・神職。﹃参河誌﹄﹃鴨の騒立﹄の編纂者として知られている。