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「牛李の党争」の版間の差分

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=== 発端 ===

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=== 党争の勃発 ===

=== 党争の勃発 ===


[[]][[821]]40

李徳裕は父吉甫が牛僧孺らによって攻撃されたことを恨んでいた。[[長慶]]元年([[821年]])、李宗閔が科挙に関して不正を行ったので、これを攻撃して李宗閔を地方に追いやった。これより後、40年にって牛李の党争が行われる。



長慶2年([[822年]])に李逢吉が宰相に復帰すると裴度・李徳裕はそれぞれ地方に転出させられた。代わって長慶3年([[823年]])には李逢吉の引き立てで牛僧孺が宰相となる。この後、長慶4年([[824年]])に[[敬宗 (唐)|敬宗]]に代替わりし、牛僧孺は[[鄂州]][[刺史]]・武昌軍節度使として赴任した。この時期、李逢吉は[[李紳]]ら政敵をことごとく排斥し、自らの派で朝廷を固めその党派は八関十六子と呼ばれた。

長慶2年([[822年]])に李逢吉が宰相に復帰すると裴度・李徳裕はそれぞれ地方に転出させられた。代わって長慶3年([[823年]])には李逢吉の引き立てで牛僧孺が宰相となる。この後、長慶4年([[824年]])に[[敬宗 (唐)|敬宗]]に代替わりし、牛僧孺は[[鄂州]][[刺史]]・武昌軍節度使として赴任した。この時期、李逢吉は[[李紳]]ら政敵をことごとく排斥し、自らの派で朝廷を固めその党派は八関十六子と呼ばれた。




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=== 維州事件 ===

=== 維州事件 ===

同年に李宗閔は牛僧孺を呼び戻して宰相とし、再び牛党の世となった。

同年に李宗閔は牛僧孺を呼び戻して宰相とし、再び牛党の世となった。




5[[831]][[|]][[]][[]]退

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== 研究 ==

== 研究 ==

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=== 総論 ===

=== 総論 ===


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日本での牛李の党争研究は[[1962年]]の[[礪波護]]によって始められた。礪波は牛李双方の派の出身を分析して、岑仲勉と同じく両派の構成員の出身に決定的な差異は見られず、これが党争の要因ではないとした。李徳裕の「今、中朝の半ばは党人なり」(これは李徳裕の立場から言った言葉なので牛党のみを指す)という言葉があるが、これだけの党人を擁するには科挙合格者だけでは不足であり、党派の要人たちが地方に出された際に行った辟召<ref name="hekisyou">藩鎮の将帥(節度使・観察使)からの招きを受けてその部下となること。</ref>が両派の勢力の形成と拡大に重要な役割を示したのではないかと述べる<ref>礪波1962</ref>。この礪波の指摘はそれまで科挙のみに注目してきた研究に辟召という新しい視角をもたらした点で大きな意味があった。

日本での牛李の党争研究は[[1962年]]の[[礪波護]]によって始められた。礪波は牛李双方の派の出身を分析して、岑仲勉と同じく両派の構成員の出身に決定的な差異は見られず、これが党争の要因ではないとした。李徳裕の「今、中朝の半ばは党人なり」(これは李徳裕の立場から言った言葉なので牛党のみを指す)という言葉があるが、これだけの党人を擁するには科挙合格者だけでは不足であり、党派の要人たちが地方に出された際に行った辟召<ref name="hekisyou">藩鎮の将帥(節度使・観察使)からの招きを受けてその部下となること。</ref>が両派の勢力の形成と拡大に重要な役割を示したのではないかと述べる<ref>礪波1962</ref>。この礪波の指摘はそれまで科挙のみに注目してきた研究に辟召という新しい視角をもたらした点で大きな意味があった。



礪波説に対して[[築山治三郎]]は辟召は両派が勢力を拡大する過程ではあるが、党派を形成する要因ではなく、両派の対立の根幹はやはり科挙出身と門閥貴族との対立であるとした。

礪波説に対して[[築山治三郎]]は辟召は両派が勢力を拡大する過程ではあるが、党派を形成する要因ではなく、両派の対立の根幹はやはり科挙出身と門閥貴族との対立であるとした。

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退[[]][[]]

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[[]]退

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中国での研究はこのように、牛派・李派どちらが是でどちらが非かということに力点が置かれており、新興勢力が進出を果たした要因については言及が薄い(このような傾向に中国の政治状況が反映されていることにも留意すべきであろう)。この点を明確にしたのが礪波の論稿である。礪波は既述のように両派は出自の上に於いては本質的な差は無く、両派が行った辟召が新興勢力の進出を促したとする。

中国での研究はこのように、牛派・李派どちらが是でどちらが非かということに力点が置かれており、新興勢力が進出を果たした要因については言及が薄い(このような傾向に中国の政治状況が反映されていることにも留意すべきであろう)。この点を明確にしたのが礪波の論稿である。礪波は既述のように両派は出自の上に於いては本質的な差は無く、両派が行った辟召が新興勢力の進出を促したとする。


2024年6月9日 (日) 03:27時点における最新版


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退

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稿

脚注[編集]



(一)^ #

(二)^ 

(三)^ 

(四)^ ab使使

(五)^ 

(六)^ 1944

(七)^ 

(八)^ 1994P74

(九)^ ab1957

(十)^ 1962

(11)^ 1989

(12)^ 1984

(13)^ 1994

[]

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1967


:2131962245-270doi:10.14989/152619hdl:2433/152619 

︿ 60941987 NAID 500000010928 


1994 -  -29

1983

[]



1957
2004


1944稿 
1956


1989稿


1984

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