「狩野甚之丞」の版間の差分
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[[慶長]]6年︵[[1601年]]︶11月に父・宗秀が当主・[[狩野光信]]に宛てた[[遺言状]]では、﹁私は病を患い、もはや回復は見込めない。甚吉は年もまいらぬ者だから、万事あなたの良いと思うように引き回してくれて構わない﹂﹁どうか甚吉に目を懸けてやって欲しい。末永く良きよう宜しく頼む﹂と、切々と訴えている。この時、甚之丞は幼名で呼ばれる少年で、まもなく父と死に別れる。光信は宗秀末期の願いを聞き届け、半年後に[[家老]]へ送ったと思われる手紙では、﹁甚吉殿は古法眼︵[[狩野元信]]︶の御跡であるから、代々そなたの家が扱うべき仕事である。甚吉殿は一段と才能があるので、然るべく世話をして欲しい﹂と綴っている<ref>共に﹃[[古画備考]]﹄収録。</ref>。
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[[慶長]]6年︵[[1601年]]︶11月に父・宗秀が当主・[[狩野光信]]に宛てた[[遺言状]]では、﹁私は病を患い、もはや回復は見込めない。甚吉は年もまいらぬ者だから、万事あなたの良いと思うように引き回してくれて構わない﹂﹁どうか甚吉に目を懸けてやって欲しい。末永く良きよう宜しく頼む﹂と、切々と訴えている。この時、甚之丞は幼名で呼ばれる少年で、まもなく父と死に別れる。光信は宗秀末期の願いを聞き届け、半年後に[[家老]]へ送ったと思われる手紙では、﹁甚吉殿は古法眼︵[[狩野元信]]︶の御跡であるから、代々そなたの家が扱うべき仕事である。甚吉殿は一段と才能があるので、然るべく世話をして欲しい﹂と綴っている<ref>共に﹃[[古画備考]]﹄収録。</ref>。
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[[慶長]]末年には成人に達したらしく、[[崇伝|金地院崇伝]]を訪ねて手紙や画扇を届けた記録が残る<ref>『[[本光国師日記]]』慶長一六年十月十四日条。</ref>。[[名古屋城]]障壁画制作に参加し、この中で最も知られた名作・対面所の[[風俗画]]は甚之丞の作とするのがほぼ定説となっている。[[元和]]5年([[1619年]])内裏女御御所対面所の障壁画制作では、未だ若年の[[狩野探幽]]より上位で、光信から変わった当主[[狩野貞信]]に次ぐ席次で参加した。元和9年([[1623年]])臨終する間際の貞信に宛てた一族一門の誓約書に、[[狩野長信]]、探幽に次いで三番目に署名しており、名実共に狩野家内で枢要な位置を占めていたことがわかる。[[寛永]]3年([[1626年]])完成の[[二条城]]の障壁画制作でも、No.3の立場で格式の高い部屋を担当している。甚之丞は何時頃かは不明だが[[法橋]]位に叙されており、こうした度重なる障壁画制作の褒賞として得たものであろう。[[江戸]]で14歳の息子と同時に亡くなったという、享年46<ref>『素川本圖繪寶鑑逸文』『古画備考』。</ref>。 |
[[慶長]]末年には成人に達したらしく、[[崇伝|金地院崇伝]]を訪ねて手紙や画扇を届けた記録が残る<ref>﹃[[本光国師日記]]﹄慶長一六年十月十四日条。</ref>。[[名古屋城]]障壁画制作に参加し、この中で最も知られた名作・対面所の[[風俗画]]は甚之丞の作とするのがほぼ定説となっている。[[元和 (日本)|元和]]5年︵[[1619年]]︶内裏女御御所対面所の障壁画制作では、未だ若年の[[狩野探幽]]より上位で、光信から変わった当主[[狩野貞信]]に次ぐ席次で参加した。元和9年︵[[1623年]]︶臨終する間際の貞信に宛てた一族一門の誓約書に、[[狩野長信]]、探幽に次いで三番目に署名しており、名実共に狩野家内で枢要な位置を占めていたことがわかる。[[寛永]]3年︵[[1626年]]︶完成の[[二条城]]の障壁画制作でも、No.3の立場で格式の高い部屋を担当している。甚之丞は何時頃かは不明だが[[法橋]]位に叙されており、こうした度重なる障壁画制作の褒賞として得たものであろう。[[江戸]]で14歳の息子と同時に亡くなったという、享年46<ref>﹃素川本圖繪寶鑑逸文﹄﹃古画備考﹄。</ref>。
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父宗秀と同じ﹁元秀﹂﹁真設﹂印を用いたため混同されやすく、どちらの筆か意見が割れる作品もある<ref>例として﹁[[タタール|韃靼人]][[狩猟]]図屏風︵[http://67.52.109.59:8080/emuseum/view/objects/asitem/id/26058 左隻][http://67.52.109.59:8080/emuseum/view/objects/asitem/id/15961 右隻]︶﹂[[サンフランシスコ]]・アジア美術館蔵。</ref>。光信の様式をよく学び、その繊細さと優美さを深化させた画趣をもつ。垂れた目尻を強調する容貌や、伸び上がるような姿勢の人物表現に個性があり、風俗画に優品を残した。
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父宗秀と同じ﹁元秀﹂﹁真設﹂印を用いたため混同されやすく、どちらの筆か意見が割れる作品もある<ref>例として﹁[[タタール|韃靼人]][[狩猟]]図屏風︵[http://67.52.109.59:8080/emuseum/view/objects/asitem/id/26058 左隻][http://67.52.109.59:8080/emuseum/view/objects/asitem/id/15961 右隻]︶﹂[[サンフランシスコ]]・アジア美術館蔵。</ref>。光信の様式をよく学び、その繊細さと優美さを深化させた画趣をもつ。垂れた目尻を強調する容貌や、伸び上がるような姿勢の人物表現に個性があり、風俗画に優品を残した。
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2014年7月9日 (水) 01:31時点における版
狩野 甚之丞︵かのう じんのじょう、 生没年不明︶ は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した狩野派の絵師。狩野宗秀の嫡男で、狩野永徳の甥に当たる。幼名は甚吉、号は真説。
伝記
慶長6年︵1601年︶11月に父・宗秀が当主・狩野光信に宛てた遺言状では、﹁私は病を患い、もはや回復は見込めない。甚吉は年もまいらぬ者だから、万事あなたの良いと思うように引き回してくれて構わない﹂﹁どうか甚吉に目を懸けてやって欲しい。末永く良きよう宜しく頼む﹂と、切々と訴えている。この時、甚之丞は幼名で呼ばれる少年で、まもなく父と死に別れる。光信は宗秀末期の願いを聞き届け、半年後に家老へ送ったと思われる手紙では、﹁甚吉殿は古法眼︵狩野元信︶の御跡であるから、代々そなたの家が扱うべき仕事である。甚吉殿は一段と才能があるので、然るべく世話をして欲しい﹂と綴っている[1]。 慶長末年には成人に達したらしく、金地院崇伝を訪ねて手紙や画扇を届けた記録が残る[2]。名古屋城障壁画制作に参加し、この中で最も知られた名作・対面所の風俗画は甚之丞の作とするのがほぼ定説となっている。元和5年︵1619年︶内裏女御御所対面所の障壁画制作では、未だ若年の狩野探幽より上位で、光信から変わった当主狩野貞信に次ぐ席次で参加した。元和9年︵1623年︶臨終する間際の貞信に宛てた一族一門の誓約書に、狩野長信、探幽に次いで三番目に署名しており、名実共に狩野家内で枢要な位置を占めていたことがわかる。寛永3年︵1626年︶完成の二条城の障壁画制作でも、No.3の立場で格式の高い部屋を担当している。甚之丞は何時頃かは不明だが法橋位に叙されており、こうした度重なる障壁画制作の褒賞として得たものであろう。江戸で14歳の息子と同時に亡くなったという、享年46[3]。 父宗秀と同じ﹁元秀﹂﹁真設﹂印を用いたため混同されやすく、どちらの筆か意見が割れる作品もある[4]。光信の様式をよく学び、その繊細さと優美さを深化させた画趣をもつ。垂れた目尻を強調する容貌や、伸び上がるような姿勢の人物表現に個性があり、風俗画に優品を残した。代表作
- 社頭風俗図屏風 (京都国立博物館保管) 紙本金地著色 二曲一双
- 酒仙図屏風 (妙心寺隣華院) 紙本金地著色 二曲一隻
- 帝鑑図屏風 (個人蔵) 紙本金地著色 六曲一双
- 韃靼人狩猟打毬図屏風 (フリーア美術館) 紙本金地著色 六曲一双