「田村直臣」の版間の差分
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{{Infobox 人物 |
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⚫ | '''田村 直臣'''(たむら なおおみ、[[1858年]][[8月9日]] |
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|氏名= 田村 直臣 |
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|ふりがな=たむら なおおみ |
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|画像= 田村直臣七十歳記念之像.JPG |
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|画像説明= 七十歳記念之像 [[岸田劉生]]画 |
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|生年月日=[[1858年]][[9月15日]]([[安政]]5年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]) |
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|生誕地= |
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|没年月日={{Death date and age|1934|1|7|1858|9|15|}} |
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|死没地= |
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|職業=[[牧師]]・[[教育|教育家]] |
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|配偶者= |
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|墓地=[[豊島区]]の[[染井霊園]]}} |
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[[File:Tamura Naomi.JPG|thumb|田村直臣(1907年)]] |
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[[File:米国の婦人.JPG|thumb|[[日本の花嫁]]]] |
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⚫ | '''田村 直臣'''(たむら なおおみ、[[1858年]][[9月15日]]([[安政]]5年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]) - [[1934年]]([[昭和]]9年)[[1月7日]])は、[[日本]]の[[牧師]]。 |
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[[植村正久]]、[[内村鑑三]]、[[松村介石]]と共にキリスト教界の四村と呼ばれた。 |
[[植村正久]]、[[内村鑑三]]、[[松村介石]]と共に'''キリスト教界の四村'''と呼ばれた。 |
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『[[日本の花嫁]]』事件で知られる。 |
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==生涯== |
==生涯== |
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[[与力]]の三男として生まれ |
[[与力]]の三男として大坂に生まれた。[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]から亀井塾に転塾。[[結城英語塾]]、[[クリストファー・カロザース|カロザース]]の[[築地大学校]]で学んだ<ref>明治学院大学 2017年度アジア神学セミナー [http://mswwres.meijigakuin.ac.jp/~kiriken/wordpress/wp-content/uploads/2017/11/2017%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E7%A5%9E%E5%AD%A6%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%A7%8B%E5%AD%A6%E6%9C%9F%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%EF%BC%8812%E6%9C%884%E6%97%A5%EF%BC%89.pdf ﹃﹁宣教師と日本の初期キリスト者たちの関係﹂旧日本基督教会を事例として﹄] 中島耕二,秋学期第9回,2017年12月4日</ref>。[[1874年]]10月18日洗礼を受けた。[[東京一致神学校]]を卒業。
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[[1874年]]︵明治7年︶12月24日、[[日本基督一致教会]]で牧師の[[按手礼]]を受けた。[[1880年]]︵明治13年︶1月に日本独立長老教会銀座教会︵後の[[巣鴨教会]]︶の牧師となった。教会は、1880年2月に京橋区新肴町に移転し京橋教会と改称、[[1885年]]︵明治18年︶4月には[[麹町区]][[有楽町]]に教会を移転し、数寄屋橋教会と改称した。
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[[1887年]][[日本基督教会]]数寄屋橋教会牧師となるが、『[[日本の花嫁]]』事件により、牧師を免職となる。 |
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田村は[[日曜学校]]に力を入れ、児童向けに信仰と道徳を奨める語をアメリカの著作からとって話して聞かせた。1880年にその一つを﹁忠義なる鼓手の話﹂として﹃[[七一雑報]]﹄に掲載し、同年にこれも含む8話を﹃童蒙道の栞﹄という本にまとめて出版した。欧米から翻訳した[[児童文学]]の最初期の一つである。[[1888年]]︵明治21年︶には翻訳児童書としてはじめて[[言文一致]]を取り入れた﹃童蒙道しるべ﹄を出版した<ref>鳥越信・編﹃たのしく読める日本児童文学﹄︵戦前編︶、ミネルヴァ書房、2004年、12-13頁。</ref>。
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⚫ | [[1892年]]に田村は「[[仏教]]の影響下の家庭と[[キリスト教]]の影響下の家庭を比較」するため著書『日本の花嫁』を出版した。田村直臣牧師は、「私の持論なる男女同権論を主張し、日本の風俗習慣を破壊し、新日本に於いて、新ホームを作るの必要を高調し、キリスト教の力でなくては、男女の貞潔を守る事も出来ず、婦人の地位を高めることの出来ないことも極論した。」 |
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この間、[[1882年]]にアメリカに渡り、オーボン神学校に入学した。[[1885年]]にプリンストン神学校を出て[[プリンストン大学]]心理学科を卒業し、修士号を取得した。[[1886年]]に帰国し、数寄屋橋教会の牧師に復した<ref>鳥越信・編『たのしく読める日本児童文学』(戦前編)13頁。</ref>。 |
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[[1893年]][[植村正久]]は『[[福音新報]]』127号で田村牧師を激しく批判した。 |
[[1893年]][[植村正久]]は『[[福音新報]]』127号で田村牧師を激しく批判した。 |
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「『日本の花嫁』は記して曰く、我らは愛と禽獣的の情欲とを同一視す。曰く、わが人民は清潔なる愛を味わい知らず。曰く、日本にては、父親は無限独裁の君主なり。万権これに属す。曰く、親は児女の婚嫁のみに熱心して、その将来の幸福繁栄を慮ることなし云々。この類枚挙するにあらざるなり。これ真実に日本の社会を写し出せるものに非ざるなり。」 |
「『日本の花嫁』は記して曰く、我らは愛と禽獣的の情欲とを同一視す。曰く、わが人民は清潔なる愛を味わい知らず。曰く、日本にては、父親は無限独裁の君主なり。万権これに属す。曰く、親は児女の婚嫁のみに熱心して、その将来の幸福繁栄を慮ることなし云々。この類枚挙するにあらざるなり。これ真実に日本の社会を写し出せるものに非ざるなり。」 |
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﹁今、田村氏は上文のごとき奇怪なる文字を弄して、同胞を外国に誹れり。我輩は氏のために深くこれを愧じ、またこれを悲しまんずばあらざるなり、よし真実なることにもせよ、自国の事は一々これを外国に告ぐるの必要なし。或 |
﹁今、田村氏は上文のごとき奇怪なる文字を弄して、同胞を外国に誹れり。我輩は氏のために深くこれを愧じ、またこれを悲しまんずばあらざるなり、よし真実なることにもせよ、自国の事は一々これを外国に告ぐるの必要なし。或いはこれを隠蔽するの義務あり。況や虚妄の記事を列ねて自国の恥辱を海外に風潮<small>(原文ママ)</small>するや。我輩この種類に属する著書の軽薄を爪弾きす。﹂
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10月に日本基督教会の中会は、[[井深梶之助]]、[[山本秀煌]]、[[熊野雄七]]の訴えにより、﹁同胞讒誣罪(どうほうざんぶざい)﹂で田村直臣を譴責。教会法廷の判決を不服とする田村牧師は大会に上告し、異端でないのだから教会法廷は不当であると主張した<ref>[[日本基督教会]]は緩やかな[[長老制]]をとっており、中会の判決に不服があるときは、大会に上告することができた</ref>。
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10月に日本基督教会の中会は、[[井深梶之助]]、[[山本秀煌]]、[[熊野雄七]]の訴えにより、﹁同胞讒誣罪(どうほうざんぶざい)﹂で田村直臣を譴責。教会法廷の判決を不服とする田村牧師は大会に上告し、異端でないのだから教会法廷は不当であると主張した<ref>[[日本基督教会]]は緩やかな[[長老制]]をとっており、中会の判決に不服があるときは、大会に上告することができた</ref>。
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井深梶之助は、「物には内外の別あるもの也然れども花嫁著者は日本国民の恥辱となるべき事を外国語を以って外国に於いて著述したり」と述べ、[[押川方義]]は「我が祖先が遺したる高潔なる親子間の道徳を誣て海外に恥しむる」と言った。[[無教会主義]]の[[内村鑑三]]は判決に満足の意を表明して「宗教は国家観念のうえに立つものなることは余輩の充分是認するところなり。されども国家の名誉を犠牲に供し、国家を辱めて伝布する宗教は邪道なり」<ref>『内村鑑三信仰著作全集』24 p.55</ref>、と言った。<ref>『キリスト者であることと日本人であること』p.175</ref><ref>『日韓教会成長比較』p.111</ref><ref>『日本プロテスタント教会史』p.142</ref><ref>『井深梶乃助とその時代』2巻 p.366-390に議事録</ref> |
井深梶之助は、「物には内外の別あるもの也然れども花嫁著者は日本国民の恥辱となるべき事を外国語を以って外国に於いて著述したり」と述べ、[[押川方義]]は「我が祖先が遺したる高潔なる親子間の道徳を誣て海外に恥しむる」と言った。[[無教会主義]]の[[内村鑑三]]は判決に満足の意を表明して「宗教は国家観念のうえに立つものなることは余輩の充分是認するところなり。されども国家の名誉を犠牲に供し、国家を辱めて伝布する宗教は邪道なり」<ref>『内村鑑三信仰著作全集』24 p.55</ref>、と言った。<ref>『キリスト者であることと日本人であること』p.175</ref><ref>『日韓教会成長比較』p.111</ref><ref>『日本プロテスタント教会史』p.142</ref><ref>『井深梶乃助とその時代』2巻 p.366-390に議事録</ref> |
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田村牧師と牧会する数寄屋橋教会は、日本基督教会から分離し、免職後も日本基督教会以外からは牧師と認められていた。経営する田村塾から[[山田耕 |
田村牧師と牧会する数寄屋橋教会は、日本基督教会から分離し、免職後も日本基督教会以外からは牧師と認められていた。経営する[[自営館]](田村塾)から[[山田耕筰]]が育った。 |
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[[1909年]]の[[宣教開始50年記念会]]で「基督教文学に付て」の講演を担当。 |
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[[1925年]][[1月8日]]に植村正久牧師が天に召され、その翌年の[[1926年]]に、日本基督教会への復帰が認められた。 |
[[1925年]][[1月8日]]に植村正久牧師が天に召され、その翌年の[[1926年]]に、日本基督教会への復帰が認められた。 |
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==著書== |
==著書== |
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*『信仰五十年史』田村直臣自伝 |
*『信仰五十年史』田村直臣自伝 大空社 |
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*『我が見たる植村正久と内村鑑三』1932年 |
*『我が見たる植村正久と内村鑑三』1932年 |
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*『[{{NDLDC|825356/2}} 童蒙道の栞]』第1集 田村直臣編 十字屋 1880年10月 |
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*『[{{NDLDC|757904/3}} 童蒙道しるべ]』編 十字屋 1888 |
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*『[{{NDLDC|798888}} 米国の婦人]』 田村直臣(有楽堂主人)著、1889年 |
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*『真神を信ずる理由』 田村直臣(有楽堂主人)著、1889年 |
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*『創世記註釈』十字屋 1889年4月 |
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*『基督教と政治』1890 |
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*『霊魂の不滅を信ずる理由』1890 |
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*『[{{NDLDC|825563/1}} 聖書を神の言葉と信ずる理由]』1890 |
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*『対照聖書辞典』 田村直臣編,米国聖教書類会社 1890 |
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*『約翰伝註釈』警醒社 1890 (新約註釈全書) |
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*『[{{NDLDC|824241/1}} 基督教を信ずる理由]』警醒社 1891 |
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*『[{{NDLDC|824377/1}} 基督の神たる事を信ずる理由] 』1891 |
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*『馬可伝・路可伝註釈』1891 (新約註釈全書) |
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*『馬太伝註釈』警醒社1891 (新約註釈全書) |
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*『童蒙をしえ草』一二三館 1891 |
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*『幼年道の栞』田村直臣(三光隠士)編 自営館出版部、1894年 |
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*『廿世紀の日曜学校』警醒社、1907年 |
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*『幼年教育百話』警醒社書店、1913年 |
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*『基督教大意』警醒社書店、1914年 |
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*『基督教倫理』ホーム社、1915年 |
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*『五十二の礎』洛陽堂、1917年 |
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*『子供の心理』警醒社書店、1919年 |
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*『宗教教育の原理及実際』 警醒社書店、1920年 |
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*『巴里講和会議後幕のぞきの記』 警醒社書店、1920年 |
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*『[{{NDLDC|980172/2}} 児童の権利]』大正幼稚園出版部 1926 |
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=== 講演集 === |
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*『[{{NDLDC|824110/1}} 開教五十年記念講演集]』 宣教開始五十年記念会事務所 鵜飼猛 1910 |
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* [[鳥越信]]編『たのしく読める日本児童文学』(戦前編)、ミネルヴァ書房、2004年。 |
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* [[古屋安雄]]『日本の神学』、ヨルダン社。 |
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== 外部リンク == |
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* [http://www.ne.jp/asahi/happy/jollyboy/tamura07.htm 田村直臣牧師の縁の地を訪ねる] |
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{{築地バンド}} |
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{{Normdaten}} |
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*『日本の神学』[[古屋安雄]] ヨルダン社 |
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{{DEFAULTSORT:たむら なおおみ}} |
{{DEFAULTSORT:たむら なおおみ}} |
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[[Category:日本の |
[[Category:19世紀日本の著作家]] |
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[[Category:20世紀日本の著作家]] |
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[[Category:19世紀日本の児童文学作家]] |
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[[Category:20世紀日本の児童文学作家]] |
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[[Category:19世紀日本の翻訳家]] |
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[[Category:20世紀日本の翻訳家]] |
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[[Category:19世紀のプロテスタント信者]] |
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[[Category:20世紀のプロテスタント信者]] |
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[[Category:明治時代の牧師]] |
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[[Category:築地大学校出身の人物]] |
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[[Category:東京一致神学校出身の人物]] |
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[[Category:Master取得者]] |
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[[Category:プリンストン大学出身の人物]] |
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[[Category:プリンストン神学校出身の人物]] |
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[[Category:戦前日本の牧師]] |
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[[Category:キリスト教書籍の著作家]] |
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[[Category:プロテスタントの著作家]] |
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[[Category:日本の男性著作家]] |
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[[Category:日本基督教会の人物]] |
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[[Category:プロテスタント教会から除名された人物]] |
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[[Category:摂津国の人物]] |
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[[Category:大阪府出身の人物]] |
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[[Category:1858年生]] |
[[Category:1858年生]] |
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[[Category:1934年没]] |
[[Category:1934年没]] |
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[[Category:染井霊園に埋葬されている人物]] |
2024年5月16日 (木) 10:37時点における最新版
たむら なおおみ 田村 直臣 | |
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七十歳記念之像 岸田劉生画 | |
生誕 | 1858年9月15日(安政5年8月9日) |
死没 | 1934年1月7日 (75歳没) |
墓地 | 豊島区の染井霊園 |
職業 | 牧師・教育家 |