出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
|
14行目: |
14行目: |
|
|
|
|
|
{{DEFAULTSORT:あいさわしけん}} |
|
{{DEFAULTSORT:あいさわしけん}} |
|
[[Category:戦前・戦中の事件]] |
|
[[Category:昭和時代戦前の殺人事件]] |
|
[[category:昭和維新]] |
|
[[category:昭和維新]] |
|
[[category:1935年]] |
|
[[category:1935年]] |
2009年8月15日 (土) 20:10時点における版
相沢事件︵あいざわじけん︶は、1935年︵昭和10年︶8月12日に、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が陸軍省において、統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した事件である。
概要
日本陸軍においては皇道派と統制派が対立し、1931年の三月事件、1935年7月の皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭問題が起こる。林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告されると、真崎は統制派の永田の陰謀と反論する。
義憤を感じたとされる相沢は、台湾転任を前に陸軍省内軍務局長室において永田を刺殺した。事件後の相沢の公判は二・二六事件により一時中断され、翌1936年の5月に第1師団軍法会議による公開裁判が行われ、同年7月に相沢は死刑となる。
なお、事件発生時は永田は軍務局長室で陸軍内部の綱紀粛正︵過激さを増していた皇道派の青年将校に対する抑制策︶に関する打ち合わせを行っており、兵務課長・山田長三郎大佐と東京憲兵隊長・新見英夫大佐が在室していた。相沢の襲撃に気づいた新見大佐は、永田をかばって相沢に斬りつけられ、重傷を負ったが、山田大佐は局長室から姿を消していた。この事情について山田大佐は事件後、﹁自分の軍刀を取りに兵務課長室へ走って戻り、軍刀を持って局長室にとって返した時には局長は殺害され、相沢は立ち去った後だった﹂と弁明したが、軍内部及び世間から﹁上官を見捨てて逃げ去った軍人にあるまじき卑怯な振る舞い﹂と批判され、さらには相沢と通じていたのではないかという噂までささやかれるに至った︵この山田の不可解な行動についてNHKが﹁歴史への招待﹂という番組の中で取り上げ、疾病による視野狭窄のために周りがほとんど見えない病状にあったからでは、という説を紹介している︶。このため、山田大佐は事件から約2ヶ月後の10月5日に﹁不徳の致すところ﹂という遺書を残し、自宅で自決した。
関連項目